もう一つは児童虐待の問題です。児童虐待は、世代間連鎖が約30パーセントぐらいだと言われますけれども、そのトラウマの連鎖というものをどう断ち切るのか。虐待を受けた子が、どういう反社会的行動になっているか。あるいは、発達障害とどうつながっているか。そのことも第19期日本学術会議の報告書が詳しく記述をしております。
これは文部科学省の検討会でも議論になりました。今まで、環境的要因がどういう影響を与えているか、じゅうぶんに解明が尽くされていませんでしたが、先天的な要因というものは、環境的な要因を触媒として発症しているということが、この報告書の中にも出ております。ならば、どうかかわるかということを私たちがもっと考えねばなりません。
愛着が大事だとまず第1に指摘したのです。2番目に指摘したことは、基本的生活リズムと食育が大事だ。食育、そして基本的な生活リズムです。基本的な生活習慣を身に着けさせるということが、非常に今の親たちは意識が希薄であります。
これは、朝日新聞が「幼児に学級崩壊の芽」という記事を発表したことがあります。その一部はこういうものですが、学級崩壊というものも、この国に10年前、普遍的な現象として存在しませんでした。私がNHKの「おはようにっぽん」の朝の番組で、学級崩壊について5分お話をして、多くの先生の相談を受けましたけれども、この朝日新聞の記事によれば、この3年から5年で幼児が変わったというのですが、その幼児が変わったのは、実は親が変わったからだ。親が生活習慣について意識を持たなくなった。わがままと受容を区別できなくなった。
しつけというものは、基本的な礼儀を身に着けさせることですが、基本的な礼儀を身に着けさせるということは、家庭の役割です。親の責任です。それをしない。わが家にはわが家の方針がある。先生が何か言おうものなら、「余計なお世話」と、こういうふうにいう。そういう親に対して、これからはきちんとものを言っていかなければならないわけですが、そのときに何を考えねばならないかというと、心の発達段階、脳の発達段階であります。
風景構成法と言う心理実験がありまして、これは山とか川とか、「いろいろなものを10並べなさい」と言うと、小学校1年生の子は横にしか並べられない、並列にしかできない。風景を構成できないのです。風景を構成できるのは、10歳ぐらいだと言われます。
私は、今、玉川大学の大学院で教えておりますが、玉川は来年から脳科学に基づいて、4・4・4システムに改めます。つい先日、玉川の先生方に、私は「脳科学を教育にどう生かすか」という講演をさせていただいたのですが、埼玉では、岩槻市の開智学園というのが平成16年から脳科学に基づいて4・4・4にしています。なぜ4かといえば、それは10歳だからであります。
10歳という年齢がいかに大事か。日本学術会議の報告書にも、そのことについて言及があります。あるいは、文部科学省の検討会の報告書にもそのことがございますが、一つのキーワードはHQ。IQは皆さんご存じですね。21世紀の教育のキーワードはHQ。HQは、ヒューマニティークオーティエント。人間性知能であります。
人間性知能はどこにあるかといえば、ちょっと見えないかもしれませんが、このピンクの部分ですね。赤いピンクの部分です。この前頭連合野が人間の中央司令室であります。むかつき、キレる自分をコントロールする、そういう機能はここにあるわけです。なぜチャットをずっとやっていては駄目かといえば、そのコントロール機能が低下するからであります。自分をコントロールできなくなる。この前頭連合野の機能低下というものが起きている。
最近起きている相次ぐ少年の凶悪事件、例えば佐世保の事件、神戸の事件、あるいは佐賀のバスジャック事件。あるいは種元駿ちゃん、4歳でしたか、中1が20メートルの所から突き落とした事件。そういう根本にある問題は、共通していると指摘されています。その根本には、人間性知能というもの、これをどう育てるかという大事な課題がある。
