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 学生というのは生意気ですから、自分が何もできなくても教師がどれくらいできているかということはよく分かっている。教師がどれだけ真剣なのかということもよく分かっている。教師がどれだけやる気があるかということもよく分かっている。なぜか分からないけれども、よく分かるのです。本当に一遍で分かってしまう。
 だから、教師というのはそこに立った瞬間にまず学生の気持ちをどれだけ留められるということで勝負が半分決まってしまう。それができない教師というのは、やはり教師としての適性がないと言わざるを得ない。教師として適性のある人間が、自分の適性をもっと磨いて、そして教壇に立った瞬間に学生たちのぱっと注目を浴びることができる。引き寄せることができる。これが本当のいい教師です。もちろん、それに加えて専門の学識がなくてはならない。
 親も同じです。親だからある程度無条件の愛情というものもありますけれども、それでも今の世の中、親だからといって子供が無条件に親の言うことを聞いたり、親に親近感を持ったり、親に愛情を持つかといったらそうではない。皆さん、よくご存じのように、憎み合っている親子もいれば、「絶対、親の言うことなんか聞きたくもない」と思っている子供もいっぱいいるし、また、時期によっては親に対する反抗期というのも当然出てくる。
 それをどうやって乗り越えて健全な親子関係を作っていくのか、もちろんそれぞれの親子の性格があったり、組み合わせがあったり、置かれている環境があったり、いろいろありますけれども、基本として、先程言いましたように親は無条件で子供を愛しているということをまずは伝えなくてはいけない。それがきちっと伝わっていれば、私のような「鬼かあちゃん」でも子供は納得するんです。あのころ納得をしていなくても、どこかの時期で少しずつ分かってきて、今は100パーセント分かっている。
 もちろん、私が100点満点の母親というわけではない。私には私の個性があって、私は私の考え方があって、それは変えようもない。だけども、私は私なりに精いっぱい子供の幸せを思い、やってきたのだということを100パーセント納得をしている。そして、その結果、少なくとも今、自分たちはまともに人間として社会に出ていけるようになったのだということも分かっている。
 だから、私たちの今の親子関係は非常にいいものがあります。3世帯3世代で同じ屋根の下に暮らしています。1階、2階、3階と完全に独立した家屋にしまして、1階に私たち年寄り夫婦、2階を娘たち、3階に息子たちというふうに一緒に住んでいますけれども、それは子供たちの希望で、私は嫌ですと。私は嫌なの、本当。嫌なのよ、面倒臭いから、本当に。(笑い)
 でも、娘が「まともな大人がそばにいてほしい」と、こうなの。娘はフルタイムで働いているわけです。しかもテレビの仕事なんか朝も夜もなくてめちゃくちゃだから。娘の賢明なところは、小さいときにはベビーシッターでもいい。ご飯を食べさせて、おっぱいを飲ませて、ミルクを飲ませて寝かせてという、ある意味では機械的なケアだけで済むけれども、子供が少しずつ大きくなるにつれて、やはり賢明な大人がそばにいなくてはいけない。要するに、精神的な栄養というものがなくてはいけない。
 小さいときはいいんです。精神的な栄養がまだそれほど必要としない年齢は保育園で事足りるし、ベビーシッターで事足りるけれども、これから少しずつ知的な刺激を与えなくてはならないような年齢になったら、やはりまともな大人がそばにいなくてはいけない。
 自分たちのいない空間を埋めるのは、「甘甘おじいちゃん」、「辛辛おばあちゃん」との組み合わせと思っているわけです。要するに「同じ敷地に一緒に住んでほしい」といったら、これは娘の願いであり、だから娘がそう言ってきて、私は本当に嫌だったんです。「とても快適な所に住んでいるのに、何で引っ越ししなければならない?あんた、こっちにおいでよ」と言ったら、「そこは子供を育てる環境ではない」と、生意気にも言うわけ。
 都会のど真ん中の高層住宅ですから、それもそうなんです。彼女もやはり住宅街の中の、土地があって、小さな庭があってみたいな所を思っていたんでしょう。そうやって一緒に土地を買うのに息子に知らん顔をしているわけにもいかないから、「一応、こういう計画があるよ」ということだけは言った。「イエスでもノーでもいいから、言わなかったなんて言わないで、とにかく一応言っておいたからね。返事を聞かせてくれ」と。
 何を思ったか、嫁さんをだまくらかして「参加する」と言い出した。こんなうるさい母親よ。「鬼かあちゃん」。でも、わざわざ一緒に住もうというのですから、私が自慢して言うわけではなくて。要するに、子供がある時期、親が自分たちを厳しく育てたということは、結局、自分たちのためだったのだということははっきり伝わった。でも、おじいちゃんが言うわけ。「その厳しく育てることが、自分たちのためだったということが分かる年齢には、孫のケースには通用しない。だから、僕は甘甘じいさんだ」と。敵がそう思うのもそれは当然のことなんですけれども。
 だから、基本的に親として、親の役割とは何ぞや。愛情を持って、だけど厳しくするときには厳しくする。そうでなければ、つまり自分の家が世の中で一番快適な所だということを子供に思わせてしまったら、子供は外の世界に出ていけない。自分の家が一番いいに決まっているんだもの、閉じこもりになります。「あんなうるさい母親、もう1日でも早く外に行きたい」というぐらいに思わせておいて、しかし、よく考えてみれば母親は自分のためにこういうふうに育ててくれたのだと思う時期が来る。
