次に親学アドバイザーということを2の(6)に書いています。今日は日本財団の方も来ていただいて支援をいただいているわけでありますが、このPHPの提言の中で親学アドバイザーを育てようということを提言しました。これからその親学アドバイザーの養成講座を作って参ります。これはPHPと連携をしまして、PHPは通信教育もありますし、体験講座を持っております。PHPの友の会は2万人ぐらいいるのでしょうか。別冊PHPという小さな月刊誌がございます。これから6カ月ぐらいで親学のプログラムを確立致します。マニュアルとテキストを作成致します。これは日本財団の会議室を使ってこれから進める予定ですが、親としての学び、親になるための学びのカリキュラムをきちっと作って、一般の親向けと指導者を育てるものと2種類、6カ月ぐらいで作成したいと思っております。
そして、親と子が共に学ぶ体験講座をぜひ開いていきたい。あるいは「道」の文化です。日本の「道」の文化を体験活動する場を作っていきたい。あるいは親と子が共に困難を乗り越える体験、親と子が共に感動する体験、そういうものも作っていきたい。
「おまえら、体験しろ」と言うのではなくて、共に困難を乗り越える。これは長嶋一茂が一時通っていた白根改善学校と言うのがあります。ここは100キロ競歩をやるのです。ゴールインするとき、みんなわんわん泣きながらゴールインしてきます。それは悲しい涙ではなくて、僕だってヒーローだ、こんなに足に豆ができてもう駄目だと思ったけれども、それを乗り越えて最後まで歩けたじゃないか、自分だってヒーローだ。自分に感激して泣いている。自分に感激するという機会はそうたくさんありません。困難を乗り越えるためには、事なかれ主義や安全第一主義では駄目なのです。事なかれ主義、安全第一主義、前例主義を越えていかなければならない。
私は「教育界出る杭ネットワーク」というのを昔から提唱していました。ちょっと出ると打たれるので、どんと出ましょうと。そのために私もどんと打たれているのですけれども。(笑い)しかし、兵庫県のトライやる・ウィークの体験活動がなぜ成功したかと言えば、実は長田中学校の一校長がスリー・デイズ・チャレンジを始めたから成功したのです。
この方は校長会の会長をしておりまして、私と意気投合して、「先生、出る杭ネットワークっていい言葉だ」と。まず校長が出る杭になろうと。その長田中学校は荒れていました。もし子供たちが地域でいろんな体験活動をしたらきっと問題を起こす。従って先生方は慎重になった。そこで校長が「もし問題が起きたら自分が責任を取る」と宣言した。それで先生方は安心して中学生がこれしたい、あれしたいという希望を聞いて地域に出掛けていって交渉した。
そして突っ張りの連中ほど、3日間の名札をはずさないというのです。出社何時、退社何時とそこに書いてあるのですが、今まで遅刻してきた、途中で出て行った、学校で悪さいっぱいやった、暴力もいっぱい振るった、そんな子たちが3日間が終わっているのに名札をはずさない。
「なぜか」と聞いたら、「先生に見てほしいんだ。一度も遅刻していません。一度も途中で出ていっていません。それは、地域の人は熱くかかわってくれるからだ。僕らがちゃらんぽらんなあいさつをしたらぴしっと言ってくれる。レストランでジャガイモを蹴っ飛ばしたら殴られた」。学校でこれをやったら体罰という話になりますが、地域でそれをやられたらみんな納得している。そして「大人が熱くかかわってくれたら、僕らはちゃんとやるんだ。先生方は僕らにあきらめている。僕らの心に真正面から向き合ってくれてない。まさに心施に徹してくれてない」。
私は学級崩壊をあっちこっち回って指導して参りましたが、そのポイントは先生の意識を変えることなのです。全教職員が一丸となって子供に心から話していこうという姿勢ができれば、学級崩壊は立ち直っていきます。
例えば、学年を取っ払ってグループを作りました。そしてある先生はこう書いた。「Aくんは憎々しげに教室を立ち去っていった」。ほかの先生が言った。「先生、それは先生の固定観念、先入観、偏見じゃないか。この子にはこんないいところがあるよ。あんないいところがあるよ」。いろんな先生方との話し合いの中で子供観が変わったのです。子供観が変わるということはとても大事なポイントです。
