日本財団 図書館


6. 教師分科会
6-1 「教師からの教育改革」講演録
講師:原田隆史
 皆さん、こんにちは。今、過分な紹介をいただきました。先生とはもう長い付き合いでして。付き合っていたのではないのですよ、(笑い)ミンセイの知り合いということでして、大阪のほうに数年前に来られまして、松虫中学校と言う、一応陸上の世界では強かった学校なんですけれども、そこに県外研修で来られまして、そこからずっと一緒に陸上競技を通じて教育をやってきたという仲です。
 ですから、ちょっと先生から気合い入れて紹介されますと、ちょっと何か気恥ずかしいような気がしたんです。実は、先生は先程の紹介だけで、多分100回ぐらい練習されているんです。(笑い)今日も1時間ぐらい前からやってあれくらいのスピーチなんですけれども、素晴らしいスピーチでした。それは置いておきます。
 そんなので、何人かの方は身内ですので、先程の金先生の格調の高い話を私がちょっと崩してしまうのは申し訳ないのですけれども、私は大阪弁がきついので、ちょっと聞き取りにくい人もおるかと思うんですけれども、ノンバーバルコミュニケーションで伝わると思いますので、ぜひともよろしくお願いします。
 「教師からの教育改革」ということでお話をするようにということでいただきました。あまりこういうような格好のいい題名で話すことがないんです。そこを考えましたら、だいぶ・・・。あまり考えなくても最近はしゃべれるのですけれども、今回はちょっと気合いを入れなくてはあかんなと思いました。
 なぜかといいますと、私個人ごときの話がひょっとしたら教育の歴史の流れを変える末端のところをいじることができるのではないか。そのような感といいますか、使命感がありまして、これはちょっと相当頑張らなあかんなと思って話を構成してきました。
 お手元のプリントを見てください。何枚か用意をしました。「教師からの教育改革。オープンフォーラムうんぬん」とあります。この小さい用紙がありますけれども、これの左側の1番から下の5番までを順番に話をしますので、私が番号を言いましたら、その番号を見てください。
 2枚目、こういう変わったプリントがあります。師範塾の先生方は分かっていると思いますけれども、企業の方もお分かりでしょうか。「マッキンゼーのロジカルシンキング、ロジックツリー」と言いまして、ものごとを整理するための学びを僕たちも得ています。これは実は私がこの師範塾と共に活動しています教師塾と言うのがありまして、現在延べ503名の先生方と一緒に学んでいるのですけれども、その中の大学時代から教えていた子、女の先生が立てたものです。
 体育の教師でして、その子がこの春から無事に採用試験を通りまして、現場に出ているのですけれども、大阪の大変厳しい状況の学校でして、もう21回ほどどつかれている女の先生です。たまに、夜中に電話してきます。余程のときなのでしょう。泣きながら電話をしてくるのでずっと聞きます。泣きたい気持ちなんですが、それを押さえて、「これは何やねん。おまえ、辞めるんか」ということです。「辞めません」。「そうやな。なら、理念出せ」と。これなんです。「おまえ、何のため教師やっているんだ。もう一遍よく問いただせよ。正義は勝つぞ。悪が勝ったことないで。時間かかるけども正義は勝つので、絶対やれよ。辞めるんやったら、来い。飯でも食って、よしよししてやる。教師を続けるのだったら、もう電話してくるな」と言っています。
 そういう先生方が立てました、何のために教師をするのかという、教育の理念と思うのですけれども、それをぜひとも皆さんに見ていただこうと思って、こちらのほうに持ってきました。
 一番上、「生徒を生徒」と二つ書いてありまして、これは誤植とちゃうかといったら違うんです。やはり本人がその強い気持ちがあるので、夢遊病者のようにかぶってしまうんです。ですから、これは間違いではないんです。
 先程の****先生の終わりのスピーチの謝辞も気合いが入ってすごかったですけれども、彼女とも今話をしたんですけれども、ああいう話は台本で言えないですね。やはり、感性といいますか、先生の本心から出たものでありまして、大変感激したんです。ですから、一番上の1行も誤植ではないんです。それほどの思いといいますか、呪いの込められた文章です。(笑い)そのように見ていただいて、またよければ使ってください。本人の了承を取っていますので、個人情報とか何とかかんとか言いますけれども、僕は関係ありませんので、どんどん使ってください。