 なお、外の世界に出ていけば、「あんなうるさい母親に散々厳しくされたのだから、外へ出ていけば、どこのおじさんでもおばさんでもうるさい上司でも難しい教師でも、母親に比べればチョロいものだよ」と。
 うちの子供は本当にそう思っています。うちの娘は、うるさい上司ほどいいと。「だれも扱えない上司は私に任せて。母親を扱い慣れているからあんなのチョロいものだ。特に男の上司なんて、そんなの、もう全然。任せてよ」みたいな。どこに行ったって母親ほどうるさいのはいないと、こういうことらしいです。(笑い)
 だからいいんです。世の中、どこへ行っても母親より優しいのだから、快適なんです。世の中、どこへ行ってもつらくて、だれでも自分をいじめているような感じがして、いつも傷付けられて帰ってきたら出ていきません。
 あまりにも傷付きやすくなっている。繊細で本当に感受性が豊かで芸術家にでもなるような人間なら話は分かるけれども、そうではなくて、全部の子供たちが傷付きやすくなっている。傷付きやすいということはとことん弱いということです。何にも耐えられないという子供が多すぎる。それでは生きていけないのです。どこかをぶった。きっとキレてしまう。そういう子供を育てたら、親も子供も不幸になります。だから、愛情を持って厳しくしなくてはいけない。
 教師も同じことです。この会場には多くの学校の先生がいらっしゃると思うのですけれども、学校の先生も同じです。難しい。今も、こうやって甘やかされた子供を何十人も預かって、この教室を統率するというのは難しい。だから私は小学校の先生にもなれないし、中学校の先生にもなれないし、高校受験が控えているのはもっとなれない。私は大学の教師にしかなれません。大学の教師というのは大人ばかりですから、一応。一応、大人のふりをしているそういう子供がたくさん来ますから。でも、言葉は通じるわけです。私は徹底的に言葉が通じる相手ならばいいんです。でも、赤ちゃんは言葉が通じないから苦手です。言葉が通じると「ちょっと任せてよ」という感じになってきます。
 だから、うちの子供たちも小さい時はなるべく父親に任せていました。(笑い)大きくなってから、娘が突然言うんです、高校生になってから。「ママとしゃべっていると面白いね」。実際に私の役割が発揮されるのはそこからです。
 だから、私は大学の教師ならいいんです。今の大学の授業は、かなり前から私語が大変だと言われます。私のクラスは絶対私語を許さなかった。もう20年ぐらい前の話で・・・。20年でもないか、私は10年ぐらい前に引退しましたけれども。でも、そのころ既に私語が大変な時代でした。私は学年の最初の日に「私語は許さない」といきなり言い渡すの。「約束事がいくつかあります。私語は許さない」と。みんなびっくりします。
 もちろん語学の授業ですから、せいぜい40人ぐらいですから、やりやすいといえばやりやすいのですけれども、今、私はここに立っていて隅々まで見えますけれども、小さな教室はもっと見えやすい。私は耳がいいから、ちょこっとでもだれかが私語をしたら聞こえるんです。「そこ」、必ず注意する。2回目にまた同じことをやる。「出て行け」と。
 自分の教室だけではないです。ある日、拓殖大学で公開講座を頼まれて、行ってやってきました。館内がうるさい。公開ですから、前は熱心な年配者が座っている。後ろは単位のために学生が座っている。教科の先生が一生懸命連絡事項なんかをやっていると、ワイワイ、ワーワーやっているわけ。「なってないな」と思った。
 それで、私の番になって、「私語は許しません」と言ったの。公開講座で聴講者に向かって、何となく言いにくいよね。みんなびっくりした。でも、真ん中ぐらいだったかな、そこいら辺でゴショゴショゴショゴショと。「そこ、オレンジ色のTシャツを着ている子、静かにしなさい」と。シーンよ。みんなびっくりしていた。終わったあとにたくさんの学生がやってきて、「先生、格好いい」。本当に言われたんです。「先生、格好いい」と言われた。
 これが大人の役割です。教師の役割。対立も恐れない。葛藤も恐れない。今の日本の最も嘆かわしいところは、みんな対立をする、緊張感を持つのが嫌。何か言ったら、自分自身がやはり嫌な思いをする。だから、人にも注意はできないし、自分の意見も言っていない。
 私の早稲田の同僚が言っていたんです。「金さんの授業って静かね」と。私は先程イギリスの交換教授と紹介されましたけれども、教授ではございません。これは経歴詐称になりますから。(笑い)交換、要するに客員研究員です。もう何のあれもないんです。
 私はケンブリッジに行くので、1年の後半を同僚に代わってもらったんです。1年の前半を私が教えて、後半を、第2学期を任せたら、帰ってきて言ったのは「金さんのクラスって静かね。びっくりした」と。
 怖いだけでは駄目なんです。どうやったら学生が私語をしないか。簡単なの。恐れずにどんどん当てていけばいい。みんな緊張しているわけ。(笑い)と同時に、先程言いました、ここに立っている全存在を問われているわけ。やはり自分の授業というものに誇りを持っていなくてはいけない、私の授業がこうなるのだというのを。更にそれが学生に受け入れられるだけの内容を持っていなくてはいけない。でなければ・・・。1限の最後のほうまでシーン、授業が終わったあとにハーッとみんなため息が出るぐらいにみんな緊張している。そして、学年の最後の何通かの手紙が来ます。「やっと大学らしい授業を受けました」。
