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4. 基調講演
4-1 「埼玉県の教育改革をいかに推進するか」講演録
講師:高橋史朗
 皆さん、こんにちは。今、ご紹介いただきましたけれども、私は30歳の時にアメリカに留学を致しまして、240万ページのGHQ文書というものを研究致しました。当時、年間100枚しかコピーができなかったために、私が筆写した資料だけで段ボール10箱を超えております。ひたすら、3年間考えておりましたのは、戦後日本が何を得て何を失ったのだろうかということをずっと考え続けて参りました。
 日本に戻りまして、翌年ですか、政府の臨時教育審議会という専門委員になりまして、3年近く教育制度の改革論議に参画致しました。私が所属しましたのは第1部会といいまして、教育理念について議論する部会でございました。本来であれば、第3の教育改革といいまして、第1は明治の教育改革、第2は戦後の教育改革で、それに続く第3の教育改革はどういう教育改革かという理念をじゅうぶんに議論すべき会でございましたが、「すぐに実行可能な改革案を作れ」という政治の要請から、だんだんとその議論ができなくなりました。
 つい先日、元臨教審会長の、京都大学の総長をされた岡本道雄先生から携帯にお電話がありまして、京都大学病院にお見舞いに参りました。一番最初におっしゃったのは、「臨教審の総括を君はどう考えるか」と、こういう話でございました。もう一つは、岡本先生は脳科学の基礎研究の権威でございまして、臨教審時代によく脳の話をされました。私は、脳は心の一部だし、人間性の一部だから、あまり「脳、脳」とおっしゃるのはいかがなものかと実は内心思っておりまして、「脳」とおっしゃるたびごとに、心の中で「ノー」と叫んでおりました。(笑い)
 ところが、この5年ぐらいでしょうか、子供たちの変化というものを見ますと、根本に、例えば事件が起きますと、マスコミは「心の闇」と言います。しかし、心の闇ではなくて、明らかに脳の問題というものが起きている。そこをきちんとメスを入れて、子供の心の変化の奥に何があるのかということをきちんととらえて対応しないと、これは解決にはならないのではないか、そんなふうに思うようになりました。
 あるいは、臨教審が終わりまして、私はむしろ現場主義に転じました。上からの制度改革だけでは限界があるのではないか。子供が変わるというのは、子供が触れている大人が変わること、教師が変わること、親が変わること。それが一番の近道ではないか、そんなふうに思うようになりました。
 そして、不登校の子供が立ち直っているフリースクールを、全国回りました。高校中退者が立ち直っている所を回りました。学級崩壊、いろいろな所を回りました。いわば中学・高校を中心に荒れている学校、いわば問題行動にどう対応するかという、もぐらたたきのようなことをずっとやって参りました。
 しかし、近年、それでは間に合わないのではないかという危機感を持つようになりました。もぐらがどんどん出てきて、それを一つ一つ打っていってもちょっと間に合わない。その根っこに何があるのか、なぜこんなに相次ぐ少年の凶悪事件が起きているのか。あるいは、なぜこんなにむかつき、キレる子が増えてきたのか。なぜ学級崩壊がこんなに広がっているのか。対症療法では間に合わない。もっと根本の問題を考えなくては駄目ではないか。こう思うようになりました。
 では、その根本の問題は何かといえば、家庭教育の問題、親の問題ではないかと思うようになりました。今日は親学という問題提起をさせていただきますけれども、サブタイトル、皆さんお手元にレジュメがありますでしょうか。人間力、文化指導力、親学力という、この三つをキーワードに現場からの教育改革について、私の考えることを申し上げてみたいと思うわけであります。
 まず、冒頭に、「今、なぜ親学、脳科学教育なのか」という、いきなりそういう問題提起をさせていただいておりますが、こんにちの子供たちの問題、よく言われますのは対人関係能力が低下している。それから、社会力が衰弱している。社会力というのは、人間とつながって社会を構成していく力であります。
 なぜ、この国にこんなにニートが多いのか。ニートは、教育を受けていない、働いていない、職業訓練を受けていない若者でありますが、あるいは、何十万と言われる社会的引き込もりの青年がいるのか、その根本にあるものはいったい何なのか、そういうこともまた考えねばならないことではないかと思うのです。