 それから、3枚目のけったいな用紙があります。これは「長期目標設定用紙」と言いまして、これは話のラスト3分の1に、もし、しゃべれたらこのことについて話をしようと思います。後程話をしますけれども、私は生徒指導主事です。一般の方は分からないと思いますけれども、生徒指導主事というのは、学校の問題を起こす子、悪さな子を、「おまえ、何とかしろ。責任者だ」ということです。その仕事を20年やりました。
 私は能力が皆さんみたいに高くないので、普通の指導であれば5人ぐらいの子は市の町校なら救えます。でも、1対1,600人という状況、一番最後は1対500人という状況です。これは、なかなか私には責任が重くて、難儀だったのです。
 ただ、何でか分からないのですけれども、僕の所にはお父ちゃんがいない子とか、お母ちゃんがいない子とか、貧乏人の子とか、とんでもないやつが寄ってくるんです。多分、そういう臭いがあるんでしょう。それで、そいつらの家庭訪問をします。家に行くと、これは助けてやらんとあかんな、と思うわけです。それはやはり5人では済みません。これを何とかして、そのようけの人数を能力のない私が等しく、何とか1ミリでもいいから、教育を受けて助けてもらったということを感じさせるために何か方法はないかということで考えたのが、この用紙です。
 割とラフな性格なんですけれども、実はメモ魔、データ魔でして、23年間で3万人のデータを採りました。生徒のデータ、同僚の先生のデータ、果てはオリンピックの金メダリストです。アテネオリンピックに教え子が6人行きました。一番頑張ったのはあの山本貴司です。バタフライ、銀メダル、千葉すずのだんな。あいつ3年間ずーっとやりました。いまだに電話1本で飛んできます(笑い)。彼のデータもあります。
 それで、教師を、公立中学校を20年間ですけれども、13年目ぐらいから分かってきました。何が分かってきたかといいますと、生徒100人、人間100人いたら95人と5人ぐらいに分かれるのと違うか。それで、95人の子は同じ失敗をするという。これ、気が付いとらへんな、というのに気が付きました。5人ぐらいの子は何でか分からないけれども、勉強はできる、スポーツはできる、リーダー性があって、将来何とかということで、ひょいひょいいくんです。うらやましいやつですね。なぜかといいますと、これは家庭の教育・しつけによって、心のコップが上を向いているやつなんです。
 それで見たときに、それだったらこれを何とかして、95パーセントの子に気付かせる方法はないのかということです。手取り足取りでは5人ですから、それは無理ですから、等しく気付かせて、自らが自分で正しいこちら側に来るような教育をする方法はないかということで、そのデータを基に試行錯誤をしたんです。
 人間はどんなときに間違うのか、何に気付かせたら頑張るのかということです。それをこの用紙に入れたんです。私はこの用紙を書かせて、この書いた文字を基に指導をして結果を出すという、そういう変わった指導をやる教師です。この用紙を基に全国大会で陸上競技で日本一を13回作らせていただきました。日本一を13回ではなしに、5年間に日本で1番から8番を58枚、賞状を取りました。皆さん、一気にです。これは地元大阪の440チームの中では12回、負けたことがありません。1回も負けていません。全国大会の総合優勝も、大阪の優勝も、すべてほとんどが予告宣言優勝です。「優勝をする」と言って、なるんです。
 それはなぜかといいますと、そういう生き方があるぞということを子供らに示したかったんです、自分と子供らに、一緒に。「こんなのができるぞ、奇跡だろ」と。「日本一になる」と言ってなる中学生もいるんだということを、地域とか周りの先生とか大人に示したかったんです。その結果、生み出されたのがこの用紙です。ですから、簡単に言いますと、人が気付いて、自ら結果を残す。成功するためにはどんな要素が要るのか。順番はこれからだということを並べた結果の用紙だというふうに思ってください。
