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 ・・・3人の男の子は。一度、長男だけを連れ、それと女の子2人と、子供が多いとすぐにハイになってかえって騒ぎ立てるのですけれども、優しいおじいちゃんが本当にいくら注意しても聞かないので、あの優しいおじいちゃんが怒って、パーンとほっぺたをぶったことがあるんです。それ以来、つまり男の子は、私たちは外食するときにはどこにも連れていきません。
 ある日、その息子の長男が息子に言ったそうです。「うちって貧乏なの?」と。(笑い)「どうして外で食事をしないの?なぜ?」。あの人たちは3階に住んでいる。娘夫婦は2階に住んでいる。私は1階に住んでいるんです。「三家族11人で暮らしてみたら〜三世代同居物語〜」と言う本もありますからどうぞ。ご参考まで。(笑い)「どうして2階はしょっちゅういろいろな所にご飯を食べに行っていて、うちはめったに外に行かないのか」と、こういうふうに言ったそうです。息子も馬鹿だから、そういう時にまともに教育できないんです。
 だから、その時、私は言ったの。「コタロウくん、金持ちとか貧乏の問題ではないのよ。外にご飯を食べに行ったときに、きっちりとお行儀良くできるかどうかの問題なの。ハナちゃんとナッちゃんは、どこに行ってもきっちりちゃんとルールを守って食事ができるから、いつでも連れていけるのよ。どこにでも連れていけるのよ。あなた、駄目でしょう?いつもそうやって大騒ぎして。だから、連れていかないのよ。もし、あなたがきっちりルールを守ってしっかり静かにご飯が食べられるようになったら、どこにだって連れていってあげるよ」。
 実はこれが教育なんです。日本人は優しいから、かわいそうだからとか、これじゃ差別じゃないの?不幸だとか何とかと。違うんです。子供は何も分からない。教えるのが親の努めです。特に私の娘が言った「3歳までに基本的なことをしっかりとしつけていれば、あとは楽なんだ」と。
 男の子と女の子の違いというのはあります。ましてや「だんご3兄弟」、息子に言わせると「日光猿軍団」、(笑い)今や「サファリパーク」と言われているのですけれども、本当に難しいと思います。私に任せられてもどうしょうもなかったかもしれない。私は幸いに女の子と男の子が年子で、まとめて面倒を見て、しかも私のように「鬼かあちゃん」だから、枠にはみ出したくてはみ出したくてしょうがない男の子も、何とか、今、世の中に出ていってルールが守れるようになった。
 ルールを守るのが、法を守るのが、結局は一番安全で、大切で、安心なのだと、得なのだということです。理屈で分からなければ、ルールで分からなくても、どうすれば得なんだということを身をもって覚えさせる。これなんです。細かい方法論は全部本に書いてあります。本当に、約束を守らなければ何があっても「ノー」。そこでごねてごらんなさい。ごねればごねるほど言うことは聞いてもらえない。勝手にしろ。ごね得なんてことは一切させない。これなんです。
 子供だけではないよ、皆さん、この世の中にはどれだけのごね得があると思います?もちろん、最初のボタンの掛け違いだったり何なりして、成田空港があんなにめちゃくちゃになってしまって、元来の予算の何十倍というお金がかかっても、いまだ2本目の滑走路がちゃんとできない。農民の意地もありましょう。だけども、あの時、あそこの地主のために乗り込んでいった社会党の人たち、学生の反体制の人たち、ああやって散々、首都の空港を何十年もあの状態にほったらかしにしてあって、今、北側に新調して新しい滑走路やっと造るといった時に、朝日新聞は何と言ったと思います?「北に行くのは仕方がないとしても、南のほうがよっぽど便利だから、やはりこの農家の人たちとは話し合いを続けるべきだ」と言うのです。