そして、その脳には臨界期があるということも明らかになって参りました。人間の脳は3歳で6割ぐらい細胞ができあがりまして、8歳で9割以上できあがります。そして、HQは8歳をピークにして20歳ぐらいまでが大事な臨界期だと指摘をしているのですが、例えばカマラです。オオカミの中で育てられたカマラのことは皆さんご存じですね。言語を習得する時期は、そのふさわしい時期をはずしてしまったら、もう言語を習得することができない。これが臨界期であります。
臨界期は、あるものとないものとありまして、全部に臨界期があるわけではありません。そのことは日本学術会議が書いておりますけれども、空間記憶とエピソード記憶には臨界期がないということが明らかになっています。
そこで、生涯発達という視点も大事だ。3歳までが大事だという話を、若いお母さんにするといいのですが、時々その話をすると、落ち込む方がいるのです。取り返しがつかない、聞かなければよかったと、こう思う方がいる。(笑い)だから、あくまで脳や心が育まれるというプロセスは、生涯発達するという、生涯発達という観点を忘れてはいけないわけです。じゅうぶん取り返しがつくのだということを一方で言わないと、救いがありません。しかし、それでも臨界期というものがいかに大事かということを、これからは多くの親たちに理解をしてもらう必要があります。
3歳児神話を巡って、厚生労働省が平成10年に厚生白書に、「少なくとも3歳児神話には合理的な根拠がない」と指摘しました。これが少なからず影響を与えたと私は思っておりますが、6月23日に出ました日本学術会議の「子供のこころ」特別委員会報告書には、その点について言及しております。「3歳児神話は神話か」というタイトルで、「1998年の厚生白書が、合理的な根拠は認められないと否定している。ただし、3歳までの間が脳神経系や情緒生活習慣の発達上重要な時期であるのは、科学的事実だ」と、こう明記してあります。
3歳までが脳の発達上は大事だ、これが重要な時期だというのは科学的事実だと、世界子供白書にもはっきり書いてあります。「消すことができない刻印」というテーマで、「この3歳までにどうかかわるかということは、消すことができない刻印を子供に与えるのだ」。そのときにどうかかわるかは、とても大事であります。
東京で、親学講座というものをやっておりますが、小児科医に来ていただいています。小児科医がよくこういうことを言います。最近の乳幼児は、親に目線を合わせようとしないというのです。例えば、一緒に食事をするときに、親子の会話が全然なくて、テレビばかり見ている。そうすると、お母さんのほほ笑みを受けて、ほほ笑み返して、これが情動のキャッチボールです。人間関係能力とか、共感性というものは、まずにこっと笑って、にこりと返す。そこからしかスタートしない。でもいきなり新生児で入れられてしまう、いきなり保育園に入れられてしまう。そのプロセスが果たして子供の心にどういう影響を与えているのか、これはじゅうぶんにこれから研究しなければいけません。
そして更にこう書いています。「この時期にだれがどう世話をするかは、重要な問題である。この3歳児神話の否定論は、3歳までの教育が極めて重要であるという命題そのものを否定するものではない。最近では脳科学の研究から、臨界期の存在などからも支持されている。最も大きな役割を演じるのは両親」、まずは両親だと。親の責任の自覚を促すことはとても大事な課題ではないかと思っております。
今日はいくつかのキーワードがございます。一つのキーワードは主体変容。教育する主体が変わること。子供を変えようとしてもなかなか変わりません。でも、教育する主体、つまり大人が変わること。親が変わること、教師が変わることです。大人が変わることが大事だ。私は、主体変容ということが教育改革の出発点だと思っております。
さて、お手元の資料の順番にちょっとお話をして参りましょうか。(1)については大体今までお話をして参りました。2番目の親の変化について、内閣府のアンケート調査。これは、「子供を育てていると、自分がやりたいことができなくて焦る」と答えた方が3分の2いるのです。
親学というのは、オックスフォード大学のトーマスという学長が世界の学長会議で提唱したことですけれども、「親になるための学び」、「親としての学び」二つの意味を持っています。親になるための学びというのは、親になるための準備教育です。例えば、もっと幼稚園や保育所に子供たちが行って、子供を抱っこする。そういうことをやる必要があります。