 「成功の教科書」と言う本を出しましたけれども、その本はこの技術書ですので、私の思いはあまり載っていません。技術書ですから、小学校も中学年以上の子が、これを書けるように指導した本ですので、またよければ見てください。
 では、1枚目のこの用紙のほうに戻ってください。こんな感じです。大体の全体像をつかんでください。プロフィルがありますけれども、おやじは警察官です。機動隊の隊長でして、はっきり言いまして、男の中の男です。おふくろは京都の貧乏子だくさんの中で生まれた京女でして、その中の2人に育ててもらいました。おやじは厳しいんです。先程の金先生のような厳しさではないんです。外では厳しくて、家では何もしないけれども、僕はそのオーラを感じて生きていました。
 小さい時に、東京オリンピックは3歳で、カラーテレビが出てきて、その辺りにおやじが帰ってきて、おふくろが何か洗濯しているなと思って見たら、警察官の軍手が血で汚れていて、おふくろがその血染めの軍手を裏で洗っていました。昔は洗濯機とは違います。こんなぎざぎざのほんまの板で洗って(笑い)、洗濯機の前にこんなのが付いていて、タコになって出てくる時代だったです。僕の年代が分かりますか。そんな時代でした。
 それを見た時に、子供ながらに恐ろしいことがあるんだな、と思って、何か分からないけれども、恐ろしい仕事に就いているんだと思ったんです。台風とか何か事件があってしんどいとき、小さい子だからお父ちゃんは家にいてほしいのに、そういうときに限って出動するんです。何で行きよんねん、と思っていました。(笑い)
 それで、ある時、夜中におふくろとおやじが話をしていて、何だかんやと言ってるな、何だろと思ったら、「引き出しがどうのこうの」と言って。おやじは出世を嫌った男でして、最後の最後まで現場100回という男ですので、最後の転勤か退職の最後の、ほかだったら全然・・・。60前のぼろぼろで、普通は大人しくしなければいけないのに、一番大阪でしんどい所へ行ったんです。
 その時に、家の中に小さい引き出しがあったんです。4段あって、当時はまだばあさんが生きていたので、ばあさんの引き出し、母ちゃんの引き出し、兄貴、僕の引き出しがあって、遺書が入っています。「死んだら読ますんだぞ」と言っていて、それを子供ながらに聞いてしまったんです。はっきり言って恐ろしい引き出しです。(笑い)それを開けるときが来たらどうしようと思って。それで大山警察の署長さんの所に行って、「おやじが死なないような安全な仕事に就けてくれ」と、もう門の前まで行きました、わが子ながら署長に頼もうと思って。そういう子供です。そんな中で育ちました。
 それで、何ていうんでしょうか。昔からこの目で見て、経験して人にやってみないと、大阪の貧乏長屋の子ですからだまされたら生きていけないので、猜疑心が強いので、どうしても自分で確かめないと気が済まないんです。そういうふうな癖がありました。
 話を教師のほうに戻します。教師になりました。先程、ちょっとカヤマ先生のほうから話をいただいたのですけれども、奈良教育大学と言う所に行きまして、自分で言うのも何ですけれども、私は人にお会いする運が強いと思います。その中で、今は日本の体育の世界の中で言う「ミスター体育」と言われる筑波大学の副学長の高橋健夫先生。NHKで跳び箱を跳ばすおじさん、知っていますか(笑い)。イナガキ先生。いろいろな先生がおります。今の日本の体育の礎を作った先生がまだ30代の前半で、必死で「やるぞー」という時に、ばちっと出くわしたんです。
 それで、大学4年間の中で必死で学びました。何を学んだかといったら、「原田、おまえ結果が気になるだろう」「なります」「いいか、人間の結果というのは、やる気が基だ。やる気を高めたら勝手に結果が付いてくるから、原田、ここだけ見たらあかん」と言われました。「そうですね、先生。それなら、先生、教えてください」「それなら、修行しろ」ということで、メンタルトレーニングとか、心理学とか、そんなことばかりやりました。ちょっと傾向が違っていたのですけれども、そんなのばかりやりました。そのことをずーっとしつけられたんです。だから、心ということについて昔からものすごくインプットされました。