 今日、お手元にそのレジュメとそれから資料としてプリントをお配りしていると思うのですけれども、この資料です。左側に、産経新聞に書きました、PHPの政策研究会で作りました提言15です。特に、現場からの教育改革という視点でまとめたものをそこに少し紹介させていただいております。
 この会が立ち上がるにあたりまして、教育関係者に意見を聴取しました。ところが、どうも教育現場が疲れている。大地が枯れているのに素晴らしい花や実を咲かせようとしても、まずどうして肥沃な土壌を作るか、そういうことが大事ではないか。それは、親と教師の意識改革ということが一番大事な2大課題になるのではないか。そんな思いでまとめさせていただきました。
 3段目、ちょうど真ん中の所に、その提言の15の中で、私が埼玉県から発信していきたいと考えていることについて書かせていただきました。一つは、教師による新たな職能団体を発足、育成する。これは、職能団体というものは、皆さんどういうイメージか分かりませんが、研修・研究団体であります。昭和22年に教育刷新委員会という所が、新しい職能団体を作る必要があるということを総会で決議したわけですが、残念ながら、これは実現には至りませんでした。ある意味で、教育界の構造改革というものを進めていく、そういう研修・研究団体、これが大事ではないかと思っております。
 2番目は、「学校を親としての育ちを図る親学の拠点とする」と書いてございますが、親学というのは、「親になるための学び」と「親としての学び」、二つの意味を持っているのですけれども、これからは幼稚園も保育所も学校も、親学の拠点。子供が育つのは当然ですが、子供に対する指導力だけではなくて親に対する指導力が必要ではないかと思っております。
 今、親は勝手なことを言います。先生を先生と思っておりません。そういうときに、引いては駄目だ。私は、広島の安西高校という所に、これはテレビでたまたま見た時に、山廣という教頭先生、今は校長先生になっておられますが、この方の素晴らしいインタビューが出たものですから、お会いして参りました。「先生、学級崩壊で大変でしたね」と聞いたら、「いや、学校崩壊でした」とおっしゃった。生徒たちがお好み焼きを頼む。それを教室で食べる、廊下で食べる、食べ散らかす。秩序がなかった。「先生方はどういう対応をされましたか」と聞いたら、「この子たちは学歴社会や入試競争の犠牲者だ。文部科学省や教育委員会の誤った教育政策の犠牲者だ。この心の居場所を守ってあげましょう」ということを言った。
 でも、そのときに山廣先生は、「あなた方はあきらめ症候群だ。この子供の現実にどうかかわるか。自分はまず、テントを校門に張って、一人一人、遅刻してくる子を注意する」。私は「心施」という言葉が好きなのですけれども、心を施すと書きます。心を込めて、心を尽くして、心を伝える。私は教育の極意は、この一言に尽きていると思っているわけであります。
 そして、ゼロトレランス方式を採用されました。「校則に反している服装をしてきた子は学校を休んだと見なす」と通告をして、毅然たる態度を示したら、子供たちはあっという間に髪の毛も元の姿に改めてきた。決して上から厳しく取り締まっているわけではありませんで、校長先生と一緒に学内を回りましたが、もう教室、授業中にもかかわらず、生徒たちが校長に会釈をする。とても信頼されている、厳しいのですけれども温かい、そういう触れ合いを感じさせられる、そういう校長でございました。
 私が一番感動したのは、「多くの親と話をした」とおっしゃった。荒れている学校の場合、なかなか親が無関心な方が多いのです。でも、それに対して一歩も引かなかった。あなたが変わらないとこの子は変わらない。今日は、「親が変われば子が変わる」という一つのメッセージをお話をしたいと思っているのですけれども、そういうことを徹底して話をされました。
 そして、トイレ掃除、これはイエローハットの鍵山さんの「手でトイレ掃除をする」というものを採り入れられまして、今まで3回やったのです。大体300人を超える方が集まったそうです。親も子供も教師も、300人を超える方が一つの学校に集まるということは、余程のメッセージを発信しているからであります。それほどの熱意を持って親にかかわっている、その姿に私は大変感銘を致しました。
 これからは親に対する指導力が求められている。子供に対する指導力にプラスして、親に対して熱いメッセージを伝える必要がある。しかし、その熱いメッセージは、自分の個人的な考えというよりも、脳科学という科学的な事実に基づいて、子供の脳の発達というのはどういうふうになっているのか。例えば、日本人は昔から「三つ子の魂百までも」と言ってきました。「しっかり抱いて下に下ろして歩かせろ」と言ってきました。これは今日のキーワードです。