 これは教師としての役割です。まずは学生に全員参加させるだけの工夫をする。自分の持っている授業というのは何ぞや。自分はどういうことを学生に伝えたいのか、伝える内容というのは何なのか。自分の授業は何という授業なのか。
 この80分という授業を、学生がわざわざやってきて、「計算してみればけっこう高い金になる」とだれか学生が言いました。それを学生が「時間と金をかけてこれだけのものを得たのだ」という実感があるのかどうか。教師が「この時間は私が仕切るのだ」という、それだけの抱負と自信と覚悟があるのかどうか。それがあれば学生は納得します。
 私は無差別に質問すると言いました。パスは3回まで。「答えられないときはいい、時間が無駄だから。『パス』と言ってくれ。その代わりパスは年間に3回だけ」と言いました。ところが、「出席は絶対に必要ではない。私の試験で80点以上取る自信があったら、来なくても単位はやろう。その代わり出席しないで80点以上取れなかったら落とす。60点でも70点でも落とす」。これは私の約束事。
 私は英語の授業をやっているんです。英語の短編小説を毎週毎週1編ずつ読ませている。「それくらいのものだったら、100パーセント出なくても80パーセントぐらい自分が理解できるのだという自信がある学生は、その時間をほかに使ってもいい」と。私は長い早稲田での、要するに年月をいるため、素晴らしくできるのがクラスメイトに1人いました。その人は出なくてもいいんです。そういう人はその時間をほかのものを読んでいたっていいし、レコードを聞いていたっていい。だから、「あなたたちに、もしそういうのが言えたとしたらいいよ」と言ったんです。
 これは学生に対する教師としてのチャレンジです。「私の授業を聞かなくても、私の試験に80パーセント取れるのだったらいいよ」と言ったの。そんな簡単な英語を、横のものを縦にすればいいというものではない。そんな試験はしない。
 学生が聞くんです。「出席は絶対必要ではないとおっしゃったのに、どうしてパスは3回までなのですか」。早稲田の学生というはうるさいのがいっぱいいるんです。馬鹿な男の子が。馬鹿ですよ、「私語を許さない」と言ったら、「では、チューインガムはいいですか」と言った子がいた。(笑い)。本当、もう、馬鹿な屁理屈をこねるのがいっぱい、男の子で。
 40人ぐらいの中で1人ぐらいがそっぽを向いてしまうの。いきなり私が「私語を許さない」と言うと、「何だ、あのくそばばあ」というのが。やはりいるんです。そんなのを恐れて早稲田の教師ができるか、というやつです。
 それで私は答えたの。「授業というのは教師から得るだけではない。私が学生を指して、あなたの仲間の、非常にいい意見を言う人がいる。それをあなたたちは人と人との意見を聞いてやはりシェアしている。ならば、授業に出ている限り、あなたも何らかの意味で貢献するとか参加するとかしなくてはいけないでしょう、聞くばかりで、いつ指されてもパス、これは絶対に許されることではないよ」と言ったら、さすが早稲田の学生、納得しました。
 でも、出来が悪いのが時々いるんです。「あんた、よくそんな英語で早稲田の試験に合格したね」。また、これ、言うのよ。この学生は、「先生、僕は実はスポーツ推薦なんです」。(笑い)
 時には出来の悪いのがいて、「あんたの英語ひどいね。でも、素晴らしい声をしているね。あんた、ひょっとしたらアナウンサーになれるんじゃない?」と言ったりするんです。その人はTBSのアナウンサーになりました。私も覚えていなかったのだけれども、話に来て、「実は僕は金先生にそう言われたので、アナウンサーになったんです」「ああ、そういえば私の言いそうなことだな」。(笑い)
 教師というのはそういうものなのです。私は試験のときに、前半の試験は必ず採点して返すんです。自分の答案がどういうふうに・・・。うちはここの辺りが小学校なの。大学に通ったらなかなか答案というのは返ってこないのですけれども、私は必ず返している。それで、時々、生答案を読ませたりするんです。自分の採点に責任を持つんです。責任を持って「こういうふうに点数を付けました」と。
 時には、素晴らしい答案にやはり一言書き添えたりする。その子は、私は1年の英語を持っていたのですけれども、その学生が卒業した時にわざわざ手紙をくれました。「先生にそういうふうに言われたので、僕はその道に進むことを決めて、どこそこに入りました」と。教師というのはそういうものなの。厳しく、しかし、学生の可能性というものを見いだす。大勢の中でいろいろな学生がいて、その中でその子その子の特長というものがどういうものなのか。
 素晴らしくゲンエイに恵まれた出来のいい子もいます。でも、時にはそれほどではない学生もいます。ある年、ちょっと吃音の学生がいたんです。一生懸命、指されたら答えようとする努力。本当にそれも一生懸命です。その視線が伝わってくる。本当に涙が出るほどうれしい。
 とてもまじめな学生がいる。こんなに薄い英語の短編集のテキストがこんなにふやけるまで読んでいる。それを見た時に私は言うんです。「週に1遍あるから、とにかく英語を3回は読んでこい。多読をする以外に、今は大学生にとって英語の力を伸ばすということは」。それはいろいろ試行錯誤のもとに到達していた。古典的なイギリス・アメリカの短編をとにかくたくさん読むことによって、受験の時に着けた英語の力をなるべく残していく。それをさせるのだけれども、その中でとても良くできる子の本がこんなにふやけている、倍に。それを見ただけで、「ああ、この子には文句なしにAをやりたいな」と思った。