あの、「五体不満足」、皆さんもお読みになった方が多いと思いますが、「五体不満足」の中で乙武くんのお母さんは、1カ月たって初めてわが子と対面しました。その時にお母さんの口から出た言葉は「かわいい」っていう言葉だったと書いてあります。重い障害を持っている子供を見て、普通なら涙がぽろぽろ流れて「かわいそうに」という世界です。でも涙をぽろぽろ流してかわいそうにと泣いている母を見たらどんなに惨めでしょうか。どんなにつらいでしょうか。お母さんは決して子供の現象の姿を見なかった。命の本質を見た。
私が今日銘石という石を磨いている施設の話をしましたが、それは花輪と言う学園長がいまして、私に「私は30年、極悪非道の非行少年と暮らしてきた。でもこの子たちの人格を疑ったことがない」と言った。「人格と行為を区別しろ」と言った。これは私には目からうろこだった。最も疑わしき人格です。極悪非道、中途半端な窃盗ではないです。とんでもない悪をしでかしてきた極悪非道の非行少年たちです。家庭が悪すぎるために、家庭裁判所がここに入りなさいと指定する施設です。その子たちの人格を疑ったことがない。僕には信じがたかった。
あるいは、北海道家庭学校の谷という先生。北海道家庭学校は網走の近くにある。手錠をはめて、腰ひも着けて連れてこられる。130万坪の大自然の中で、子供たちが立ち直っていく。何をやるかというと全部作業です。牛のくそ出しをする。味噌をずっと作る。いろんな選択の余地があるのですが、自分がやりたい体験活動をしていく。味噌をずっと作りながら、自分を捨てたお母さんに味噌汁を作ってあげたいと書いた子がいます。昔お母さんから作ってもらって飲んだ味噌汁の味を思い出したのでしょうか。そしてそこに感動があった。納得があった。
道徳の時間に親孝行しなさいと教わったのではなくて、体験を通して、感動して、親孝行したいと思うようになった。まさにこれが流汗悟道です。この施設も谷先生は、「自分はこの子たちがどういう生育歴で育ってきたかに関心がない。この子たちがやってきた犯罪や問題行動とこの子たちの人格とは関係がない」と言い切った。
そこには「観の目強く、見の目弱く」がある。これは宮本武蔵の五輪書、水の巻の言葉です。宮本武蔵は五輪書、水の巻の中で観の目強く、見の目弱くと言いました。観の目というのは心の目で見ることです。人格の本質を見ることです。見の目というのはこの肉体の目で見ることです。
私は高校生と話をして、例えばスキンヘッドがいる、あるいは金髪がいる、眉毛のないのがいる、そういう高校生を見ると情熱が熱情にヒートアップします。表面を見ておりません。この子たちの心に向かって話そうといつもそう思います。心に向き合って心施に徹すればどんな格好をした子も注目してきます。
ある意味で心が、コップが下を向いているそういう子供に対して、これを上に向けさせるためには心の琴線に触れる話をすることが大事であります。その心の琴線に触れる話は生き死ににかかわることです。子供の探究心の源は自分捜しにあります。磁石の針が常に北を指しているように、私たちの教育の原点は自分捜しという子供の探究心につながっているかどうか、自分の授業を振り返り、学級経営を振り返り、教育活動全般を振り返る必要があるのではないかと思います。
義家さん、私は卒業旅行で彼の授業を訪ねました。私はもう20年、北星与市という所、高校中退者が立ち直っている施設をずっと回って参りました。学ぶ意欲を失っているはずの子供たちが、授業が楽しくて仕方がないと感想文を書いている。なぜ北星余市の高校生はそんなに楽しくて仕方がないと考えているのか。それは学校教育の中核に心の授業としての総合講座という科目が北星余市高校にはありまして、心の教育とか総合学習と言う前にもうこういうことをやっていたのです。
そこでやっていることは何かというと、地域の文化を体験活動する。北海ソーラン太鼓、民族舞踊、さまざまな伝統文化の体験活動をしながら、命のつながりを実感しているのです。命のつながり、縦の命のつながりと横の命のつながりを実感する。「わっしょい、わっしょい」とおみこしを担ぎながら、わっしょいという声を聞きながら心を合わせるということを学んでいる。他と切り離された個の自由ではなくて、つながりの中の自分を発見する。