有名な話で、中学生が園にボランティア活動に行って、どう遊んでいいか分からなかったら、向こうから園児が駆け寄ってきて、「遊ぶか」と言ってきたという話があります。(笑い)ごちゃごちゃ考えているうちに、単刀直入に「遊ぶか」と聞いてきた。そして、シャボン玉を飛ばしながら幸せそうな表情を見て、とても幸せを感じたと、こういう感想文を書いている。
つまり、その無邪気な幼児の顔を見ながら、実はセロトニンという脳内物質が出てきて幸福を感じるように人間はできている。その乳幼児の世話をすることが、HQが高まる大事なプロセスだと脳科学者は言っておりますが、そういうふうに考えてくれば、ではこの国は今いったいどうなっているかということを考えさせられます。親の育児負担を軽減するだけでは何も解決しません。子育ての本質を見失ってはいけない。子育ての本質は、1対1のぬくもりやかかわり、それを実感する中から育っていくものであります。
なぜ脳科学ということを何度も強調しているかというと、脳というのは、アクセルとブレーキの働きで成り立っております。私が岡本会長から伺ったのは、岡本先生は今もう九十数歳ですけれども、90歳になってから量子力学を勉強しているとおっしゃいました。ちょっとこんな老人はいないと思いますけれども。そして、「私が脳科学を研究し始めたのは」、オーストラリアの学者とおっしゃったと思いますが、「脳には抑制するシナプスがあるという論文を読んで感動した」と言うのです。
アクセルとブレーキ、これが車を運転する大事なポイントです。アクセルを踏み過ぎると暴走します。ブレーキを踏み過ぎると一歩も動きません。今、この国の子供たちを考えると、私はアクセルというのはしっかり抱くという、愛着と受容です。じゅうぶんな愛情と信頼で抱き締められることが、自己肯定感、自尊感情を持つようになることにつながります。
そして、下に下ろすという、これは、多摩動物公園というのが私の大学の近くにあるのですけれども、チンパンジーはわが子を6カ月抱いております。6カ月のあとは下へ下ろします。甘えてきても全部跳ね飛ばします。人間のお母さんよりもはるかにチンパンジーのほうがしっかり抱いて、下に下ろして歩かせている。その抑止力を育てるという段階で、父親のかかわりが必要なのであります。それは、10歳ぐらいに構成力が育つと言いましたが、この時期に父親が子供の壁になる必要がある。私の父親のように、「原稿を持っていっちゃ駄目だ」という壁を作ってくれたことによって、私はその不安感を突破する、そういうエネルギーをいただきました。
ある所で、親に何が言いたいか、標語を集めて優秀賞に選ばれたのは、「父よ何か言ってくれ、母よ何も言わないでくれ」。(笑い)これが優秀賞です。有名なエピソードで、お母さんが1日何回「さあ、さあ」と言うか、お父さんが1日何回「まあ、まあ」と言うか、計算した兄弟がいて、1日にお母さんが「さあ、さあ」と言ったのが59回、お父さんが「まあ、まあ」となだめたのが21回という、これは実話であります。かつては「厳父」、「慈母」と言いました。厳しいお父さんに慈愛深いお母さん。これは理想の家庭でした。今はそんな家庭はあまりありません。
私は、神奈川県で不登校の対策のハンドブックを作る責任者をして参りましたけれども、「長い目で見守れ、信じて待て、登校刺激を与えるな」というだけでは駄目なのです。もちろん、そういう非指示的カウンセリングというものが、カウンセリングのベースにはなるのですが、不登校児が立ち直っていくプロセスを、ずっと私が全国を回っておりながら気が付いたのは、成就感、達成感、成功体験を積み重ねながら、心のうちからエネルギーを引き出してくるということなのです。例えば、神戸は児童連続殺傷、阪神淡路・・・。
(A面終了)
高橋 ・・・実現したいと思って、東京のいろんな議員たちと一緒に回ったことがあります。あるいは私は平成13年3月まで旧自治省で青少年健全育成研究会の座長をしておりまして、政策提言をさせていただいたのですが、その時に自治省の役人や、今井通子という登山家、多くの方たちと一緒にトライやる・ウィークを視察しました。私自身も実際に山に登って木を切って、ヘルメットをかぶって体験活動をさせていただきました。