 そして、その半面、答案を返したあとに女子学生が寄ってきて、「先生の試験は英語の力だけではなくて、文学的なセンスがなければ本当にいい点数は取れませんね」と言われたことがあった。その女子学生は見る目があった。彼女のそのコメントは、要するに批判的に言っているのかどうなのかが私には分からなかった。
 「先生の試験というのは、英語の力だけではなくて文学的なセンスがなければ、本当の意味でいい点数は取れませんね」と。その通り。まじめに勉強していれば80点は取れる。でも、90点以上取ろうと思ったら、それはやはり本を読むというセンスが、本当の意味での読解力がなくてはならないと思う。「ここは早稲田の文学部ですからね」。私の答えです。ほかの所ならいざ知らず、私が英語を教えていたのは早稲田の文学部なのです。早稲田の文学部の学生ならば、英語の力プラスアルファの力がなければ90点以上は付けられません。これは私の教師としての矜持です。
 教員というのは、教壇に立ったときに全存在が問われるのです。そのときにどうすれば自分が学生を納得させられるか。もちろんそれぞれが違った性格と容貌と体格とを持って生まれてきているわけですから、その人その人がどうすれば自分が教壇に立ったときに学生に、「格好いい。この先生の言うことをもっと聞きたい」「うん、なるほどそういうものの考え方があったのだ」と思わせることができるのか。それが、それぞれ教師としての一人一人の教師が真剣に考えることだと思います。
 私は学生たちに「どういうテキストが読みたいか」と聞いたことがあります。50人いれば50の答えが返ってきます。ですから、私は最終的に「私が決める」と言った。私が面白いと思ったら、必ず面白い授業ができる。だから、「私が決めます」と最終的に答えました。
 民主主義の世の中であっても、教師としての役割、学生としての役割、おのずから違います。親の役割、子供の役割、おのずから違います。自分の役割は何なのか、しっかりわきまえてその役割をしっかり果たすこと、これは教育の第一歩だと私は思っております。「鬼かあちゃんの教育論」。これはもちろん私の個人的なものの考え方であり、すべてが私の体験を通じての話です。また私の娘の言葉を言いますけれども、「ママ、私たちだからうまくいったのよ」と。(笑い)「みんながみんなこういくと思ったら、大間違いだからね」「はい」。わが娘の言葉であります。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
(終了)
 
5. 親分科会
5-1 「親学のすすめ」講演録 講師:高橋史朗
 皆さん、こんにちは。金先生のご講演、皆さん、どのように受け止められたでしょうか。「鬼かあちゃん」という言葉が何度も出て参りました。私、ビートたけしの「アンビリーバボー」と言う番組で1時間取り上げられました広島の安西高校と言う学校の、5年前に学校崩壊を立て直した山廣と言う、当時は教頭先生、今は校長になっていますが、その校長に会ってきたばかりなのですが、金先生とイメージがダブりまして。肝っ玉母さんといいますか、女傑といいますか、そういう方にお会いしてきたばかりなのですが、ちょうど安西高校の場合は、学級崩壊ではなくて、学校崩壊。どういう状況だったかといいますと、生徒が勝手に出前を頼む。お好み焼きを頼むわ、ピザを頼むわ、大変な混乱状況で、教室や廊下で食べ散らかして無秩序状態。
 それを先生方はどういうふうに受け止めたかというと、「子供たちは受験競争や学歴社会の犠牲者だ。心の居場所がなくて、文部科学省や教育委員会の誤った教育政策の犠牲者だ。だから、せめてわれわれだけでも、このままの子供の現実を受け止めて、自由にさせようじゃないか」。つまり、言葉は美しいのですが、あきらめ症候群だったわけです。それに対して山廣さんは、今日の金先生と同じようにおかしいと、それはおかしいと。
 どこから始めたかといいますと、教師と親の意識改革。これから学校を1人で変えました。まず、校門の所にテントを張りまして、一人一人遅れてくる高校生を、私は「心施」という言葉をいつもキーワードで言っておりますが、「心を込めて、心を尽くして、心を伝える」、これに徹したわけです。
 先生方が心を込めて、遅刻をしてくる高校生一人一人に話をしていく。この学校は半分以上が退学者という大変な学校です。私も12月のはじめに埼玉の蓮田高校と言いまして、大麻で4人逮捕されて、そして3年生200人定員のうち在籍者は94人、つまり半分以上が退学しているという学校で講演をしました。
 実は、この蓮田高校の教頭先生は師範塾の卒塾生でございまして、私、たまたまテレビを見ていいたら師範塾の卒塾生が謝罪会見をしているので、これは大変だと。校長と並んで謝罪をしておりました。そして、お会いをして、どういう状況かと聞いたら1学期だけで生徒指導を受けたのが六十数名、圧倒的多数は指導拒否というのです。先生の指導も受け付けない。つまり信頼感がもう全然ないのです。そこは3年生が半分退学しているという所で、安西の場合は、全校の半分が退学するという大変な学校でした。
 それで、まず先程申し上げたように校門でぴしっと指導をした。それから二つ目は、服装指導を徹底したのです。校則に反する服装をしている者、あるいは頭が金髪とか、そういう者は欠席したと見なす。翌日からころっと態度が変わったというのです。校長先生の前にみんな、例えば金髪している子は「先生、黒くなったでしょう、早く見て」というふうに、たった1日で豹変したというのです。これはある意味でアメリカのゼロトレランス方式です。トレランスは寛容さです。寛容さのない、まさに今日の金先生のお話のように、厳しさをきちっと子供と対峙する。子供にこびない。