例えば、ある中学生がおばあちゃんの世話がしたいと希望しました。顔黒だったために生徒指導で先生に注意された。「まず顔を元に戻せ」「関係ない、私の勝手」と言い張った。親が注意した。「関係ない、私の勝手」と言い張った。これが今の子供の言い分です。自己決定権という思想があって自分で考え、自分で判断し自分で決定する。
私はたくさんの先生の学級崩壊の相談を受けたのですが、居眠りをしている子を注意したら「先生、僕は人に迷惑を掛けてない。静かに休んでいるんです」と言った。余計なお世話というわけです。「私」と「公」ということが分からない。一人でそうしているならいいのです。でも公の場所でやっている。これは問題です。
私はいつも学生たちに尾形光琳の紅白梅図を見せております。紅梅と白梅の真ん中に広い川が流れている。これが日本の感性なのです。日本の文化の核心なのです。私と公、個人と国家、ナショナルとインターナショナル、男と女、教えると育てる、叱るとほめる。絶対評価、相対評価。さまざまな二分法があります。あるいは地方分権か中央集権かという、この二分法では駄目なのです。実態は重層的なコロン構造になっていて、どういうふうに役割分担をしていくかというホリスティックな見方、包括的な見方が必要なのです。パラダイム転換が必要なのです。
そのことに触れているのは2枚目です。レジュメのほうの2枚目ですが、大きな柱の4番目に感性を育む和文化教育のことについて触れております。和文化教育というのは、皆さん、こういう本をご覧になったことがありますか。「『和文化の風』を学校に」という本が明治図書から出ているのです。今年の4月31日でしたか、5月1日にそこに書いてございますように、(3)の所、全国組織で和文化教育研究交流協会ができたのです。これは全国の草の根の動きが出てきたものです。既成の保守陣営の動きではありませんで、全くの草の根の動きです。
この本によりますと埼玉では川口市立青木中学校、埼玉大学附属中学校、三郷市立彦糸小学校、新座市立第四中学校、所沢市立小手指小学校、桶川市立桶川西小学校、吉田町立吉田小学校、これは秩父です。そういう所が子供祭りとか雅楽とか茶道とか、古代米の栽培とか、そういう地域の伝統文化を体験活動するということを大事にしている、そんな動きが出て参りました。
そして(1)の所は、兵庫教育大学の大学院が、専門職大学院の構想として学校教育に和文化の風をというので、日本の伝統文化というものをどう教えていけばいいか。これは文化指導力と言っているわけです。(2)の所です。これからは教科の指導だけではなくて、その文化を継承し発展させ新しい文化を創造していく力、それを育てる必要があるということで、教師教育カリキュラムを兵教大が作っております。これは、大変興味深い。
そのカリキュラムを見ますと必修科目は脳科学になっています。なぜ和文化教育と脳科学は関係あるか。それは、先程も申し上げたように日本の文化の特長はバランスです。脳はアクセルとブレーキのバランスです。私は脳科学という最先端の科学から、もう一度日本の文化を見直してみる創造的再発見が必要だと思っております。
東京都は(4)を見ていただきたいのですが、都立高校が平成19年から「日本の伝統文化」という新しい教科をスタートさせます。そしてその翌年から全公立小・中学校で日本文化の学習プログラムを導入致します。「道」の文化教育研究会を立ち上げたいと思っておりますが、その日本の文化を受け継ぐということと、人格形成をつないでいくという実践。文化の継承を通して感性を育てるという視点。DNAは単に個人のDNAだけではありません。日本人のDNAをいかにしてスイッチオンにするという、これが戦後の教育に欠落していたと、私は思っております。
青年会議所のメンバーと「光齢者から学ぶ」という講座をあっちこっちでやっておりますが、高齢者は高い齢じゃなくて光る齢と書いてある。頭が光っているのではありませんで、おじいちゃん、おばあちゃんから文化を受け継ぐ体験を孫の世代にする。例えば、手織物を教えている体験学習がありました。最初孫の世代の子供は手織物なんかできないものだから、手が不器用でした。でもあっという間に器用さがスイッチオンになりました。私は、日本人のDNAがスイッチオンになったと思いました。