何と1年目に不登校児は全員第1希望を優先し、自分がやりたいことを体験して、78パーセントの不登校児が再登校の兆しを見せたのです。ところが中学校へ2週間通っているうちに、登校率が34パーセントに落ちた。つまり自分がやりたいことを一生懸命やってやり遂げたという自信が、心のスイッチをオフからオンにするのです。
村上和雄さんという生命科学を研究している方は、人間のヒトゲノムという遺伝子は3千冊分の百科事典の情報量が一粒の米の60億分の1の小ささに書き込まれているとおっしゃっている。ところがその四つの塩基があって30億ペアで組み合わされていると言われておりますが、働いているのは、スイッチオンになっているは3パーセントだと。日本学術会議の報告書を読んでいたら5パーセントと書いてありましたが、3パーセントから5パーセントしかスイッチオンになっていない。そのスイッチオフになっている遺伝子をスイッチオンにするものは何か。村上先生はそれを感動体験・喜び体験・感謝の体験だと言っているわけです。
私はよくお母さん方にレイチェル・カーソンという方の「センス・オブ・ワンダー」という本をぜひ読んでほしいとお薦めしております。「センス・オブ・ワンダー」という本の中でレイチェル・カーソンはこういうことを言っているのです。「子供の感性が育つためには、喜びを分かち合う大人が少なくとも一人、子供のそばにいる必要があります」。喜びを分かち合う、感動を分かち合う。「素晴らしい花だね。素晴らしい日の出だね」ということを、喜びを分かち合うお父さん、お母さんがどれだけいるかです。そのことをレイチェル・カーソンは指摘しているのです。
「日本人の価値観・世界ランキング」という本があります。中公新書ラクレから出ています。それを見ておりますと、「親が子の犠牲になるのはやむを得ない」と答えたのは、日本は73カ国中72番目です。世界の平均は73パーセント、日本は38.5パーセントです。
日本人は心の民族だと言われました。親と子の心のきずなを大事にしてきた民族です。親が子を思い、子が親を思うという心の民族です。オカヤキヨシはそのことを強調しました。でもその心を大事にしてきた日本民族が、今、心の教育を強調している。あるいは、あの阪神淡路大震災から命を大事にする教育を10年やってきた。しかし命を大切にする教育が成果を上げたでしょうか。
私は心の教育や感性教育をライフワークでやって参りました。しかし、命を大事にするという教育がなかなか前に進まない。かえって少年の凶悪犯罪が増えるし、むかつき、キレる子はどんどん増えるし、親殺しあるいは子殺し、そういう悲惨な現実がどんどん拍車を掛けています。
その根っこにあるものを考え直さないと、どうも心の教育も感性教育も表面的なものになってしまう。私はいつも三角柱で表現しているのですが、三角形の頂点が徳育・知育・体育です。その底辺に当たるものが感性だと私は考えています。感性というのは土壌なのです。土壌を豊かに耕す、根っこをしっかりと大地に張る。これは第一に家庭教育の役割です。
例えば8月15日に迎え火をする。迎え火をしながら先祖と自分の命がつながっているということを実感できます。そういうことを家庭でやる。今どれだけやっているかです。学校の道徳の時間に命を大事にと言う前に、家庭の伝統的な行事の中でそういう宗教的情操を育ててきた。そういう心が、今、大人たちの中から、生活の中からどんどん失われているのではないかと思うのです。
「雑巾をスーパーで買わないで、自分で縫って渡してほしい」とある校長先生がお母さん方に呼びかけたら、若い元気のいいお母さんが手を挙げて「先生、雑巾はスーパーで買おうが私が縫おうが雑巾は雑巾じゃないですか」と言った。そしてほとんどのお母さん方が手をたたいた。木村治美と言う方からそういう話を聞いたことがあります。