 これは私、臨教審の時代に、政府の審議会の専門委員をさせていただいた時代に、ニューヨーク、オランダ、フランス、イギリスを回りましたけれども、ちょうどニューヨークも中学校でガラスを割った子がいまして、すぐスクールポリスが駆け付けてきて、親を呼んで罰金を取りました。この時のことは、私には非常に印象的でした。日本では考えられない。窓ガラスを割ったら親の責任を問うなんていうことは、日本に全くない発想です。
 例えばアメリカの不登校対策も同じところがありまして、カリフォルニアの州法を見ておりましたら、不登校についてものすごく詳細に法的に決めております。イチロー選手がいるシアトルでも同じです。まず、不登校についての法律ができています。これはアメリカ挙げての法律です。連邦法です。そして州ごとに法律が決められていて、例えばシアトルの場合は、不登校に対して1日25ドルの罰金を親にかけます。こんなことは日本でやったら大変です。あるいは、親がボランティア活動に参加することを義務付けています。
 つまり、学校に行かないということを親が教育を怠慢していると、これはネグレクトと言いますけれども、親が家庭で教育する責任を放棄していると。これは日本の親の意識とアメリカの親の意識は全然違います。親が家庭で教育する責任があるという意識を基本的に持っているわけです。日本の場合は義務教育の概念が、学校に通わせる義務、就学の義務だそうです。
 アメリカはホームスクールというのが、私がアメリカで行った所は100万を超していましたから、100万以上の家庭で、親が家庭で子供を教えていた。こんな学校でこんな教師に安心して任せられないとか。そういう発想は日本に全くないのですが、これもある意味でゼロトレランス方式です。もちろんゼロトレランス方式だけでは不登校の問題は解決しないのですけれども、しかし、そういうかかわり方をしているということは大変参考になります、日本は甘やかされた児童中心主義というものが教育界を覆っているものですから。
 さて、今日、私がこの「親学のすすめ」ということで冒頭から申し上げたいことは、この10年ぐらいで子供は大きく変わったと思っています。恐らく、今日は保護者の立場の方、教師の方がこの中には両方いらっしゃると思うのですけれども、この10年で大きく子供が変わった。そのことを1枚目のレジュメに従いまして、(1)からお話をしていきたいと思います。
 レジュメに番号を振りましょう。1枚目の本レジュメは番号を打たないで結構です。とじてあるものを上から1ページ、2ページ、3ページと付けていってください。13ページまであると思います。それからもう1枚、A4で「幼児教育時報」というのがあります。これは別紙とします。これは公立幼稚園が出している機関紙に書かせていただいたものです。
 まず、「子供が大きく変わった」と言いました。具体的には、なぜ変わったかというと、環境が変わったことと親が変わったこと。この二つが根本原因だと私は考えています。まず、(1)「相次ぐ少年凶悪事件」。神戸の自らを酒鬼薔薇聖斗と名乗ったA少年。豊川は高校生で、愛知県で2千人ぐらいのうちで17番か18番という優等生が主婦を殺害する。「彼はどこまでやると人が死ぬか、本当に人を殺すということがどういうことかを知りたかった」というふうな証言をしました。これはA少年もよく似ているのです。「人の壊れやすさを確かめるために実験することにした」。これは共通の脳の異変です。ある意味で発達障害です。
 そういうことはあまり大っぴらに書かれないのですが、長崎の種元駿ちゃん殺害の事件、あの少年も広汎性発達障害と言われているものでした。そして、実は今度の佐世保の少女については盛んに「週刊現代」に連載されました。実は、封印されていたけれども、どうも広汎性発達障害と関係があったことが分かってきたのです。
 そのことはあとで話をしますが、つまり、脳に異変が生じている。そのことをきちっととらえないと、表面的な心の教育とか、私は「感性を育てる」という教育をライフワークにしていますが、今や学校教育の道徳教育とか心の教育というものが成り立つ基盤が崩れ始めているのです。その家庭の教育力、私は「親心の喪失」と言っていますが、その親心が崩壊してしまえば、家庭教育が崩壊してしまえば、どんなに学校で道徳の時間に人権教育や道徳教育をやっても、心の琴線に触れないのです。魂を動かすことができないのです。なぜ今、親学か、なぜ師範塾が親学を問題にするかといえば、そこに根本的な問題があるからです。
 まず、佐世保の少女の事件を考えましょう。(2)に「佐世保小6同級生殺人事件」と書きました。あの佐世保の少女は、いまだに命を奪ったことの重大性を実感できないのです。いまだに遺族の悲しみを実感できない。なぜ実感できないか、これは判決に詳しく出ております。9月の中旬にすべての全国新聞に報道されました。特に毎日新聞は詳しかったです。それによれば、生育歴が書いてあって、幼少期に親に甘えることをしなかった。依存することをしなかった。その親は手が掛からないいい子だと考えた。ここに根本問題があるわけです。