 それで、当時はシーデントップと言うドイツの学者がいて「楽しい体育」と言ったんです。皆さん、何か嫌な予感がするでしょう(笑い)。「楽しい体育がおもろかったらいいな」と思ってやりました。それで、教育実習で小学校とか高校に行ったんですけれども、母校ですし、死ぬ気でやりましたから大受けに受けて「至上最強の教育実習生」とか言われました。(笑い)5時ぐらいから行って、学校じゅう掃除してやっているんです。放課後一番最後まで残って、守衛のおじさんにお酒プレゼントして「よろしく」とか言う人間ですから、それは「至上最強の伝説の教育実習生」と言われて。教育実習が始まる1カ月前からずっと僕はいたんです。終わってから卒業するまでずっといたんです。ほんまの話、全然関係ない時に授業を勝手に教えていました、「先生、やります」とか言って。そういうことできまして、「おまえ、すごいな」と言われました。
 それで、僕は「楽しい体育」の技とかノウハウ論を大学の先生に教わっているし、これが教えたくて、現場は鼻高々で、「俺、教師にならへんかったら、世の中終わりや」と思って出ました。それが、また悪で大阪で一番しんどい学校に行ったわけです。それで、忘れもしません。行った1日目の授業で、頭がこうなって、「これやってやろう、あれやってやろう、逆立ちで出ていってやろう」とか思って、短パン・Tシャツで筋肉をぴくぴくさせて散髪行ってデビューしたのです。(笑い)「よっしゃ」。生徒がいません。(笑い)授業時間間違ったと思ってぱっと帰ったら、隣の先生が何かくすっと笑うんです。悪い人ではないんです。僕が勢い付き過ぎているから、黙っていたんです。
 えっ、と思って行って、ぱっと見たら影が見えまして、教室へ行ったら生徒が隠れているんです。「ああ、何だこいつら。おい、出てこいよ」。出てきません。ばーんと行って、「出てこい」。何とかかんとかわーっとなって、グランド放り出して時間を見たら、30分。60人。40人の生徒で60人いた。おかしい。ぱっと見たら、隣のクラス、ほかの学年、1年生の授業に3年生が来て、要は「若い男のやつでいきっとるから、いちびったろか」ということです。
 びっくりしました。「まあまあ、ええから、早く帰れ」。何とかかんとか、ラスト5分。所信表明だけしなければいけないと思って、しゃべろうと思ったら、体操服が違うんです。えっ、と思ったら、隣の中学の生徒が来ていました。(笑い)矢田西中学と言う所から来ていて、びっくりして、頭がぼうっとなって、もうキンコンカンコンです。えっ、と思って。
 ちょっと、待てよ。「楽しい体育」が通用しないじゃないか。俺の1時間目返してくれと思って、こうなって帰ったら、「原田」という声がします。「俺、人気者だったのか」と思ってぱっと見たら、椅子がばーんと降ってきました。当たったら死にますよね。その時はまだ分からないんです。それで、何だと思って、3階ばーっと走って、ばっと戸を開けて分かりました。にやにやしているんです。あっ、こいつらやりやがったな、と思いました。
 それで、体育教官室に戻ったんです。そうしたら、体育の先生方がおって、「分かったか」と言われました。「分かりました」。スイッチ、入らん。あっ、あかんわ。よし、生き方変えようと思って、5秒で変えたんです。「楽しい体育」をやめました。それからは皆さん、「厳しい体育」にしました。
 ということは何かというと、学んだノウハウ・マニュアルを僕らは仕事に直結する力を仕事力と言います。これは大学でいっぱい学ぶんです。企業はマニュアルですね。これでいけると思ったんです。通用しませんでした。何か足らないなと思って、その時は「しつけ」に求めました。それを、元来正義感強いですから、「こいつら、ほんまに許せないな」と思って、怒りも手伝って、めちゃくちゃ厳しくしました。
 いろいろなトラブルがありました。でも、かたちはできました。僕の授業に遅れてきたり、忘れ物をしたりする子はいません。ただ、残念なことに、僕が出張すると言うことを聞きません。ほかのクラスの大人しい先生の所でその反動が出るようになりました。でも、その時は、「あっ、あれはあの先生が悪い。力がないから出るんだ」というふうに思っていました。仕方がないと。それで、なんやかんやいけたんです。