 つまり、農家の今まで頑張っている地主に人たちの利益をやはり守らなくてはいけないと言っているわけ。つまり、今、「もうあなたたちはどうでもいいよ。こっちに行きますよ」ということになったら、今までずっと反対を貫いてきた人たちのこの土地というのは二束三文になってしまう。そうでしょう?国土交通省に空港の建設のために買ってもらわなくては、この土地は二束三文です。だれが買いますか。もう既に宙に浮いてしまっていますもの。だから朝日新聞は、「引き続き話し合いをしろ」と言っているわけです。でも、何十年もたって、やっと行政側がこういう判断を下したのです。散々甘やかして。いつもこういう状態なのです。ごねるほうが得だという例がどれだけあるか分からない。
 その点です。これはだれでも考えないし、だれも聞いてくれないのだけれども、私が言ったのは、あの反対運動をした人たちはいったいどうなったのか。社会党の人たち。ある時期、与党になりまして、そこからは派遣されてどこか国際会議に出掛けるのに、成田空港から意気揚々と満面笑顔で出掛けていった。「恥を知れ」と私は言いたいわけ。堕落です。あんなに成田空港の建設に反対したのに、自分は成田空港から国の代表として、笑顔満面で「やっと与党になりました。大臣にもなりました。何にもなりました。国を代表して会議に出掛けます」。本当に私だったら、自分が反対した成田空港建設であれば、いくら不便でも羽田から関西空港に飛んで関西空港から出ます。または九州の福岡空港から出ます。恥ずかしくって、そんな成田空港からなんて出られますか。
 でも、自分のそういう説を守っている人がいますか。恐らくほとんどいないと思います。まれに1人や2人いるかもしれないけれども、あの時、ゲバ棒を担いで大騒ぎしたあの若者たち、または政治家たち、社会党の連中、1人でも「私は反対したんだ。だから、成田空港は使わないんだ」という説を全うする人間、残念ながら今の日本にはほとんどいない。
 毎日の生活のルール、約束事、どうすればきちっとした生活が得られるかということもとても大切ですけれども、それと同じぐらい大切なのは、今、私が言った人間としての節度の問題です。今、日本の教育は全くそれをやっておりません。そこが問題なんです。親のしつけは生まれ落ちてから3歳まで、または小学校に送り込むまで、日々の人間としての成長、人間としての営み、人間としての約束事、そういうものを、どう子供たちに刷り込んでいくか、これが基本的な親の役割だと思います。
 人間として正しくないことといったら何ぞや。そういうものを、何か折に触れて子供たちに刷り込んでおく。どうすれば自分の安全が守られて、どうすれば危険な目に遭わなくて済むのかということを含めて、日々の営みのルールを教えなくてはいけない。そして更に、「どういうことというのは実にみっともないことなのだ」ということをやはり生活を通じて教えていかなくてはいけない。
 私はいつも言うんです。宝塚ではないけれども、人間というのはやはり「清く・正しく・美しく」というのが三つの柱だろうと思っています。そして思うのは、「清く・正しく」というまでは何とかできるけれども、「美しく」というのがなかなか難しいといつも言っております。元来の美しいというのは、どういう姿が美しいかということは千差万別だからです。
 でも、例えば先程の成田空港の例で言うと、私ならば、自分が反対してあれだけいろいろな所に迷惑を掛けて、成田空港の建設費が本当に何十倍という差になって、それでもなおかつできたら、自分が成田空港から飛ぶということ、美しくない。これは人間として最も美しくない行為だと私は思うわけ。その先生はそんなことは思っていない。政府の一員として意気揚々と、カメラを向けられたらにっこり笑って、「これから、わが国を代表して会議に行ってきます」なんて、私に言わせるとみっともない限りだと。
 だから、とても難しいことではありますけれども、それぞれの家にそれぞれの家庭のそれぞれの価値観というものがあるわけですから、その中でどういうふうに子供をしつけ、育てて、教育していくかを親がしっかり考えなくてはいけない。
 今の世の中はとても難しい世の中です。私の娘の言葉です。また娘の言葉が出てくるのだけれども、「ママ、私たちの時代と違って、今の子供に我慢を教えるというのは至難の業なのよ」。魔法のランプを与えられたみたいにシューと一吹きすれば、「出てこい、シャザーン」と言う存在が出てきて「はい。お姫様、何のご用でしょうか」と何でもやってくれる。出てくるのはシャザーンだけど、実は何?母親なのよ。