 子供は一番信頼できる大人に甘えて、依存して、やがて反抗しながら自立していくのです。自我が形成される過程というもの、自立に至る過程というものにはプロセスがあります。その必要不可欠なプロセスというものが育っていない。ここが根本の問題です。甘えること、依存することをしなかった、反抗することがない。これが大きな問題だと言いましたが、11月末にビートたけしの「テレビタックル」に私は出ましたが、そこで「守破離」という言葉を詳しく紹介してくれました。これは僕が千利休の言葉を使って、守破離というのは教育の原点だということを申し上げたのです。子供の脳の発達段階に応じてどうかかわるべきかという、これが大事な親学の原点です。親学はイデオロギーではないのです。親学は子供の脳の発達段階に応じて、心の発達段階に応じてどうかかわるべきか、ということをきちっと科学的に、今解明が進んでいるわけです。
 日本人は、「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」という、これは守破離と一致しているのですが、素晴らしい子育ての知恵を受け継いできたのです。まず、しっかり抱くというのは受容。丸ごと受け止める。先程の金さんの話では、とにかく子供を無条件で抱き締めるということです。あるいは愛着、これらは母性的なかかわりです。それを日本人は「三つ子の魂百までも」と言ってきました。今、ここがどんどん崩れ始めているのです。
 例えば幼児虐待、ものすごく増えています。子供を愛せない症候群、最近コマーシャルにも出てきました。わが子を愛せない。なぜ、わが子を愛せないか。それは子育てのプロセスがどんどん効率化しているからです。親と子の関係性というものが崩壊し始めている。これもあとでお話をしますが、今日のキーワードはいくつか親学のキーワードと脳科学のキーワードがあります。
 脳科学の一つのキーワードに「幼形成熟」、幼い形の成熟という言葉があります。これはどういうことかというと、人間の脳はあまりにも早くから発達すると産道を通ることができないので、産道を通って産まれてから脳が発達するようにできているのです。例えば、はいはいする時間が長いですね。動物ではすぐに立ち上がる動物がいます。3歳までは親に甘えて依存しなければ自立できないように、人間の脳はできているわけです。その過程の中で、その手作りのプロセスの中で、実は親心が育ち、子供の・・・。
 あとでPQということをお話ししますけれども、人間的な知能、今、さまざまな凶悪事件が起きているのはこのPQの機能低下なのです。PQというのは統制する機能です。統合する機能です。コントロール機能です。統合する機能というものが、どんどん低下している。このことが、一番根本にある問題です。
 下に降ろすというのは分離であります。これはまさに今日の金先生は下に降ろす。いつまでも抱いていたら駄目なので、下に降ろしているわけです。これは秩序感覚とかルール感覚とか、規範意識、人間としてのマナーを教えるという、これは子供の壁になって、子供と対決している。対決という言葉が出ましたが、まさにこれはフセイ原理です。こちらが太陽の働きで、こちらが北風の働きで、この太陽も暖かさと北風の厳しさ、二つのかかわりがあって初めて1人で歩くこと、自立ということが可能になるわけです。
 ところが、なぜ今子供の問題行動がこんなに増えているか。なぜこんなに少年の凶悪事件が増えているか。それはこの二つの関係性が崩壊しているからです。かかわりの欠落、つまり大人の問題なのです。子供の問題ではないんです。そこをきちっと理解をするところからしか教育改革はスタートしません。
 そこで、またレジュメに戻ってもらいたいのですけれども、佐世保の少女は、今、栃木の鬼怒川といいましたか、更生施設に2億円の専用棟が造られて、特別プロジェクトチームが更生に向けて一生懸命かかわっています。擬似家族によって育て直しということをやっているのです。これはA少年と全く同じです。神戸の児童連続殺傷事件のA少年の場合は、7年かかって特別プロジェクトチームのお父さん役、お母さん役の擬似家族が、1対1の心のぬくもりを体験するしか心を変える道はないのです。
 私はいつも「子育てのプロセスというものは効率化できない、合理化できない」と言っているのですが、その親と子の心の交流、ぬくもりという1対1の関係を回復する以外に、佐世保の少女もA少年も立ち直らすすべがない。そこで同じように1対1の擬似家族によって育て直しということをやっているわけです。
 4番に「佐世保事件」と書きました。田中昌人と言う京都大学の教授がこういうことを言っているのですが、「自我の確立には自分をよりどころとする心の杖が必要です。その杖なくしては自立の基盤はできない」。心の杖という、つまりそれは心の支えです。それがなければ、いくら自由とか自立といっても無理なのです。
 そこで佐世保の少女は、命というものを奪ったことの共感性がなかったと言いました。それは甘えること、依存することをしなかったために、愛着という関係が欠落しているために、基本的な安心感とか信頼感が育たなかった。親とのかかわりの中で、つまり愛されて育つ。信頼されて育つという中で初めて共感性、思いやり、対人関係能力が育つのです。今、社会力の衰弱がこの国の若者に顕著であります。社会力というのは、人と人がつながって社会を作っていく力です。これを社会力といいます。今社会的な社会力の低下は何で表れているかといいますと、不登校はもちろんのこと、20代・30代の閉じこもり、これも膨大な量です。