 私は、PTAの全国大会でよくこの話をするのですが、もう多くのお母さん方は、この言葉自体を知らないのです。「しっかり抱く」というのは、愛着であります。「下に下ろす」というのが分離であります。そして、「歩かせろ」というのが自立であります。
 子供は、一番信頼できる大人に甘えて依存して、やがて反抗しながら自立していきます。このプロセスが、子供の成長には必要不可欠なプロセスであります。もう一度申し上げます。子供は、一番信頼できる大人に甘えて依存して、これが「しっかり抱いて」という、「三つ子の魂百までも」と言ってきた時期であります。
 そして「下に下ろす」、これは分離。子供の壁になる父性原理が求められます。「しっかり抱く」は母性原理です。愛情、太陽の働きです。温かさと優しさのかかわりです。そして、その次には「下に下ろす」。いつまでも抱いていたら子供は自立できないので下に下ろす、子供の壁になる。そういう役割が父性原理であります。そして、「自分の足で歩く」という自立の段階があります。
 私は、父親は高校の教師をしておりまして、中学校1年生の時に、私を鶏籠山という山に連れていきまして、弁論大会の練習を強制しました。私はそれが嫌で仕方がなかったのですけれども、父親は言うことを聞かなかった。それで、中学校1年生の時に、弁論大会で初めて「諸君」とやりました。全校生徒が笑いました。今でもよく光景を思い出します。
 ところが、私の父親はもう一つ私に強制しました。「史朗、原稿を持っていっちゃ駄目だ」。私は、父親に懇願しました。「お父ちゃん、僕、絶対原稿見ないから、一応持っていかせて」。父親はそれに対して「大丈夫、自分を信じろ」と言いました。「背水の陣という言葉を知っているか」。中学校1年生ですから、知っているはずがないのです。
 昔は、戦で橋を渡れば逃げ帰れないように橋を切って捨てた。もう前に進むしかない。そういう状況に自分自身を追い込んだわけです。父親は私をそういう状況に追い込もうとしました。今のお父さんならば、「絶対見ないから一応持っていかせて」と子供が懇願したら、「分かった。絶対見るなよ」と言って渡してしまうだろうと思うのです。それは本当の父性ではありません。子供の不安に共感的理解を示すことではなくて、「大丈夫」と、その情熱と信念でその不安を消し飛ばすぐらいの、そういうかかわり方を私の父はしてくれました。
 「大丈夫」と言われて、「諸君」とやりましたが、大丈夫ではありませんでした。完全にパニックになりました。一言でもう頭は真っ白でした。ところが、原稿があれば、それを何とか読んで乗り切りました。でも、原稿がなかったから、自分に頼るしかありません。しばらくののち、「大丈夫」と父親の言葉が腹の底から出てきました。そして、忘れていた原稿を思い出しました。これは私にとっては大きな力になりました。
 のちに、これを「言辞施」と言うということを知りました。「無財の七施」という言葉がありまして、財がなくても施せるものが七つある。その一つは心施です。そして、言辞施というのは、言葉の施しであります。
 長崎の佐世保の小学校6年生の少女、つい最近、私はその学校の近くを通って参りましたけれども、小学校6年生の同級生を殺害した女の子は、命を奪ったことの重大性を実感できないと言います。遺族の悲しみを実感できないと言います。悲しみを実感できなければ、どんなに学校で命が大事だ、生命を尊重しよう、人権を尊重しようという教育をしても、魂を動かすことはできません。心の琴線に触れることがないからであります。
 私はいつも、「アンダースタンド」と「リアライズ」と、英語で区別をしていますが、アンダースタンドは「頭で分かる」です。リアライズは、「心で切実に感じる」ということでありますが、涙という例でいつも申し上げるのです。涙は水と塩分からできている。それが頭で分かるのがアンダースタンドです。これまでの教育は、そのアンダースタンド中心でした。しかし、涙を共に流すときに初めて涙の意味が分かったことになります。涙の意味や価値を実感する、そういう教育が家庭において欠落してしまっている。
 あの佐世保の少女がなぜ命を実感できないかといえば、長崎家裁佐世保支部が判決要旨の中で明確に述べました。小さい時に、この子は甘えることをしなかった。依存することをしなかった。それを親は手が掛からないいい子だと考えた。