 女の子を監禁した人が「王子様と言え」と言っているでしょう。そういうふうに育てたのは母親です。何でも自分の思った通りになってきた子供のころからの人生がそのままずっと続いていれば、極端な話、そういうふうになってしまう。
 自分の家が一番快適。とにかく自分のやりたいこと、言いたいこと、すべて通る。「思い残し症候群」ではないけれども、思い残しなんか何にもない。こう言えば、母親が全部何でもかなえてくれる。こんな快適な環境というのはほかにないわけ。一歩外に出たら、そんなのはだれも、あなたが思う通りにならないし、あなたが言う通りになんかだれもやってくれない。
 学校というのはむしろいいほうです。学校というのは、少なくとも子供を第一義に考える所だし、子供の教育、子供の安全、子供の健康、子供の幸せを考える空間です。それでもこれは団体生活ですから、自分の思う通りになんかなりません。
 そこで登校拒否が始まるわけです。それで引きこもりになってしまう。家に帰れば何でも思う通りになってしまうし、何にもしなくていいし、だれも自分に反対しないし、神経も使わない。むしろ威張って母親に何でも言い付けられる。学校に行かれない人が、社会なんか出られるわけがない。社会に出るというのはもっと大変なことです。ましてや生活の糧を得るということはもっと大変なことです。出ていけるわけがない。
 だから、家の中で甘やかされて、家の中で母親が何でも子供の言いなりになって子供の願望を全部かなえてきたとしたら、極端な話、その子供は社会に出て行けません。だから、私は「思い残し症候群」なんていう言葉には絶対反対であるし、その時言えば良かったのですけれども、言うならば「これはあなたの思い付き症候群でしょう」と。(笑い)
 今の人たちは思い付きが多すぎるのです。何かうまい言葉を見つけたら、それをまたメディアが寄ってたかってはやし立てる。思い付きです。きっちりとした哲学であるとか、価値観であるとか、遠い目で、本当に遠い視野で広く遠く眺めたうえでのいろいろなことではなくて、ひょいと思い付きで言ったら面白がって、メディアがワーワー言う。早いのは3日で終わってしまうし、2年で終わってしまう。
 「ゆとり教育」。同じことでしょう?大体、そういうことに翻弄されている今の親であるとか子供であると、これはやはり取り返しがつかないことになるのです。だから、親は自分の子供をどう育てるか、第一義的に責任を持っているわけ。生まれて育てて、小学校に送り出すまでの長い時間は全部親の責任です。特に母親は一番長い時間、子供と接するわけですから。10カ月も自分のおなかの中で育てて、送り出して。父親がいくら協力的でも、おっぱいを飲ませて、かかわり合う時間が最も長いのです。だから、やはり子育ての一番重い任務は母親が背負っている。
 父親がもろに参加しましたから、わが家というのは割と例外です。そういう例外的な家庭もありますけれども、普通は大体、母親がもろにかかわるわけですから、母親は賢明でなければ、母親が賢くなければ、子育ては非常に難しい。
 どうして、かつてあんなたくさん子供がいても比較的まともに育ったのに、何で今、1人や2人の子供をこんなに持て余しているの?1人や2人だから大変なの。それからもう一つは、核家族という生活形態。実はこれも問題があるのです。そんなに大豪邸に住んでいるわけではなし、大体、普通のアパートに住んでいれば2LDKとかそんなものでしょう。そこで親と子供が24時間、朝から晩まで顔を接しているというのは非常によろしくない。ましてや日本の親というのは、大体子供に構い過ぎる。だから、子供はいつも構ってもらっていないと満足しない。
 皆さん、旅行に出掛けていって、特にヨーロッパや何かに出掛けていって、若い白人の夫婦が子供連れをしているのに出会うことがよくあると思います。大体、そういうときのケースというのは、子供とかみんなハッピーな顔をしています。大体、父親が背負っていたりなんかしていて、前を向いたり後ろを向いたりしていますけれども、子供というのはいつもにこにこにこにこ世の中の風景を眺めて、人が来てもわーっと笑いかけたり、ちょいと構うとにっこり笑ったり。