一人一人の人間の内在価値を開発するという側面と、文化を受け継ぐというこの二つを統合的にとらえていく視点が求められております。それはホリスティックな視点です。
5番の(6)を見ていただきたいのですが、私がこれからの教育で大事だと思っているのは教育のパラダイム転換であります。そのパラダイムというのは思考の枠組みですが、どういうふうにパラダイム転換が必要かといえば、そこに感性を育む人権基礎教育、平和教育ということを書いてあります。
一つの例を申し上げましょう。昨年でしたか、私はPTAの全国大会で人権教育の基調講演をさせていただきました。先生方の中には高橋は子供の人権を尊重していないと言う方がいるのですが、とんでもありません。私はだれよりも児童の最善の利益を大事にしたいと考えています。何が児童の最善の利益になるかについては深い配慮が必要です。目先の利益を保障することが児童の最善の利益になるのではありません。子供が自分の人格をしっかりと形成できるように自立心を育てることも大事な役割であります。
教育は、他律から自律へと導いていく試みです。教育は矯正から始まります。型から入るというのはそう意味です。しかしそれは形の奥にある心に気付かせることが大事であって、型だけに終わってはならないのです。
私が基調講演をさせていただいて、そのあと同和教育を一生懸命やっておられる教師の全国の委員長、それから文部科学省の方、そしてアイヌ差別に取り組んでいる方がパネルディスカッションをしました。高橋と、部落解放同盟の系統かどうかよく分かりませんが、一生懸命同和教育に取り組んでいた教師の全国の代表が「がちんこ対決をするんじゃないか」と期待した方もいらっしゃいました。しかし、がちんこ対決はなかった。私がどういうことを申し上げたかと言えば、感性を育てる人権基礎教育が大事だ。相手の人権を尊重するということは、自分をあったかい目で見るという自尊感情がなければ相手の人権を尊重することはできないのです。
自分をあったかい目で見るという自己肯定観、英語ではセルフエスティームと言います。これはハワイでワイアナエという地域でやってきたことです。武蔵丸の故郷です。私はあそこまで行きました。ほとんど武蔵丸が歩いておりました。(笑い)武蔵丸の感じの人が歩いておりました。ワイアナエは暴力が蔓延していたのです。家庭内暴力、学校内暴力、なぜ暴力がこんなに蔓延しているのかみんなで話し合いました。それはセルフエスティームがないからではないか。自尊感情、自己肯定観、自分というものをあったかい目で見られない。自分は駄目だと思い込んでいる子たちが多いからではないか。そこでハワイはセルフエスティームからの平和教育というプログラムを作りました。
実は沖縄県の教職員組合のばりばりの活動家たちが県の教育委員会に入って、沖縄の平和教育のパラダイム転換を図りました。私は明治図書から「平和教育のパラダイム転換」という本を書いておりましてそこに詳しく書いているのですが、沖縄県の教育委員会が平成5年にこういう方針を出した。「他人の立場を理解し思いやりの心、寛容の心を育成する。平和を尊ぶ心を育成する」平和指導の教育手引きには、指導に当たっての留意事項としてこのように書いてあります。「平和を愛する美しい心を育てる文学作品等を多く読むことにより豊かな感性を育てるように努力をすることが、平和を愛する礎となる。平和教育の礎は何なのか。人権教育の礎は何なのか。それは自分をあったかい目で見るという自己肯定観、自尊感情を育てること」と書いています。
沖縄戦を平和教育の教材として指導する場合、「非人間的な残虐な写真・フィルムなどを示し人間の醜い面を強調しすぎて幼児・児童が人間不信に陥ることがないように特に留意する必要がある」と書いてあります。そして子供が作った作品、「平和はよりたくさんの喜びを生んだ喜びの母なのだ」。素晴らしいですね。戦争がないという状態が平和ではないのです。喜びがあふれていれば戦争をしなくても済む。
私は大学院時代に、私の指導教授がペスタロッチの専門家だったものですら、こういう文献を読んだことがあります。「人類から戦争をなくす唯一の道は母と子のスキンシップを回復するしかない」とペスタロッチはそう言った。