 つまり、愛着がなければ、対人関係能力も共感性も、思いやりも人権感覚も育たないのであります。つまり、学校における道徳教育や心の教育のベースになるものは、家庭における親子の関係、親子のかかわり方。そこを見直さなければ、事件が起きれば校長先生が謝罪会見をするという、これを繰り返していては、何ら進歩がありません。親はどうかかわってきたのでしょうか。そのことをもっと真正面から問う必要があるのではないかと、こう思っているわけであります。
 「育む」という言葉は、親鳥が子供を抱き抱える、羽で含むという、これが語源です。「羽で含む」のが育む。「心が育つ」ということが育む。これが愛着であります。育むという愛着がなければ、先程から申し上げている対人関係能力、共感性、そういうものが育たない。そして、あの佐世保の少女は、今どういうふうに立ち直りをしているかというと、疑似家族による育て直しをしているわけです。
 あるいは、神戸の児童連続殺傷事件、A少年も同じプロセスです。特別プロジェクトチームが作られて、お父さん役、お母さん役が1対1の心のつながり、ぬくもりを再体験させる以外に立ち直りはないのです。子供の心が育つというプロセスは合理化できない。効率化できない。1対1のぬくもりを実感する以外に立ち直りはないのです。
 しかし、今、この国の子育てはどうなっているでしょうか。先日、栃木の保育協会に参りましたら、あるお母さんが私にこう言いました。「私の娘は2歳だけれど、夜2時になっても眠れない」と言うのです。「どうしてですか」と聞かれたので、「それは、生活リズム、生体リズムが乱れているからだ」と申し上げました。夜間保育が広がっている、あるいは保育所で長い昼寝をしている。そういうことも一つの背景にあるでしょうが、日本睡眠学界が「子供の眠りが危ない」というテーマについて議論しました。その時の資料でございますが、「子供の眠りが危ない」。こういうものです。
 例えば、夜11時以降に寝る3歳児が50パーセント。夜10時以降に寝る乳幼児は、日本が47パーセント、ドイツ、フランスは16パーセント。夜12時以降に寝る中学3年生は64パーセント、アメリカや中国は、高校生ですら10パーセント強であります。なぜそんなに生活の夜型化が進んでいるか。あるいは、夜9時以降、子供を商業施設に連れ出す親は26パーセントという統計がありますが、生活の夜型化が子供を巻き込んでいて、だんだん子供の生体リズムが狂っている。
 明徳義塾という所の研修を私は3回やって参りました。来月もまた参りますけれども、6月30日に、高校3年生が友達を授業中刺して1カ月の重症を負わせるという事件が起きました。あの高校生は特進クラス。特進クラスは9クラスのうちの一番いいクラスなのです。優秀な高校生であります。
 そして、日記を残しておりました。今、見ることはできませんけれども、私は、先生方に話をするために、親に話をするために、この日記を読むことは不可欠だと思って、1年分の日記を読ませていただきました。そして、その日記はもう涙なくして読めなかった。最後までとても読めませんでした。それは、自分の魂が崩壊していく過程を自分で自覚しながら、しかしどうにもならない。そしてついに、迷惑を掛けることは分かっているけれども、その自分を破って、そして刺すというところまでいってしまった。
 私は「内なる自然破壊」と言っているのですが、今、世の中は地球環境の破壊ということはよく言います。しかし、外なる自然破壊よりも、もっと深刻なのは内なる自然破壊ではないかと思っております。心や脳というのは小宇宙です。その心や脳に異変が生じている。なぜ生じているかといえば、それは子供を取り巻いているゆがんだ生育環境の影響であります。子供を取り巻く環境、さまざまな環境があります。その一つには「親心の喪失」という問題があります。親の変化という問題があります。このことも無視できない点であります。
 分かりやすい本に、「その食事ではキレる子になる」という本があります。河出書房新社から出ています。私が臨教審時代、120の塾長からヒアリングをしたことがあります。その時に、ある塾長がこう言いました。「わが塾では、食生活も指導するだけで、こんなに国語や理科や算数の学力が上がった」。私は最初、それを信じられなかった。まゆつばだと思った。しかし、脳科学を研究して、その関係がよく分かりました。