 この実態はあまり知られていませんが、小・中・高の不登校よりもある意味でもっと深刻かもしれません。社会的な引きこもり、大体小・中・高の不登校児が15パーセントは慢性疲労症候群といいまして、これは今、脳科学から解明が進んでいるのですが、慢性疲労の状態になっているのです。そのまま社会的な引きこもりに入っていて、15パーセントは確実になっています。そして、それがニートにもつながっているわけです。八十何万というニートの存在です。ニートは皆さんご承知のように、働いていない、教育も受けていない、職業訓練も受けていないという若者がなぜこんなに生まれているか。それは根っこは一つなのです。不登校、社会的閉じこもり、そしてニートです。
 根本にある問題、1ページの資料です。僕の手書きのメモ、読みづらいかもしれませんが、ちょっと見ていただけますか。これは愛着障害という所の真ん中辺り、分かりますか。愛着障害というメモが入っています。今、子供たちに何が起きているかというと、「他者の喪失と現実の喪失」と言っています。つまり、現実感覚というものがどんどん分からなくなっている。そして他者の喪失というのは、殺してもわがことのようにその悲しみが実感できない。これを他者の喪失と言っています。
 なぜそういうことが起きているかといいますと、これは心理学の言葉でいいますと、鏡像段階の通過という問題がある。鏡像段階というのはそこに「母と子の人生最初の顕著な共同作業」と書いています。そして傍線を引っ張って左のほうに「乳児が自分を抱く母親の体とまなざしを喜んで自らのものとする段階」。これが鏡像段階です。つまり、母親のまなざしを受けて、微笑みを受け、微笑み返す。ここから初めて思いやりや人間関係能力は育っていくわけです。
 「育む」という言葉の語源はここから来ている。羽で含むというのが育むという言葉の語源なのです。羽で抱き締めるという、つまり愛着という愛情と信頼で抱き締められるということが、心が育つという条件です。だから、愛されて育たないのに心が育つということはなかなか難しいわけであります。だから僕は、「親心が崩壊してしまえば、子供は優しさを学ぶチャンスを失う」と言っているのです。
 さて、そこで(6)、「急増する子供虐待と反社会的行動」と書きました。どれくらい児童虐待が急増しているか。私の所にたくさんの親が悩み相談に来ています。皆さん、9ページを見ていただけますか。今、いかに児童虐待が急増しているか、まず、現実を認識しましょう。9ページのグラフで「虐待の急増」というのがあるでしょう。1990年から2002年まで急激に伸びています。増えています。1990年には、こんなにまだ数は少なかった。それが一気に急増しています。そして、児童虐待というものが子供にどういう影響を与えているかという、そういう関係も最近、脳科学の研究によってだんだん明らかになって参りました。
 その資料が3枚目、3ページを見ていただけますか。今日はできるだけ、具体的なデータを皆さんに紹介しながらお話を進めたいと思っています。この3ページは、出典は書いておりませんが、文部科学省が今年の1月から、「情動の解明とそれを教育にどう導入するか」と言う研究会を始めたのです。情動というのは、EQの根本です。IQはインテリジェンスクオーティエント、知能指数。EQは心の知能指数。PQは、プリーフロンタルクオーティエントと言って、前頭連合野の知能。つまり人間的知能、人格的知能です。
 これからEQとかPQが21世紀のキーワードになってきますけれども、このEQの基になっているのが情動です。これも今、脳科学でどんどん解明が進んでいて、例えば直接体験をします。そうすると感覚皮質で感覚が刺激されます。そして大脳辺縁系という所で情動、情動というのは怒りとか不快とか憎しみとか。快・不快、それが情動です。それが今度、前頭連合野にいくと感性、私が今研究している感性というもっと高度な統合機能に知情意を統合していく精神として創出されるという、その幸せだと感じる幸福感、これはセロトニンという脳内物質が出るときに、人間は幸せだなあと感じる。
 ところが、豊川の少年とかA少年のように、人はどこまでやると死ぬかというのを知りたかったというのは、要するに楽しさというもの、あるいは命というものを実感できない。ここが根本にある問題です。それが発達障害とも関係があるのですけれども、この情動に関する研究会が1月から文部科学省でスタートしまして、今月、最終報告書が出ます。これは私は毎回出ていますが、ものすごく面白いです。一番最先端の議論をしています。元文部大臣が座長で、お茶の水女子大学の副学長から全国の研究者のトップが十何人で大激論をしております。
 文部科学省はなぜこんなことをやっているかというと、脳科学で学習指導要領を改訂しようと考えているのです。このあいだ文部事務次官とお話をしたら、「文部省の中で反対者は1人もいない」と言いました。教育学者には反対者がいます。これはあとでお話をしますけれども、なぜ学習指導要領を脳科学で改訂しようと考えているかというと、脳科学というものが、教育の不易にかかわることだと。不易というのは、流行と不易という言葉をご存じですか。不易というのは時代とともに変わらない。不易な価値。流行の価値は、時代や国とともに変わる価値。例えばビー主義というのは流行の価値です。不易というのは、時代を超えて、国を超えて変わらないもの。つまり、脳の発達というものは、時代が変わっても、所が変わっても変わらないものだと。