 私はヨーロッパを旅行していて、アメリカを旅行していて、そういう小さな子供連れの親に会うことがいっぱいありますけれども、子供が泣きわめいていることは1度も見たことはありません。1回だけ、最近例外的にありましたけれども、それまでは1回も見ていない。どうしてあの子たちはあんなにハッピーなのかなと。あの子たちは、好奇心が、関心が外に向かっている。
 日本の子供は、日本の国内でもそうだし外国に行ってもそうです。泣きわめいているケースが多い。でなかったら、大騒ぎをしている。新幹線の中でも大騒ぎをして、自分だけこんなに大きな声を出している。レストランに行っても。一度、私は沖縄に行って、海に面した素晴らしいホテルに泊まって、そこで食事をしていた。そうしたら、ホテルのフランス料理屋さんに乳飲み子を連れて入ってきた。そのホテルには子供を連れていってもいいレストランがあるにもかかわらず、その夫婦は乳飲み子を連れてフランス料理のディナーを食べに来た。赤ちゃんがワーワー泣いている。
 私は即座にたまりかねてマネジャーに言ったの、「夜のフレンチレストランというのは、乳飲み子を連れて入る所ではないから、それはやめてほしい」と。「ホテルの姿勢が悪い」と。大人の世界と子供の世界というものを全然区別ができていない。ましてや子供が行ってもいいレストランもそのホテルがあるにもかかわらず、その若い夫婦は自分がそのフランス料理が食べたいばかりに、他人の迷惑を考えずに、みんなが高いお金を出してここでゆっくりフランス料理を楽しもうとしていて、それこそ生演奏の音楽もピアノもあるかもしれないのに、乳飲み子を抱えてきてそこで子供をワーワー泣かせている。
 わが家の近くでおいしいフランス料理があるんですけれども、私はいつも娘夫婦と行くんです。先程言いましたように、娘の2人の娘というのは非常に心得ていますから、だれにも迷惑を掛けないで大人並みのきっちりとしたマナーが取れる。だから、連れていくんです。
 そこへ男の子を連れてきた夫婦らしき人と、その親の年配の女性2人が入ってきた。「久しぶりですね」というお店のあいさつに、「いや、この子がちゃんとしているかどうか心配なのよ」と母親らしき人が言ったんです。悪い予感がしました。これはちょっとまずいかな。そうしたら、やはり途中からワーワーワーワー、「もう、帰りたい」、やれ何のかんのと。話を聞いていると、どうも娘夫婦がどこかへ転勤していたのが久しぶりで帰ってきたので、おばあちゃんが喜んで接待して、おばあちゃんの妹か何か分からないけれども、もう1人その年の似たおばさんとも一緒に。大人が4人いて、子供が1人いて。そのレストランも気を使って、アイスクリームを届けるは、何をしても泣きやまない。
 さあ、怒りました、金美齢さん。(笑い)こんな高いフランス料理屋さんにみんなフランス料理を楽しむために来ているわけ。店の雰囲気全部を引っくるめての値段です。そこで何で男の子がギャーギャー泣いているのを聞かされなければいけないのですか。店の人は言えないわけ。それで、一生懸命、シャーベットを届けたり何かするのだけれども、それでも泣きやまない。
 私は立ち上がって言ったの。「そんなに食べたいのだったら、どなたか連れて帰ったらいかがですか。こういう場所というのは子供の泣き声は似合いませんよ」と。年寄りはさすがに「すみません」と言ったけれども、若夫婦、特に父親は謝りもしないで私をにらみつけているんです。そういう親に育てられるから、ああいう子供ができて出てくるんです。
 うちの3人の「だんご3兄弟」もきっとお行儀なんか良くしていないし、めちゃくちゃだと思う。だから、ああいう所に連れていかない。注意されたら、少なくとも息子も嫁さんも謝ったと思う。
 だけど、そこはそうではない。私は言ったのよ。「そんなに帰りたがっているのだったら、どなたか連れていったらいかがですか。お帰りになったらどうですか」。そうしたら、おばあちゃんが犠牲になって連れて帰りました。でも、一言も謝らない。だーっと雰囲気が悪い。雰囲気が悪いに決まっているんです。そういうふうに雰囲気が悪くなるからだれも注意できないし、人様の子供に注意できないから、ますますそういうことというのははびこるわけ。私はしょっちゅうやっています。