 インスタント食品の多い、例えば岩村暢子という方が「変わる家族 変わる食卓」、「〈現代家族〉の誕生」と言う本を書いています。これは毎日新聞で大きく報道されました。これが毎日新聞の記事なのですけれども、「変わる家族 変わる食卓」という本です。1960年以降の女性、新人類、最近は新人類と言いませんが、昔はよく新人類と言いました。その新人類世代がお母さんになって何が変わったか。食卓が変わったというのです。
 この本を読んでおりますと、こういうことが書いてございます。お母さんたちに、娘世代の食卓実態を写真で見てもらって、「もし若い娘世代の食卓に問題があるとしたら、どんなところだと思うか」と聞いたのです。一番多かったのがどういうものかといいますと、コンビニ弁当を並べた家族の夕食光景の写真を見せたところ、「容器から取り出して器に盛り変えたらいいと思う」。これが一番多かったのです。情けないですね。「コンビニ弁当では家族の栄養バランスや健康にどうか」と言った母は、1人しかいなかったとあります。あるいは、昼食、お昼のメニューを、親子でカップめんを食べている。その写真を見せたら、問題だというふうに感じた人は1割いなかったとあります。
 PHPで、私が主宰をさせていただいている教育政策研究会が、こういう提言をまとめましたが、ここに親のことについても触れておりますが、厚生労働省の調査で「子育てを負担に思う」と答えた親は、3回連続して8割を超えています。一番新しい統計は、昨年の12月ですが、ほぼ9割近い方が子育てを負担に思うと答えている。問題は、なぜ負担に思うかという理由であります。一番最大の理由は、自分の自由時間を奪われる。
 私は、母親を毒殺未遂しようとした高校生の日記を読みました。これも週刊誌やいろいろなもので全部取り上げられましたけれども、彼女の日記を読んで1カ所だけ人間的な記述がありました。それは、保育園に行って4歳の子供と出会って、4歳の子供が自分を必要としていた。その自分を必要としている園児に出会って、自分の存在価値を実感したというのです。そして自分の悲しみが癒される思いがしたというようなことを書いています。
 つまり、自分を必要としている子供に触れることによって、自分の生きる意味や自分の存在価値に気付く。本来、母親はそうあってほしいと私は思うのですが、世の中は、どんどんマグドナルド化する社会に向かっています。子育てを含めて、今、大きな流れがそちらの方向に動いております。働いている親を保育所が支援するという保育政策でいいのだろうか。
 私は石原都知事に直訴状を書きました。「心の東京革命」ということを知事はおっしゃっている。なのに、13時間保育という施策を東京都は推進しておられる。これは矛盾しないか。一家団欒(だんらん)を大事にしようと言いながら、13時間も保育所で預かったら、一家団欒はできません。
 もちろん、働いているお母さんを支援することは大事です。しかし、一番大事なのは、親が親として育っていく、親育ちと言いますけれども、つまり親の育ちを促す、親の育ちを支援する。親と子が共に過ごす時間を確保して、そして家庭育児が成り立つ働き方を支援するということが大事ではないのか。労働政策で幸福論が吹っ飛んでしまっていいのか。
 先日、これは熊本の保育協会で講演しておりましたら、昔、熊本は弁当の日が月1回あったというのです。ところがそれがなくなったというのです。行政指導でなくなった。「どうしてですか」と尋ねたら、「給食費を払っているのに、弁当を作れというのは、金を返せ」と言ってくるというのです。つまり、これは経済論ですね。
 なぜ弁当の日を作ったかと考えれば、それは「お母さんがどんな弁当を作ってくれたかな」という、その心のぬくもり、心のつながり、それが幸せの原点だから。つまり、私は幸福論で弁当の日はできていると思っているのですが、ところが、給食費を払っているのだから、お金を返せというこの経済論で幸福の物差しが狂い始めている。
 もちろん、合理化や効率化というものを元に戻すことはできません。私たちが豊かさを得たのは、合理化や効率化のおかげであります。合理化や効率化によって、つまりマグドナルド化する社会によって、ものの豊かさを得たのですが、それが実は子供の心の荒廃の原因になっている。経済の成功因が教育の失敗因になっているという裏と表の構造をしっかりと見据えなければ、教育を再生することはできないのではないかと思うのです。
 私が全国で、「親が変われば子が変わる」と講演をしておりましたら、松山青年会議所のメンバーが、「先生、親が変われば子が変わる、難しいね。子が変われば親が変わる、こっちのほうが早い」と言った。(笑い)そうだなあと思って、お酒を飲みながら、「じゃ、子守歌の逆で、親守歌というのはどうだろう」。