つまり、お母さんが縫ってくれたというプロセスが、子供の心を育てるという、そのことが分からなくなってきた。私は今55歳ですけれど、55歳にしては派手な背広を着ていると皆さんお思いになっている。(笑い)これは、家内の実家は秩父ですが、そこで作った手織物です。ネクタイも手織物であります。
本来教育は、手間ひま掛けて生糸を織り合わせて、オンリーワンの製品を作るという手織物の世界です。でも学校は黒板を使って一斉に授業をする。つまりこれは工場の論理です。この合理化や効率化が教育の量的拡大を進め、進学率をアップさせ、マンパワーによる経済成長を成し遂げた成功の原因であります。しかし、経済を成功に導いた要因が子供の心の荒廃とか親子の心のきずなの崩壊の失敗因になっているという、そこを見直さなければならないということを私は何度も申し上げております。
大脳生理学の権威で東大の時実利彦という方がいます。最近あまりこの方の名前を見ませんが、大脳生理学の権威で「脳と人間」とかいろいろな名著を書いておられます。この方が教育についてこういう定義をしております。「教育とは欲望を抑止する訓練である」。教育は他律から始まります。そう言うと画一教育をスキル教育だと言う方がいるので教育は混乱しているのです。
千利休の言葉に「守破離」という言葉があります。これは昨年ビートたけしのTVタックルに私も出させていただいて、ここだけはカットされませんでした。あとは大幅にカットされたのですが。あの番組は2時間収録していて40分しか放映しませんから、3分の2はカットされているのです。私が外国の教育をパネルで詳しく紹介した所があるのですが、そういうところは全面カットされました。テレビは短く簡潔に言わないと駄目だということがよく分かりましたが、この言葉は大変気に入ってくれた。「いい言葉ですね。高橋さんらしいね」と阿川佐和子さんは言いましたが、私の言葉ではなくて千利休の言葉です。千利休は「規矩作法守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」こう言ったのです。規矩というのは規準、物差しです。本(もと)というのは基本のことです。
まず教育の原点は基本の型を継承することにあります。例えば日本の「道」の文化を考えてください。柔道・華道・剣道・茶道どの道の文化を考えてもそれは基本の型というものがあって、それは子供の興味や関心で選ぶことはできません。私はやだと言ったら、ではあやめなさいという話です。それはただ形を模倣する、例えば書道でもお手本をまねします。そのお手本のまねをしながら形の奥にある心に気付かせる。それが大事な教育です。まず基本の型から入る。これが「守」です。
岡本先生にその話をしたらそれは脳科学から言えるのだ。子供に自由に選びなさいというのが子供の脳を活性化するのではなくて、基本の型をきちっと学ばせることが子供の脳を活性化する。脳科学からも守ということが大事だということを言っておられるのです。今埼玉でも和装をしながら礼法をしているときの脳波を測定する。あるいはこれから始まりますけれど茶道をしているときの脳波を測定する。日本の文化を継承しているときに前頭連合野の脳がどうなっているか。
今日も来ていただいているかもしれませんが、既に飯能市の白鳥幼稚園と言う所では北海道大学大学院の澤口先生と日立基礎研究所の共同研究で、4歳から6歳児の前頭連合野の機能を測定するという、世界初の研究はこの白鳥幼稚園から始まっております。
そして川口の東本郷小学校では「ゲーム脳の恐怖」を書いた森昭雄先生が、「このゲーム脳というのは小さいころからゲームをやり過ぎていると認知症の老人と同じ脳波の状態になっている。ベータ波がどんと下がる。だからゲームをやり過ぎている子にはもっと読書をさせなさい。そして手で感想文を書かせなさい。携帯でずっとメールをやってばっかりの子供にも脳に異変が生じている」そういうことをおっしゃっていまして、先日も川口で教育委員会の主催でしょうか講演会をやったら600人集まったと聞きました。
抽象的なこうあるべき、あああるべきと言うよりも、子供の脳に何が起きているのかということを親たちに伝えていくことが大事です。もちろん脳科学を教育に実践化するためには慎重な配慮が必要です。インフォームドコンセントと言われる父母の同意を得る必要があります。