当時私は、これは誇張だと思った。飛躍だと思った。人類の戦争というレベルと母と子のスキンシップはあまりにも次元が違いすぎて、それはちょっと極論だと思った。しかし今、憎しみの連鎖によるテロ、あるいは児童虐待、これも世代間連鎖、トラウマの連鎖です。そういうトラウマの連鎖を断ち切るものは何かと考えたときに、それは愛情と信頼しかない。その愛情と信頼は生まれてすぐにお母さんから抱きしめられて、まさに三つ子の魂百までもという、これが人類から戦争をなくす一番大事なものではないのか。
それは気が遠くなるような話だとおっしゃるかもしれないけれども、ここからしか始まらないのではないか。平和というものは身近なところから喜びを広げていく以外にない、身近なところから相性の合わない人とうまくやっていくという場を作り上げるしかない。
これは日教組の教研集会の記録を読んでいたら、戦争の悲惨さを教えていたら子供たちはしっかり見ている。でも終わったらいじめが始まると書いてある。クラスにいじめがなくならないで世界に平和は来るのか。これは、実に鋭い問いです。
私が福岡の伝習館高校という進学校に120周年の記念講演で呼ばれて行きました。昔の写真を校長が見してくれたのです。「教師を殺せ」と至る所に落書きがあった。「教師を殺せ」と言っている高校生が「世界に平和を」というのは矛盾です。
まず、自分の中にあったかい心を育てる。沖縄はそれをやりました。私は沖縄の平和教育の拠点校を全部回りましたけれども、ある学校へ行ったら、「さおが曲がる、カツオが空で鳥になる」という石碑があった。何でこれが平和教育かと思った。でも、釣りに行ってさおが曲がる、カツオが空で鳥になる。そういう豊かな感性を育むことが、戦争をなくす大事なプロセスだと考えた。
そして日教組が戦後50年の時点に「もう一つの平和教育」という本を出した。反戦平和教育から平和共生教育へと書いてある。私はびっくりしました、50年で日教組が大きく変わるのかと。そして、私自身のことも肯定的に書いてありました。今とは大分違います。(笑い)
「高橋史朗氏は、これまでの平和教育は戦争のない状態という消極的な平和の概念に閉じ込められていたが、これからの平和教育は、積極的な平和の新しいパラダイムに立脚して行わなければならないと指摘している」とこう言ったうえで、「われわれが目指していたのは楽しい平和教育だ」と言うのです。「それは自己を変え、社会を変えていく楽しい実践の道であるはずです。それは日教組がもともと歩もうとしてきた道なのです」と書いてあります。残念ながら、今これは絶版になったのか本屋さんに見当たりません。
私は21世紀の教育をどのように再建していくかを考えるときに、この戦後60年続いた不毛なイデオロギー対立からいかに脱却するか、これが大きな大きな課題だろうと思います。そのためには、何を教えるべきかという観点に立つとイデオロギーが対立します。何が子供の心を育むのか、何が子供の感性を育むのか、あるいは、何が子供の脳を育むのかという視点に立てば、これは科学的事実に基づいて、イデオロギー対立を越えることができると思っております。
そういう立場で、感性を育てる人権教育、感性を育てる平和教育、まさにこれが求められている。その意味では、新しいパラダイム転換は、脳を育む、心を育むというところからスタートしよう。私が今、脳科学に注目しているのもそういう理由があります。
上田知事と話をしていた時に、埼玉県の県旗を見て、私はびっくりしました。「幸魂(さきみたま)」ですか。県名の埼玉というのは幸魂から来ていて、それは幸せな魂と、これが幸魂だと。そういう解説を読んでびっくりしました。幸魂というのは、和魂(わこん)です。日本人の心、和魂です。私は今日何度も、三つ子の魂百までも、しっかり抱いて下に下ろして歩かせろと。日本人の子育ての知恵というものがありました。その日本人が大事にしてきた心や子育ての知恵というものを再興していく、取り戻していく、そのことが大事なことだろうと思うのです。
でもそのことを言うと、「昔に帰るのか」と言う方がいるので、そうではありません、脳科学や生命科学という最先端の科学から、それを創造的に再発見しましょう。三つ子の魂百までも、と言ったときに、3歳までが大事だと脳科学から言ったわけではありません。直感的に日本人は言ってきたのです。しかしそのことが、実に3歳までが人間の脳においては決定的に大事だということが、脳科学によって証明されつつあると、そういうふうに考えております。