 帰って、娘が孫に、「ボスがああやって注意したのはびっくりした?」と言ったら、「ううん。そろそろボスが怒るだろうと思った」と言う。(笑い)さすがわが孫娘。反対側に座っていて、私の娘が私の顔色を少しずつ変わっていくのが見えるわけです。「そろそろママが限界だな」と分かっているわけ。もうその時は私は立ち上がって注意したのですけれども、自分の娘はそれを見てどう思ったか。私の孫娘2人が「そろそろ、ボスがやるだろうと思った」と。自分たちもやはりあの光景は良くないということはちゃんと分かっているんです。
 私は新幹線でもしょっちゅうです。ゆっくり本を読みたいから、寝たい人もいるだろうし、休みたいからと、みんな高いお金を払ってグリーンに座っているわけ。そこで、じいさん、ばあさんと若い夫婦と男の子を連れてきて、ディズニーの帰りか何だか知らないけれども、ワーワーワーワー大きな声で騒いでいるわけ。もうちょっと小さい声に。立ち上がって言ったの。「僕、もうちょっと小さい声にしてくれない」。これも親が見て、かーっとにらみつけている。運の悪いことには、乗り換えたらまた同じ車両になってしまったんです。(笑い)でも、私は一駅で降りたからいいんですけれども。
 でも、そういう状態が、今、日本に満ち満ちているわけです。親がまず自分の子供をしつけられない。注意もできない。周りの大人もできない。祖父母も何にも言えない。こういう世の中で、こういう子供を学校に送り出していって、小学校で20人なり30人なり40人なりのクラスで、教師がまともに教育できるわけがない。当然、教室じゅう崩壊します。
 ですから、第一義的には親がしっかりルールを守る子供を育てて、学校に送り込んで、初めて学校での教育というのは成り立つわけです。つまり基本的なルールを守るということ、更に、親に対して、教師に対して、基本的な敬意を表するということなのです。今の親が一番悪いのは、親としての自分の役割というか、自分の尊厳というか、自分の誇りというものを、自信というものを持っていないということです。
 おのずから子供というのは大人をなめることになる。親もなめているのだから、教師も当たり前ですよ、そんな。「先公が何だよ」ということになるわけです。もちろん昔と違って、今の親は親だからといって威張っていいわけではないし、先生だからといって威張っていいわけではない。社長だからといってそんなに威張っているわけではない。
 私は校長を12年やりました。校長をやっていたからといって、子供たちに無条件で・・・。校長といっても日本語学校で、小さな小さな学校ですから。うちの娘がまた言うんです。「ママ、組織のことというのは、何も知らないでしょう」「何を言っているのよ。あんた、私は日本語学校では校長よ、校長」と言ったら、「何よ、いきなり校長じゃない」とまた馬鹿にされるんです。
 だからといって威張っているのではないんです。どれだけ自分の集めた教員たちがしっかり仕事をするか。率先垂範です。今の世の中、相手がこちらに敬意を持っていなければ、言うことなんか聞いてくれるわけないでしょう。親子関係も同じ。教師と学生も同じ。会社も同じ。昔は良かったんです。親は威張っていたし、教師としては無条件で威張れたけれども、今は違うんです。今はしっかりまず自分が勉強し、常に前向きに生きていく姿を子供たちに見せていないことには、子供は納得しません。
 私は自分の日本語学校の教員にまず言うのが、「教師というのは、教壇に立ったら全存在を問われるんだよ」。全存在を問われるのです。国語の教師だからって国語だけが分かったらいいというものではない。算数の教師だから算数さえ分かったらいいというものではないのです。第1日目、入っていって教壇に立った瞬間、そこにいる学生がみんな、「この先生というのはどういう先生か」という第一印象。その第一印象である意味では勝負が半分決まってしまう。それだけ教師というのは大変な商売です。全存在が問われるのです。


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