その点については慎重に慎重を重ねねばならないのですが、私はただ慎重にという前に、この脳科学を通して子供の心に起きている問題、心の闇という漠然とした言葉でくくらないで、例えば大脳辺縁系の扁桃体とか、あるいは海馬の近くにあるものがキレるということに関係しているということが分かってきた。あるいはADHDの根本にはドーパミンという快の常道回路とノルアドレナリンという不快、これは不安とかストレスですね、そういうものの不足があるということも分かってきた。そういうことをきちっと踏まえたうえでかかわる必要があります。
もし、特別支援教育に関心がある方は「脳と障害児教育」という本をぜひ見ていただきたい。ジアース教育新社という所から出ています。素晴らしい本です。養護学校の先生が中心になって学者と提携してまとめた本ですが、障害児の脳を測定しながら、それを実際の教育に生かしています。最も進んでいるのはこの特別支援教育の分野かもしれません。
さて、また私の資料に戻りますと、2番の親の変化の所の4番です。雑巾の話は、今しました。その次に、給食費を払っているのに、なぜ「いただきます」、「ごちそうさま」を強制するのかと言ってきた親がいるというのです。(笑い)あるいは園長が手弁当を作ってほしいとお願いしたのですが、ウィダーinゼリーを持ってくる子供が複数いる。
わが子を愛せない。最近コマーシャルにもなっています。児童虐待は1990年代に入って急増しておりますけども、わが子を愛せないというお母さんが増えてきました。どういう指導をしたか。文部科学省の検討会の報告を聞いておりましたらこんな事例がありました。どうしてもわが子を愛せないというお母さんに対して、「どういう献立を作っているかちょっと書いてみてください」。そしたらインスタント食品が多かったというのです。働いているお母さんだから時間がない。でもできるだけ手間ひま掛けて手料理を作る努力をしてくださいとお願いをした。そして手間ひま掛けて手料理を作る努力をしたら、この料理を子供に食べさせてやりたいという愛着心がわいてきて、子供を抱きしめることができるようになりました。そういう報告がありました。
あるいは、私がヨーロッパを旅行している時に「ノミのサーカス」という番組を見たことがあるのですが、ノミはこの筒の中をジャンプしているのです。だんだん小さくなってはうようになります。そしたらやがてこの筒を取り出してももう飛ばない。そして曲芸をする、サーカスを教えるというのです。
5歳の女の子と話をしました。「私、5年も生きてて疲れちゃった」と言いました。もう飛ばなくなったノミと同じ状態です。尾崎一雄と言う小説家が「虫のいろいろ」という小説の中でガラス容器にノミを入れる。ノミはジャンプしてだんだん飛ばなくなる。ついにはうようになる。そしたらガラス容器から取り出しても2度と飛ばない。だからサーカスを教えると書いてあるのです。
今、子供たちが飛ばなくなった。生まれてすぐに白けている子はいません。ほどほどの人生を生きてやろうと白を切っているのは、それもいないはずなのです。でも5歳児が、もう5年も生きていて疲れちゃったとため息をついている。退職の先生みたいなものです。でも果たしてなぜそういう状態に疲れ果てているのか。ある企業の社長が退職をされて自分の人生はいったい何だったのかと振り返った方がいると聞きました。
桂三枝の創作落語に面白いのがあるのです。「ええかげんに働いたらどうや」と、家でごろごろしている若者におじいちゃんがお説教する場面です。「働いたらどうなるん」と言い返した。「働いたらお金が手に入る」と言った。「お金が手に入ったらどうなるん」と聞いた。「お金が手に入ったら自由に時間を過ごせるようになる」とおじいちゃんが言った。そしたらこの子は「おじいちゃん、だから僕は今こうやって自由に過ごしているんや」と言った。
つまり何のために学ぶのか、何のために学校に行くのか、そのことが問われています。なぜ義務なのか。私どもは小さいころなぜ小学校に行くのか、中学校に行くのか、あまり疑問を持たなかった。でも今の子たちはなぜ中学校に行かねばならないのか。なぜ義務なのか。それも問い始めている。私は全国の不登校の子供たちの施設を回りながら、いろんな会話をしてきました。そんな中でそういうことも感じました。