さて、最後に5番であります。これからのことについて申し上げて締めくくりたいと思います。まず時代認識というものを、私は、今日私たちが直面しているのは二つの危機だと思っております。それは内なる自然破壊と外なる自然破壊という危機です。20世紀は西洋文明が日本文化の世界観に近付き始めた歴史的な転換期です。新しい文明論の提唱者であるカプラという人が指摘しているのですが、デカルトとかニュートンの機械論的な世界観とか、要素還元主義の限界が明らかになって、これからはホリスティック、包括的でエコロジカルな世界観への転換が求められています。そして、それは21世紀の日本人教育の進むべき道を示唆していると私は考えます。
最近、共訳で翻訳した「ホーリズムと進化」という本を玉川大学出版部から出していただきました。ホリスティックというのは包括的なという意味ですが、日本人がもともと大事にしてきた結びの精神、これも包括的です。
第1の教育改革は近代化を理念としました。明治の教育改革です。第2の戦後の教育改革は民主化を理念としました。近代化はモデルを西洋の近代文明に求めました。民主化はアメリカの民主主義にモデルを求めました。アメリカについては、また時を改めて。占領政策の話をすると10日間ぐらい語り続けますので、今日はちょっとでもしゃべらないようにしようと思っております。
その近代化と民主化は、豊かさに導いた素晴らしいプラス面を持っているのですが、否定による進歩という共通の問題点を持っていました。過去の歴史や伝統や文化を否定し過ぎた。過去の中にも受け継ぐべきものがある。
そこで第3の教育改革は否定による進歩ではなくて、補完的進歩。補い合って完成する補完的進歩です。「共創」がキーワードであります。共に創るです。そこに書いております。キーワードは主体変容1の所です。
共創というのは共に創るですが、これは男女共同参画の話でしますと、私は最近女性団体に呼ばれて男女共同参画と、ジェンダーフリーという話をよくさせられるのですが、男女共同参画と男女平等とジェンダーフリーはどういう趣旨か。男女共同参画は何を求めているかと言えば、これは男女共同参画社会基本法の第1条に目的が明示されています。「豊かで活力ある社会を実現する」、これが目的です。豊かで活力ある社会を実現するためには、男と女の違いを否定するほうがいいのか、認め合って補い合って和合し合っていくほうがいいのかと言えば、私はあとのほうだと考えています。
男女共同参画社会が目指しているのは、男女の社会参加の機会の均等です。これは埼玉県ではかつて男女共同参画条例に基づいて勧告書が出ました、「男女共学に改めなさい」と。しかし反対運動が起きて、本来男女共同参画というのは、男女共学に行きたい、学びたい人はその機会を均等に得られるという、つまり機会の均等で、結果の平等ではないわけです。そこがはき違えられているところだ。
2番目に、男女平等というのは男と女の権利が同等です、権利の同等化を目指しているものです。私はここまでは普遍的なものだと思っております。しかし、ジェンダーフリーというのは、教育界にはよく男らしさ、女らしさより自分らしさをとか、男女の特性教育からの脱却という言葉にあるように、これはジェンダーフリー物語になって、おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へしば刈りにという物語になった。
あるいは男らしさ女らしさそのものが差別だと言う方もいる。丸山茂樹がかつてはアリナミンVを飲んで一人で飛んでいった。問題になった。二人で飛んでいった。また、今も違って参りましたが。そういうコマーシャルチェックも起きている。ある小学校の校歌が問題になった。父のような立山連峰、母のような神通川、「これは差別だ」と言うのです。
北海道教育委員会が全道調査をしたら、高等学校で騎馬戦を男女でやっている所がいくつもあった。高等学校でなぜ男女が騎馬戦を一緒にやる必要があるか。これは教育界の常識と一般の常識が大きくずれている点です。
オリンピックの種目を男女混合でやれとはだれも言いません。教育を正常化するということは一般界の常識にすることです。情報を公開することによってその常識のずれを変えていくことが、私は教育を正常化することにつながると思っています。