 今、私が主宰している感性・脳科学教育研究会という所で、先日、有田秀穂という東邦大学のお医者さんを呼んで講演を聞きました。この方は、「セロトニン欠乏脳」という本をNHK出版から出しておられるのですが、セロトニンというのは、幸福の物質と言われますが、幸福感を感じる物質です。今、研究しておられるのは、子守歌を歌っているソプラノ歌手の脳波を測定しているというのです。子守歌を歌いながら、すやすやと休んでいく子供の表情を見ながら、実は母性愛が育っていく。親心が育っていく。
 幼形成熟と言いまして、人間は自立が動物よりも長いように脳が作られているわけです。早くから脳が発達してしまうと、産道を通ることができませんので、産道を通ってから脳が発達するようにできている。つまり、はいはいをして親に甘える、依存する期間が長く人間は作られているわけです。だから、「三つ子の魂百までも」と、3歳までが大事ですよと言ってきたわけです。
 ところが、その3歳までを、どんどん必要以上の育児の外注化が進んでいて、そして働いているお母さんの都合が優先されて、子供の最善の利益がないがしろにされている。私はそんな印象を持っております。
 ゼミの合宿を、私は20年、障害者の施設にずっと連れていっております。私にとっては障害児教育が教育の原点なのですけれども、ある時、奇声が広がりました。多動が広がりました。「何が原因だろう」と話し合った。よく分からなかった。ある先生が、「台所に機械を導入したことが原因ではないか」と言った。周りの先生は、「そんな馬鹿なことはない」と言った。「じゃ、ストップしてみましょう」というので、まな板で包丁で切るように改めたら、見事に奇声が止まった。多動が止まったという事実があるのです。それは、合理化や効率化というものが子供の心を切り刻んでいる。
 有田秀穂さんもおっしゃいました。講演会のあと、質問に答えて、「何が子供がこんなに変わってきた最大の問題だと思いますか。背景だと思いますか」という質問に対して、「それは、この便利になった世の中の価値観というものが、みんなの中に浸透したからではないか」という趣旨のことをおっしゃいました。
 私は、なるほどなと思いながら聞いていたのですが、先程の松山の青年会議所の話に戻しますと、「親守歌コンサート」というものを、第2回目をやったのです。1回目は千人ぐらい集まりました。市長も教育長も来ていただきました。そして、今年からは公立の小学生、中学生全員が、歌は歌でも、歌うのではなくて、詩ですね。「うたってできる親孝行」ということで、親に対する思いを書きました。
 そのまま原文をここに印刷しているのですけれども、本当に素朴なものです。「お母さん電話を取ったら別人に」とか、「お父さん私をどっかに連れてって」。いろいろあります。1年生から中学3年生まであるのです。「ありがたさ五七五では収まらない」と言って、見事に収まっているのです。(笑い)「母がいるそばにいるそれだけですごくうれしい」、「当たり前のことってとても大切だったんだね」。この当たり前の触れ合いというものの大切さを、ほとんどの子供が書いています。その幸福の物差し、幸福論というものは、まずその日常の当たり前の生活の中で心が触れ合う、そこに幸せがあるのだと思うのです。
 しかし、その幸せというものが、どんどん親子のきずなというものが崩壊している。相次ぐ少年の凶悪事件には、例えば文部科学省が10月の12日でしたか、情動といいまして、心の動きを情動と言いますが、それを研究する研究会の報告書が出ました。これは非常に重要な報告書でございまして、教育を語るときに、このことを抜きに、これから私は議論ができないと思っているのですが、その文部科学省の検討会の提言は六つあります。
 第1番目は、「対人関係能力や社会的適応能力の育成のためには、適切な愛着形成が重要だ」。愛着が大事だということを協調しました。昨年の10月に文部科学省が、問題行動対策重点プログラムというものを出しました。佐世保の少女の事件を取り上げながら、それを論じたわけでありますが、なぜ一時の衝動的な感情をコントロールできないか。そのコントロールできないメカニズムというものを明らかにしなければ、なぜむかつき、キレるのか。
 あるいは、最近、発達障害のことがいろいろと論じられておりますが、日本学術会議とこの文部科学省の検討会が出した報告書は、この発達障害の問題にも詳しく言及しております。


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