学校に行けば、自分が自分でなくなってしまう。私のゼミには不登校を経験した大学生がたくさん入ってきていますが、生野学園という神経症的登校拒否の全寮制高校が兵庫県にあります。そこに行ったらこう言ったのです。「僕は今まで親のために学校に行った。でもこれからは僕のために学校を休みたいと思ったのです」。つまり学校に行かないことが自分捜し。子供が何を求めているのか。子供の探究心は自分捜しです、自分の存在価値、自分の生きる意味。
私はいつも中学生や高校生、全校生徒に講演する時に、14歳でお父さんから「おまえは筋ジストロフィー症だ」と告げられた中学生の話をします。筋ジストロフィー症というのは筋肉が萎縮して20歳ぐらいで亡くなる難病ですが、この子はお父さんからそのことを告げられて猛勉強を始めたのです。「なぜそうしたと思いますか」と聞くのですが、10年ぐらい前まではほとんど答えが返ってこなかった。みんな困ったような顔をしていました。ところが最近5年、10年ぐらいで、どこに行っても見事な答えが返ってくるようになりました。
それは、どういう答えをしてくるようになったかというと、「この子は将来のために勉強しているのじゃなくて、進学や就職のために勉強しているのじゃなくて、今を完全燃焼して生きるために、今を生き切るために勉強しているのじゃないでしょうか」、こういう答えが返ってくるようになりました。私は大変鋭いことだと思ったのです。
その中学生が書いた詩があるのですが、こういう詩です。「たとえ短い命でも生きる意味があるとするならば、それは何だろう。働ける体で一生過ごす人生にも生きる価値があるとするならば、それは何だろう。もしも人間の生きる価値が社会に役立つことで決まるなら、僕たちには生きる価値も権利もない。しかしどんな人間にも差別はなく、生きる資格があるのなら、それは何によるのだろうか」。こういう詩を書いているのです。
私が今までいろんな教育実践で感動した中に「私が生まれた時の話」という実践があります。これは小学校で行われた実践ですが、子供たちが全員、自分が生まれた時の写真を張るのです。横に親がどう思ったかという感想を書いているのです。それをみんなの前で読み上げるという授業です。
これを長野県では豚の出産シーンのあとやりました。豚小屋の近くに若い先生が寝泊りをして、そろそろ豚の子供が生まれそうだというので、「みんな集まって来い」。小学校の低学年の子供が集まってきて、そして夜中から「頑張れ、頑張れ」と。ジュンコと名付けられた豚がいまして「ジュンコ頑張れ、ジュンコ頑張れ」と言いながらみんなも泣いています。命の誕生というものを目の前にして感激して泣いているわけです。それが終わったあと自分が生まれた時のお母さんの思いを読んで、ほとんどの子たちが泣きじゃくったり、立ちすくんでしまったり、座り込んでしまう。
つまり、こんなにもお父さん、お母さんは自分という存在を待ち望んでくれていたのか。自分が生まれることをこんなに喜んでくれたのか。つまり自分の存在価値、それが子供の感動の一番の要になるものです。豚の出産という体験活動がそこに終わらないで、この体験活動を通してどういう意味や価値に気付かせるか。
北海道家庭学校という所が「流汗悟道」という教育方針を持っています。流す汗を通して道を悟る。日本は道を教え込む文化ではないのです。道に気付かせる文化なのです。悟道の文化なのです。何を通して道に気付かせるかと言えば、それは体験を通してです。汗を流すという体験を通して気付かせる。例えば横浜には入れ墨をしているような非行少年たちが、銘石という自然石の傷を毎日6時間磨いております。石の傷をやすりで毎日6時間磨きながら、これから僕の心をぴかぴかに磨いていきたい。僕の人生をぴかぴかに磨いていきたいと書いて弁護士になったり、医者になったり劇的な立ち直りをしています。