 そのことを、臨教審の元会長をしておられた岡本道雄と言う京都大学の総長が、私の臨教審時代、まだ34、5歳のころに、一生懸命にそのことを臨教審で強調しておられたのですが、私には当時理解ができなかったのです。つい先日、お電話が携帯に突然入りまして、「今、京都大学病院に2年半ほど入院している。あなたに会いたい」と言うので、急に京都大学病院に行ってきたのです。それで臨教審の総括をどうするかという議論と、もう一つ脳科学教育の話、「あなた、最近急に脳科学のことを書いているけれども、私が今から20年前に言っていたことがやっと分かりましたか」と、こういうわけです。
 この方は脳の研究者です。基礎研究の権威ですけれども、脳のことを盛んに臨教審でおっしゃるので、当時、僕はよく分からなかった。脳の研究者だからしょうがないと。脳という部分の話を全体に、脳を研究したって人間の心が分かってたまるかと。僕は感性とか心の研究をしていたから、脳というものはごく一部のものであって、そこから心や人間らしさとか人間の感性とか、そんなものは分かるわけないと思っていたわけです。だから心の中はノーだったのです、と言うと冗談ですが。(笑い)
 ところが、今から2年ほど前に筑波大学の大学院に、感性認知脳科学専攻というのができたのです。感性と認知能力、感じることと知るという能力を統合する、脳科学の専攻が始まったのです。感性の働きとか感性の仕組みとか感性の機構はどうなっているかという研究が脳科学で始まった。
 私は森昭雄と言う、今、「ゲーム脳の恐怖」を書き、最近、「ITが子供を殺す」と言う本を書いた研究室に行きましたら、1億円の機械でモーツアルトやベートーベンを聴きながら感動しているときに、脳がどういう状態になっているかを目の前で見せてくれるのです。これには僕はびっくりしました。感動して涙を流しているなんていう状態は目に見えないものだと思っていました。ところが、ベートーベンやモーツアルトを聴きながら感動しているときに、自分の脳がどういうふうに動いているかを500分の1秒の映像で見せてくれるのです。皆さん、いつでも東京に来られるとき、私がご案内しますから自分で見てください。
 そうしますと、モーツアルトの場合はイメージですから、前頭連合野から視覚脳のほうに活性化するのです。ベートーベンは右の脳に活性化するのですけれども、では美空ひばりはどうなるかとか、いろいろ興味は尽きないのですが。つまり、心とか感性とか、今まで目に見えないと思われていたものは、最近の脳科学の進歩によって、目に見えるかたちで提示されるようになった。
 あるいは今、特別支援教育の中に、この脳科学を生かすということがどんどん出てきております。私は今、そのことに一番関心を持っているのですけれども、もともと教育に入ってきたのは、僕は障害児の教育に関心を持って入ってきたのですが、「脳と障害児教育」と言う本が出ています。ここには障害児の脳をずっと分析しながら、それをどうやってかかわっていったらいいかということが膨大な量で、3,500円と高い専門書ですけれども書かれています。この本の中で、「すべての養護学校に脳の専門家の教師を配置しろ」という提言をしています。実に具体的な教育現場に脳科学を生かそうという試みが始まっているわけです。
 そこで資料を見てください。「虐待と子供の反社会的行動」の関係がさまざまな調査で明らかになっているわけです。まず、非虐待体験と反社会的行動の関係。これは1996年の調査ですが、20年以上、虐待された子供を追跡調査した結果、違法行為・軽犯罪で逮捕されたのが49パーセント。暴力事件で逮捕されたのが18パーセント。最近の脳科学研究の目覚ましい発展はどこから来ているかというと、長期的に長期の追跡研究が始まったのです。
 例えば閉じこもっている子供は、5年間閉じこもっていると脳がどういう状態になっているかを研究している。あるいは今、乳幼児、ゼロ歳から5歳から膨大な予算をかけて脳の検査が長期的に続けられているのです。その結果、いろいろなことが分かってきたわけです。右側のほうは、「反社会的行動と虐待体験」の関係です。もちろん調査によってデータは違いますけれども、薬物乱用青年500人を調査したら、30パーセントは虐待を受けていた。犯罪少年の45パーセント、非行少年の55パーセントが虐待。窃盗少年の37パーセント、暴力団少年の57.5パーセント、少年院在院者の72.7パーセントに虐待体験があった。
 下のほうを見てもらうと、「虐待の種類と反社会的行動の関係」というのがありますが、身体的虐待を受けた子が暴力的犯罪に多く走っている。性的虐待を受けた子は性犯罪に多く走っている。ネグレクトというのは、怠慢、無視です。その虐待を受けた子は非行に走っている。つまり、どういう虐待を受けたかが、どういう反社会的行動につながっているかということが、だんだん明らかになって参りました。
 私もたくさんの虐待をしてしまっている親の相談をカウンセリングしていると言いましたが、ある意味で虐待をしているお母さんもかわいそうな存在です。気が付いたらもう手が出てしまった。「どうして、こんなことになったのだろう」と言って相談に来られるのですけれども、僕は必ず自分がどういう生育歴で育ってきたかを振り返ってくださいと、そこから全部始めるのです。つまり、これはある意味でトラウマの連鎖です。自分がどういうふうに育ってきたかたということが、気付いたら同じことをしてしまっている。自分が十分な愛情を受けなかった、あるいは体罰を受けた、虐待を受けた、そういうことが知らず知らずのうちに、子供に対してもそういうふうになってしまっているということが多いです。いかにしてこのトラウマの連鎖を断ち切るかという大きな課題があります。


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