 それで、3年目のこと。これは中略しますけれども、とんでもないちょっと不義理なことをする先生がいて、とんでもない状況で、施設に預けていた生徒が帰ってきました。普通は絶対そんなことはさせません。3年間お世話になった生徒はその施設で卒業式をさせて、現場の教師が卒業式に行って、校長と担任が「ありがとうございました」と頭下げるんです。義理ですから、当然ですけれども。それを、何でか分からないけれども、卒業式の前に帰ってきました。これはやってはいけないことですけれども、行った学校がそういう学校だったのです。
 それで、若くて、それに対して反発しているのだけれども、言葉が分からない。その時にしゃべれない。だから、多数決で負けてしまって。家庭内暴力のやつでした。学校では普通でした。何もないと思っていたんです。そうしたら、お父ちゃん・お母ちゃんと小学校5年生の妹さんをこたつのコードで首締めて殺しました。皆さん、殺したんです。それで、3日間気が付かない。馬鹿教師だから、キキガネ悪くないから。それで、行ってびっくり。死後硬直して死んでいて、線香たいて。今から20年前です。
 そういう事件がまだ世の中にない時で、「ニューズウィーク」とか世界の新聞に出ました。これがマスコミに入りまして、いいマスコミもいるんですけれども、僕らが当たったマスコミはあまり良くなかった。こーなって、あることないことわーっと言って、キャンペーン張って、体罰がどうのこうの、人権何とか言われて。それでどうなったかといったら、学校が半日で地獄になったんです。
 学校というのは、教師以外の方は分からないですけれども、半日で地獄になります。ガラス全部、「原田死ね」です。隣の体育の先生の軽自動車も引っ繰り返されて、昨日の朝青龍みたいになってしまって。(笑い)その当時、スズキの「バラ」と言うバイクで行っていました。職員会議が終わったら、落ち分かるでしょう。バラに乗って帰ろうと思ったら、ばらばらでした。(笑い)ハンドルしかない。悔しいからこうやって帰りました、腹立つから、ほんま。大阪人ですから。授業に行ったら生徒がたばこを吸っているんです。どつかな、あかんでしょう。困るんです。クラブへ行っても・・・。
 それで、子供が好きで教師になっているのにそのようになって、おまけに子供が死んでしまってマスコミがわっとなるから。頭が痛くなりまして。その時はまだ家族で住んでいますから、お母ちゃんがいて、それでこうなっていたら、「隆史」って。「何や」と言ったら、「あんた毛が抜けているやん」と言われました。「何やねん」と手鏡を見たら、ここがはげてまして、円形脱毛症。はげを見たら、いけません。見た瞬間にこう。(笑い)へらへらへらへら。皆さん、絶対見たら駄目ですよ。(笑い)だから、僕は家に体温計を置いていません。体温計の熱を見たら駄目ですから、僕は絶対計りません。血圧なんて絶対取りません、人間ドックは死んでも行きません。(笑い)
 こうなって、それで甘えました。甘えたといったら当たり前だけど、「お母ちゃん、今日ちょっと休んでいいか」と言いました。それまで3年間、盆・正月1回も休んでいません。休まないのがいいと思ったんです。「巨人の星」で生まれた時代だから、星飛雄馬、大リーグボール養成ギブスですから。はっきり言って生徒にそんなのを付けたんです。(笑い)「おい、お母ちゃん、休んでええか」と言ったら、おふくろが「ええ」と言うと思うでしょう。違うんです。先程の金先生とちょっとよく似ていて、おふくろはぐっと怖い顔をしました。
 あんまり怖い顔をすることないので何だろうと思って、隣の部屋に行ってこれを持ってきたんです。もっと太かったですよ。「何や」と言ったら、「頭、出せ」と言うんです。「何やねん」と言ったら、ここをくるくるくるくると・・・。(笑い)「油性や、雨もはじくぞ」と。「アデランスとちゃう。面白いな、お母ちゃん」と言ったら、ばーっと泣いていました。その時にはっと分かったんです。全部分かります。以心伝心です。「おまえ、教師辞めようと思っているやろう」と言われました。辞めてやろうと思って。警察官になって、あの悪を退治しようと思っていたんです。