ジェンダーフリーは、すなわち男女の同質化を目指していることは、つまり豊かで活力ある社会の実現には役立たない。むしろ豊かで活力ある社会を阻むものであります。私は、男女共同参画社会は、男女共創社会、共に創る社会。男と女が和合し合いながら補い合って、そして新しい秩序を作っていく。日本人は宝塚歌劇に男が出られないことを文句言いませんでした。つまらんことを言うなというかもしれませんが、和合の文化を作ってきたのです。それを大事にしながら、しかし、男性の意識にはまだ固定観念があります。
例えば育児に、私はもっと男性が参加するべきだと思っております。それは父親の役割をもっと果たすべきだ、父親の存在感がないから「父よ、何か言ってくれ」と言われる。この国の男性たちは企業では存在感があります。会社では存在感があります。でも家で存在感がない。これを変えないと駄目なのです。
青年会議所の全国の集まりで「誇りある日本人をどう育てるか」という基調講演を頼まれたことがあります。開口一番私は聞きました。「皆さん、おはようと子供に言っていますか」と聞いたら、ほとんど手が挙がらなかった。「おはよう」と子供にあいさつをしないで誇りある日本人をどうやって育てることができるのでしょうか。基本的な人間関係というものはまず家庭から、足場から広げていく以外にございません。
さて、そこで第3の教育改革は共創ということがキーワードになるだろうと思っております。そこに書いておりますようにバランスを取っていくということです。そして2番目にありますように教師と親の意識改革が教育改革の二大課題です。その教師と親の意識改革を促すために、私は鍵を握っているのは親学という視点と脳科学という視点だと思っております。そこでその意識改革を促す4本柱として人間教育・和文化教育・親学・脳科学教育、そういうものを研修の中できちっと確立をして人間力を育てる、文化指導力を育てる。親学、親が親として育っていく、そういう力を育む研修をぜひ確立したいと思っております。
そして6番ですが、授業の名人・生徒指導の達人、そういう人による現場からの教育改革を推進したい。師範塾で今東京・大阪・福岡と先生の研修をして参りましたが、名人や達人の共通点をそこに書いております。夢や目標を持っている。信念や情熱があります。2年目に大阪で入ってきた方は、今カリスマ体育教師と言われていますが、一人で遅刻者をゼロにしました。「一寸先は光」と言っています。一寸先は闇が常識ですが、そういう信念を持っている。ネバー、ネバー、ネバー・ギブ・アップ。絶対にあきらめるなと、情熱を傾けています。そして実行力・持続力がある。チャレンジ精神がある。先生がチャレンジしてないのに「おまえらチャレンジしろ」と言っても「あんたはどう」と言われたらおしまいであります。やる気を引き出す名人。
さて、最後に埼玉師範塾の設立に向けて。来年度埼玉師範塾を立ち上げたいと考えております。そして人間力・教師力・親学力・文化指導力、そういうものを柱に新しい研修を確立して埼玉から首都圏全体に、そして全国に発信していきたいと考えております。
既に秩父では第1回の親学講座を開かせていただきました。今日も秩父から何人もお見えになっていただいております。そしてこれからは行田市でも展開していきたいと思っております。そして全県に、親が変われば子が変わる。先生と教師が元気になる。まず人間教育、そして文化指導力、和文化教育です。そして親学。親に対する指導力を持って責任転嫁しない人を育てたい。学校が悪い、教師が悪い、地域が悪いではなくて、親が自分の責任で子供にしつけをする。そして生活習慣を身に着けさせる。先生はどんなに家庭や地域が荒れていても、自分が心を込めて、心を尽くして心を伝えるという、そういう姿勢を教師と親の意識改革というところに大きな教育改革の柱を打ち立てたいと念願をしておきます。
現場からの教育改革を、ぜひ皆さんと共に埼玉から全国に発信していきたということを申し上げて、ちょっと時間がオーバーしましたことをおわび申し上げて終わりたいと思います。ありがとうございました。(終了)
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