つまり、体験を通して自分自身の自己発見です。これはイエローハットの鍵山さんの手でトイレ掃除をするというのも。手でトイレ掃除をするのはものすごく抵抗がありますけれども、10分、15分やっているともうのめり込んで、いつの間にか実は自分が親に反抗してきた、先生に反抗してきたそういう自分の心を磨いているのです。石の傷、トイレの汚れ、そういう目に見えるものをきれいにしながら、目に見えない心が育っていくわけです。
ところが、トイレ掃除は業者を呼んで、余った時間で心の教育をやっているという学生がいてびっくりした。「私の学校はこうでした」と。まあこういう学校はそんなにないと思いますけれども。目に見える汚いものをきれいにしないで、目に見えない心をきれいにするなんてことはあり得ません。
私は松下政経塾という所の審査員もさせていただきましたが、松下政経塾では松下幸之助さんはいつも「お前ら便所掃除しとるか」、これが塾生にかけた言葉です。頭でっかちな塾生に対して、下座の業、トイレ掃除を手でできないものが天下国家を語る資格はない。21世紀地球環境、環境問題を語る資格はない。そういうことでございましょう。
凡事徹底というのがその社訓でした。平凡なことを徹底してやる。今日は先生方がたくさんお集まりいただいていると思いますが、先生方は雑務がいっぱいあります。この雑務がもっと簡略化されたらもっと楽になると多くの方が思っていらっしゃると思いますが、それはある意味で凡事徹底ということにもつながることではないかと、私は思います。
さて、レジュメのほうに戻りまして、もう少し先に行かせていただきます。「親学の拠点」作りということを2番目に掲げておりますが、これは埼玉県でも4年前に策定しましたものを見直す、アクションプランの見直しという議論を教育委員会でもして参りましたけれども、これからは学校が親学の拠点になる。親になるための学び、親としての学び、そういうものを深める拠点にしていこうと、こういう議論もして参りました。PHPの提言の中でも、これからは親学の拠点を作ることが大事だという提言をしてきたわけです。
その親学は脳科学に基づく親学と(5)に書いてございますけれども、子供の発達段階に応じてしっかり抱くというプロセスと下に下ろすというプロセス。優しさと厳しさのプロセス。その二つのかかわりがあって初めて自立するのだということを親に納得してもらう必要があります。親を説得しようとしても親は逃げていきます。ですから東京でやっているものは、例えば最初は弱音や愚痴をただ言い合う会です。弱音や愚痴を言い合う会でしか、なかなか本当に話を聞いてもらいたい方は来ません。これは多くの方が経験しておられる通りです。
一番話を聞いてほしい親はなかなか講演会には来ませんし、私もよく学校に入っていますが、せっかく先生方の授業を見て私の講演会をやろうとするときにだーっと帰っていくのを見ると、悲しいなと思います。
こうあるべきということを押し付けると親はどうしても反発します。だから、弱音や愚痴を語り合う、それを1時間も2時間も話し合っているだけで随分心は楽になるものです。お互いに悩んでいる、子育てに苦しんでいる、そういう親たちが集まってきて、それは地域においても学校においても親学の拠点ができるだけ継続的に作られて、そこでいろいろと話し合ってみる、それは大事なことです。
そしてもう一つ大事な工夫は、例えばドラマセラピーという手法を使っておりますが、不登校児の親には不登校の役をさせて、「どうして学校に行かないの」というふうに言わせる。そしたら、「あ、こういう気持ちで子供は学校に行けなかったのか」ということに気付く。そういう、いかに気付かせるかという工夫が大事です。こうあるべきという建前論を押し付けるのではなくて、いかに納得させるか。感動があれば納得します。納得すれば本音が育ちます。
私は感性教育、感性を育てる教育は感動の輪を広げる教育だと思っているのです。納得の輪を広げる教育だと思っています。今はまだ親学に対して、あるいは脳科学に対して完全な合意は成立していません。多くの方のご理解はまだいただいておりません。いかに納得していただくか、納得の輪を広げていくか、いかに感動の輪を広げていくか、それがこれからの課題だと私は思っております。
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