 そうしたら、おふくろが「情けない」と言いました。「何や」と言ったら、「おまえ、3年間、わが子やけれども教師をよく頑張ってまじめだと思う。自慢できるぐらいだ。それでもおまえ、いいか。おまえ、教師が嫌だから警察官。何か嫌だから目の前の仕事をころころ変えて、いい目出ると思っているやろう」と言うんです。「おまえ、そんなことも分からへんのんか。何が嫌だ。自分を変えんか。それが分からないおまえが悔しい」と言いました。いや、分かっているんですけれども、言われなければ分からないときってあるんです。それで、もう一つ言いました。「生徒が殺されたのはおまえのせいやろう」と言うんです。これは痛い。教師にとってこれを言われたら。教師同士はそんなことだけは絶対に言わない。禁句・タブーですから。
 でも、それを素人の一般市民のおふくろに言われたんです。こうなって、それで、音が聞こえました。背中のスイッチが、ガチャンという音が聞こえました。DNAスイッチオンです。「よっしゃ、これは」と思って、目がこんなふうになったんです。で、出撃です。「アリナミンV」ですね。それで、自分を変えなさい。自分を変えて相手を変える。自分に気付いて相手に気付く。社長が変わって社員が変わる。先生が変わって生徒が変わる。お父ちゃん・お母ちゃんが変わって子供が変わる。主体変容。ああ、なるほどな。大尊敬するのは松下幸之助先生です。これしかないということを、また本当の意味で思い知らされたのです。
 そして、そこから再スタートをしました。2校目の学校で、「一番当時大阪でしんどい学校へもう一度行かせてくれ」と言って行きました。はっきり言って、辞めるつもりだから何でもしました。自爆するつもりでしたから、思いっきりやったんです。まだ当時は、京都の教育長が「若い先生、もっとどつけ」ということを言った時代です。悪そうなやつがいたけれども平気です。皆さん、もう捨て身でやったら3週間ぐらいで学校は良くなったんです。しゃーっと。答えは何かといったら、しんどいやつだれもが学校に来ません(笑い)。1人も来ません。外へ放り出して良くなったんです。それでも良くなったんです。それで、またずっとスタートしたということです。それでずーっといったんです。
 それで、話がチョットあちこち行って申し訳ないですけれども、その辺りぐらいから、教師、教育法のことについて、ちょっと何とかしたり、何とか考えたりしなくてはいけないなとか、死んだやつの背後霊が付いていますので、何かまともにしなくてはいけないなと思ったんです。
 その時に、先生を仲間として最初やったんです。コンペキ会と言う生活指導の会を作ってやったのですけれども、あまり変化させることができなかったんです。何でかといったら、上のやつが握っているという。それで、管理職と教育委員会に行きまして、そことわーっとやったんです。それでいい線いったなと思ったら、またあかんのです。何でやといったら、政治が裏で握っているという。それなら政治家に行こうと思って、市会議員とか府会議員とかをばーっとやったんです。それでうまいこといきかけたら、あかんのです。
 えーっ、まだおるのんかと思ったら、実は、極端な話ですけれども、企業の社長さん、企業の方のほうが力強かったんです。日本の国の流れを初めて知りました。われわれの時は、どんな教育を受けたかといったら、僕らはある意味戦争が終わって、日本の国がこうなって、田中角栄と言うおじさんが「教師の給料は3倍だ」と言って、平成の時代です。「産めよ、増やせよ何とか」という時代の教育は金太郎飴作りです。平均点の底上げ教育で、こういう人を欲しいと企業が求めて、若者はそれに向かってまっしぐらの時代でしょう。僕はその教育を受けました。
 でも、そのようなことをだれが提言するかといったら、やはりそれはこの国の企業のリーダーが、この国をどうするかということを考えたうえで、教育とマッチングして、こんな教育を欲しい、こんな生徒を欲しいという仕組みにその時初めて気が付いたんです。僕はそれが分からなかったんです。それなら、これはこういう所と合体せなあかんな、と思ったんです。
 それで、プロフィルを見てください。5番、6番、7番ですけれども、「企業の人材育成指導」なんてありますけれども、そういう意味も含めて、先程言ったように、この目で見てみないと本当かどうか分からないので、企業のほうに出向いていって、日本のほんまの教育の流れのための仕組みを検証しに行っています。どうも今言ったことは当たっているみたいな気がします。それで、企業の指導なんかを努めて行っているということです。
 それから話を戻します。今はこんな時代だから、平成の時代ではなくなって乱世です。何が乱世かといったら、長崎県の先生おられたら申し訳ないですけれども、子供が学校で殺されるという時代です。僕の生徒で援助交際をやって性病になった子がいます。これは僕の時代では考えられないです。乱世以外の何ものもない。乱世にはどんな教育が要るかといったら、平均点底上げの金太郎飴作りでは間に合わないと思います。これはやはり、フィンランドへ行って思ったんですけれども、そいつのいい所を見つけて、長所発揮をしなければいけない。でも、フィンランドは厳しいしつけをして長所発揮をしたんです。そういう教育もこれからしなければいけない。乱世の時代ですから、それが要ると思いました。
 乱世を導いた人はだれだと思って考えたら、明治維新のあの志士と言われる人たち。彼らに共通するものが二つ。一つは新しい理念、思い、志。これは、この今回の師範塾というこの場で等しく学べると思います。もう一つ何が要るのかといったら、彼らは身をもって自分が生き方モデルとなって、命懸けでやったのです。西郷隆盛、坂本龍馬です。生き方モデル。ということは、教育乱世を切り開いて、師範塾の存在価値というのは、新しい理念を提供して、仲間を増やして、その仲間が自らが実践生き方モデルになってスタートしないといけないという、それが結論だと思います。
 そういう意味から言ったら、師範塾の塾生がモデルとしてもっと外で活動して、出ていかなければあかんのと違うか。それがこの会の方向性ではないかと思います。
 話があっちこっち行ってすみません。プロフィルに戻ります。僕は金先生を前にして上がっています。(笑い)いろいろな方のお話を聞いて感動して、月心寺の庵主さんの話でも、近世での話ほどすごいものはなかった。それと、マチノリコンビのこのコンビで世界中に講演会に行けますね。(笑い)すごかったですね、あまり上がらないのですが、ちょっと上がっています。申し訳ないです。
 それで、すみません。プロフィルへ戻ってください。それで、生活指導ということで、子供の人生指導、それから体育指導ということで、ノウハウだけではいけないということで、やる気を何とか高める指導。そして陸上競技指導ということで、スポーツが得意ですから、乱世を切り開くための人生指導をスポーツ教育を中心にやろうかという20年間。
 それで、今は結論出たことを自分なりに信念を持ちましたので、大学生の教職課程の将来教師だけを目指す学生のみを教えています。一般の学生は教えません。請われても教えません。先生のみだけを教えています。それであと、教師塾、教師養成塾。教師塾は言いましたように、先生方の再教育。教師養成塾は何かといいますと、分かっていただきたいのは、現場へ出て思うのは、いい先生、いい講師の先生であればあるほど、現場の仕事は一生懸命にするから採用試験に通りません。何とかしていい先生を、現場で力のある先生を採りたいけれども、そいつらは僕らと一緒に6時から夜中の12時まで生活指導で、体も空きません。来るなと言っても来るんです、明日、試験だといっても。通りません。
 だから、現場で何とかいい先生を大阪からこいつ、こいつと言わせて、それを集めて教育します。採用試験を通る必殺の勉強法です。それから、関西の大学を回ってつばを付けに行きます。「こいつはいいな」と聞いた子を面談して、「入ってくれ」と言って教師養成塾に入れて、「教師なれ」と無理やり言って、それで試験を受けさせるんです。そういう会をやっています。非常に高確率で、90パーセントぐらいの確率で教師を育てることができるようになっています。ですから、人材教育と人材確保教育をやっているということです。これが私のプロフィルです。
 それで、すみません、話に戻ります。で、この話です。ノウハウ・マニュアル論でずっときて、そういう目に遭って、しつけ指導だということでこれでやって、何とかいけているけれどもどうかなと思って2校目の学校へ行って、ちょっとわだかまりがありながら、いよいよ今日の本題の3校目の学校に行きます。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION