4. 基調講演
「鬼かあちゃんの教育論」講演録 講師:金 美麗
皆さん、こんにちは。これはちょっと不思議な会合ですね。(笑い)普通、時間というのは大体押すんです。1時半から始まるといったら、大体、早くても1時35分、遅ければ40分となるのに、前の総会が何だか1時20分にはみんな終わってしまったのですね。木村さん、ちょっと手抜きしたのではないですか。もう少しちゃんとしゃべってくださいよ。
大体、普通は押すんです。なのに、こんなに早く終わってしまったというのは、九州の人というのはひょっとしたらせっかちですか。(笑い)私は大体せっかちなんですけれども。きっとせっかちなのでしょうね。1分でも早く私の話が聞きたいとか。(拍手)ありがとうございます。
1934年生まれと生年月日がばれてしまいましたから(笑い)。実は皆さんもご覧になっているかもしれないけれども、よみうりテレビの「たかじんのここまで言って委員会」と言う番組で、辛坊さんが「あえて年は言いませんけれども、実は1934年生まれで」と、こういう言い方をしてみんな大笑いをしました。
あえて年は言いませんけれども、生まれた年が1934年。実は私は自慢なんです。今年71歳になったということがとても自慢なんです。一つは、私の両親は早死にしているんです。かつて、医療もこんなに進歩していなくて、いろいろあったのでしょうけれども、母親は病気の問屋みたいな人で、若い時に肺結核をやりまして、それにだんだん高血圧になりまして、最期には心臓がいかれましてというような、そんな状態の中で、「私は60まで生きていれば、そんなに文句はないかな」と思ったのです。
ところが60を過ぎて、「70まで生きれば満足かな」と60の時に思ったのです。でも、しばらくすると、「何、あと数年?じゃ、70で満足と言ってはいけないね」ということで言い方を変えまして、「70までいったら、文句はないわ」というふうに言って、去年、めでたく、晴れて70なのです。今、目標を75にしております。もう71になりましたけれども、目標を75にして、あまり欲張るとちょっといけませんので、一応、75まで元気でいれば幸せかなと。
ある日、ローターリークラブの集まりに講演を頼まれて行ったのです。私は常にまじめな話をするのですけれども、そのあとで口直しに面白おかしくだれか出てこないと、どうも私の話は、時にはまじめすぎたり、時にはよく言われる「辛口の何だし・・・」というので。それで、手相を見る人が面白おかしく漫談みたいのをやったのです。
終わったあとで私の所に来て、「見せてください」と言うんです。それで見せてあげて、「いやあ、悪いけど、あなたは死ぬまで現役だね」と、こうなのです。「死ぬまで働くね」と、こう言われたのです。「いやあ、悪くはないですよ。全然、悪くない。私は死ぬまで現役というのが希望なんだ」と言ったのです。ちゃんと手相に表れているそうです。ですから、私としても実はとても自分の年が自慢なのです。ですから、生年月日を言われようが、いくつであると言われようが。
普通は「だって、女性の年は・・・」なんて言いますけれども、私は全然違う。私は去年、晴れて70歳。1年1年重ねていく。きっちり生きて、きっちり仕事をして、できれば自分がハッピーで、できれば周りの人もハッピーにして、周りの人がハッピーならば私もハッピーであるという人生を最期まで送りたいと実は思っています。
もし、世の中の人が、私のようなものの考え方、ある意味では、非常によく言えば前向きであると。実は私は自分で言うと、「能天気だ」と言っているんです。本当に能天気な人間なんです。これは南の生まれだということがあると思います。私は台湾の出身ですので、皆さんよりもっとずっと南の生まれです。南の生まれというのは、どちらかというと能天気なんです。日本で言うと一番近いのは九州の方だと思うのですけれども、違いますか。(笑い)そうですよね。いろいろありますけれども、どちらかというとそうですよね。日本というのは何しろ細長い国ですから、南から北まで、実はいろいろな気質があるんです。どちらかというと九州の方は近いなと私は思っています。
先程、お昼を食べながら申し上げたのだけれども、不思議なことに北海道の人も似ているんです。とても不思議だったの。日本の南の人と一番北の人とが何で気質が似ているのかなと思って、北海道の人に「おかしいね、こうして私はいろいろな所に行って、いろいろなことを感じることがあるんですけれども、なぜか九州と北海道は似ているのよね」と言ったら北海道の方が、「実は北海道の開拓に行った人の中に、九州出身がたくさんいるんだ」と。なるほど、納得したんです。
こういう、前向きのといいますか、明るいといいますか、楽天的というのは、とてもいい気質です。でも、もう一つ、悪いところはないかというと、これはけっこうあるんですよね。やはり細かくないといいますか。台湾の人間というのはいいかげんなところが実にあるんです。九州はどうか分かりません。ここで言うと「帰れ」と言われるかもしれませんから言いませんけれども。
沖縄に行った時には言いました。沖縄も随分何か緻密ではないというか。(笑い)私の妹が怒り狂ったんです。普段アメリカに住んでいる人間なんですけれども、沖縄へ観光に行って、それで「時間もめちゃくちゃ。決められたことが全然、その時になるとくるくる変わる」と言って。あの人は私のことを「ねやん」と言うんです。「お姉さん」から「ねやん」になって。「ねやん、沖縄だけには行くなよ。怒り狂うから」と言ったんです。
でも、私が最初に行った時にはJCの集まりで行きまして、JCの方々は非常にちゃんとしてくださいましたので、何にも問題がなくて、それ以来、私は沖縄が大好きなんです。何かそういう南の人の楽天的な、それで一面、何となくいいかげんなといいましょうか、そういうところがあるというのが台湾の人ももろに特徴なんです。
でも、いいんですよ、楽天的だということが、前向きだということが。とてもいい気質なんです。その裏にあるいいかげんさだとか、約束をちょっと大切にしないとか、緻密ではないとかいうところを自らわきまえてそこは気を付けましょうと。
私は日本へやってきていろいろなことを学びました。つまり、台湾の人間が持っている元来のメンタリティー、明るい、楽天的、そういうのと、日本において日本の社会で、緻密な仕事をやるとか、約束をきちっと守るとか、時間をきちっと守るとか、電車に乗るときはちゃんと並んで乗るとか、そういう細かいいろいろなところを私は学びました。ですから私は自分で、日本と台湾のいいところを学んだ人間だと思っております。
これも白髪になって71歳になったからこんなことを言えるんです。若くてこんなことを言ったら、「生意気だ」と言って、一遍に引きずり下ろされてバッシングを受けているところです。年を取った利点というのは、つまり、少々生意気なことを言っても、自信を持って断言をしても、皆さんが許してくれるということなのです。
実は、私はかつてテレビ朝日でレギュラーでコメンテーターをやっていました。巡り巡って人生相談みたいなものもやっていたんです。その時にどこかの地方の助教授が、何か突拍子もない「思い残し症候群」という言葉を引っ提げてメディアに登場しようとしたんです。メディアというのは軽薄浮薄です。特にテレビの世界人というのは軽薄浮薄ですから、その思い残し症候群という言葉が面白い。それでその人をゲストに呼んで、何人かの人で討論会みたいなことをやった。
みんなは思い残し症候群と言われても何を言っていいか分からないから、程々に新しいゲストに花を持たせようとしたりなんかする。または、言っても言わなくてもいいようなこと、無難に、「結局、あなたは何を言いたいの」と言いたくなるようなコメントをするコメンテーターはいっぱいいますから。
ところが、私は違うんです。私は徹底的に反論した。なぜならば、ただでさえ子育てに自信を失っている親に、思い残し症候群という言葉は、植え付けられたらこれは大変なことだと思った。つまり、思い残し症候群というのはどういう意味かというと、「子供が幼児のときに、つまり3歳ぐらいまでのときに、思いっきりやりたい放題にさせろ」ということなのです。「そうではなかったら、思い残し症候群が生じて、行く行く問題行動に出る」というのが彼の主張です。つまり、「子供には何にも思い残しがないように好き放題させろ。子供のやりたいことは全部させる。これが本当にいい教育方法だ。そうでないと、子供は思い残しをすると、行く行く問題行動に出る」と。
私はこれはいけないと思ったのです。日本の社会ぐらい、日本の親ぐらい子供を甘やかしている親は世界じゅうにいないんです。世界で最も過保護なのが日本の親です。これ以上、子供がやりたい放題にするべきだという主張をして、もしこの言葉がはやって、ファッションになって、流行になって、あっちでもこっちでも採り上げてごらんなさい。親御さんは全員が子供に思い残しさせてはいけないからといって、やりたい放題をさせるようなことになる。よくあるじゃないですか。PTSDであるとか、やれ何とかと。いろいろな言葉が一時期わーっとはやって、「私も、私も」とみんな出てくるわけでしょう。「おまえ、あほうか」と私は言うんです。
その時に、あの人も運が悪かったのよね、私みたいな人に出会って。(笑い)私はこの言葉をはやらせてはいけないという使命のもとに、「子供は思い残しがあるからこそ、それを達成するために努力をするのではないですか」と。細かいことは覚えていませんけれども、ともかく反対意見を述べたんです。この言葉をはやらせてはいけないという思いで、あの日、私は発言した。
そうしたら、生放送ですから、時々、コマーシャルが入るわけです。コマーシャルに入っている時間、つまりオフの時間に、その助教授は、せっかく自分が面白い言葉を引っ提げて、テレビも呼んでくれて、ひょっとしたらこれから自分はあちこち引っ張りだこになるかもしれないのに、何でこんな意地悪ばあさんに出会ってしまったんだと。それで私に向かって言うんです、「随分、自信がおありですね」と。(笑い)「私が学説・・・」。学説よ、学説。「私が思い残し症候群という学説を引っ提げて現れたのに、あなたはどこのおばさんか知らないけれども、何で私と反対論をぶつのですか」と、精いっぱいの皮肉を込めて。
大体、日本人は遠慮深いですから、要するに正面切って私を批判できなくて、「随分、自信がおありですね」と。こういうふうに言われたら、皆さん、何と答えますか。私は「ええ」。普通はそんなこと言わないよね。(笑い)普通、言わないですよね。「随分、自信がおありですね」と言われて、「ええ」なんて言う人は恐らく日本人でめったにいないと思う。石原慎太郎なら言うかもしれないけれども。(笑い)それで私は、「ええ。随分、長く生きておりますから」と言ったんです。皆さん、白髪の功徳です。私が自分の年齢を誇りにする意味はそこにあるんです。皆さん、納得せざるを得ない。何を言われても仕方がないと思ってしまうわけ。
発想の転換ということを、皆さん、やらなくてはいけない。今の日本でがんじがらめにされているいろいろなこと、マイナスだと、これをしてはいけない、あれをしてはいけないこと、タブーだったり何だったりいっぱいありますよね。「平和」と言わなければ、ひたすら「平和」と言わなくてはいけないとか。これも読売新聞ですけれども、徴兵制なんか「傭兵制、雇う兵隊」とか。私はあえて「徴兵」と言う。いろいろなところに挑戦しています。いろいろなタブーに挑戦して、なおかつ生き延びることができるのは、ひとえにこの白髪のおかげです。
それともう一つあります。「あの人は外国人だから」と言って、「まあ、仕方がないかな」と思われるときと、「あの人は外国人だから何も分かっていない」と思われるときと、「外国人のくせに出しゃばるな」と思われることと、いろいろあります。いろいろありますけれども、先程申し上げましたように私は能天気な人間ですから、「言いたければ言ったらいいわよ」と。世の中には全員を満足させることなんてできやしない。これだけ価値観が豊かになったといいましょうか、てんでんばらばらになったといいましょうか、千差万別といいましょうか、こんな世の中で全員を満足させるようなことなんてありはしないです。
ですから、私は「どうぞ」と。「反対の人はどうぞ反対してください」と言う。だけど、私は、反対する人もいれば、つまり敵もいれば大変な身方もいるんだと。それでなおかつ私は、今、この真ん中にいる敵でも身方でもない人々、そういう方々に向かって、少しでもものごとを考えるように、少しでも私が信じていることを聞いていただけるようにするというのが私の役割だと思っています。
民主主義の世の中です。最終的には頭数が問題です。どうしょうもない敵は、あれは馬鹿だから放っておけばいい。ああいうのを一生懸命構うなんていうのは時間の無駄、エネルギーの無駄。何を言ったって思い込んだら命懸けの人たちがいっぱいいますから、そういう人に向かって何か説こうなんて思ったらこれは無駄です。放っておきましょう。志を同じくする方々、これは大切にしなければいけません。お互いに、時々エールの交換をやって、お互いに元気になりましょう。
だけど、最も大切なことは、その真ん中にあるいまだ触発されていない人たち、啓蒙されていない人たち、まだ自分でどう生きていいか分からない、迷っている人たち、そういう人たちに私たちがどうアプローチするかということなのです。 つまり、私たちのやるべきことというのは何なのか。志を同じくしている人と一致団結して、そして真ん中にいて、言うなら無党派と言っている方々、そういう方々に何が良くて、何が悪くて、どうすれば幸せになれるのか。人間だれだって幸せになりたいのです。どうすれば幸せになり、どうすれば自分の人生を自分で決めて生きていって、どうすればハッピーになれるのか。私は人生の先輩としてそういうことを説いて歩くという、それが私の仕事だと思っております。
ですから、今日のこの演題も何かちょっとおっかない「鬼かあちゃんの教育論」なんてありますけれども、実はこの「鬼かあちゃん」という言葉は、「鬼かあちゃんだから、鬼かあちゃんだから」と、私のことを息子が付けた言葉です。つまり、息子や娘は何を言っても最終的に私にはかなわない。だから、彼は自分が下りるはしごを必要とした。だから、「母親が『鬼かあちゃん』なんだから、かなわなくてもしょうがないんだ」というのが、彼の「鬼かあちゃん」という言葉に凝結されている。
日本の今までの親たちの子供に対する態度は、家庭によってもちろん違いますけれども、一般的に言うと、つまり日本の社会の流れで言うと、戦後この方、甘やかし、過保護、放任が主流でした。私はそれを良しとしません。子供を絶対に過保護にしないというのが、私と連れ合いの約束事です。もちろんこれは私が言い出したことです。彼はとても優しい人です。放っておけば本当に優しい、ある意味では子供を甘やかしてしまうかもしれない父親になるような素質を持った人です。
ですから、子供が生まれる前に、私は彼とはっきり約束を交わしました。子供を過保護にしたらろくなことはない。甘やかしたらろくなことはない。だから、わが家では、子供が行く行く自分の足で歩いて世の中に出ていけるように、行く行く自分の翼で世界に飛び立っていけるように、そういう子供にしなくてはいけない。
一つには、私たちは外国人でした。それも滞在の、非常に不安定な外国人でした。これを言うと講演の時間があと30分余計にかかりますから、ここはカットしますけれども、私は当時、台湾にある蒋介石政権に反対制をやっていまして、パスポートが無効になり、つまりパスポートなしで外国人として日本に滞在するという非常に不安定な状態にいたのです。自分の面倒は自分で見なくてはいけない。私は日本人ではないから、国も見てくれない。台湾は一党独裁の蒋介石政権に乗っ取られているから、私は蒋介石政権から政治犯として見なされている。住んでいる日本の保護も受けられない。母国の台湾からもむしろ政治犯として見なされている。
こういう状態の中で人間はどうやって生きていくのか。100パーセント自分の責任です。助けを求める相手はどこにもいない。この中で自分が子供を育てる時に、子供も行く行くは日本の社会で外国人としてちゃんと生きていけなくてはいけない、生存しなくてはいけないという、この厳しい条件の中でこの子たちが生きていくにはどうすればいいかというのが親として最大の関心事だった。
ところが、世の中の流れが過保護です。世の中の流れはどんどん子供を甘やかしている。その中で、私は連れ合いと統一戦線を組んで社会と綱引きをしたわけです。統一戦線を組まなければ、とてもじゃないけれども綱引きはできない。統一戦線を組んでも、綱引きは強大な社会の力に勝てるわけが実はないのです。
でも、引きずられるままにするかというのはできない。精いっぱい踏みこたえるという努力をしました。その結果が「鬼かあちゃん」です。でも、その基本としては、子供に対するあふれんばかりの愛情です。自分の子供が行く行くどうやったら真っ当な人間として日本という社会で真っ当に生きていけるか。これなのです。しかも、できたら幸せに生きてほしい。これが基本。
では、そういうことができるような子供に育てるために、われわれはどうするべきか。詳細はあそこで売っている文庫本に書いてあります。(笑い)その話をすると長くなりますから、安い文庫本ですからどうぞお読みください。これなのです。親として子供に幸せになってほしい。どの親も同じように考えることだと思います。
でも、今の世の中、実際に子供たちがみんな幸せになっているかといったら、そうではない。私は子供が生まれるたびに、例えば自分の孫が生まれるたびに、産院に出掛けていって、子供の両親、つまり私の娘夫婦だったり息子夫婦だったりするわけですけれども、それにプラス両方のじいさん・ばあさん、みんながうれしそうな顔をして、「かわいいね。おめでとう」と、あふれんばかりの愛情でその新しい生命の誕生を喜んでいるわけです。多分99パーセントの、または95パーセントの家庭というのはそうだと思います。本当にどれだけの喜びと、どれだけの愛情をもって新しい生命の誕生を迎えているか。
それなのに、どうして日本のような豊かな安定した平和の社会の中で、子供たちが幸せになれないのか。親の虐待は論外です。例外中の例外だし、本当に論外。でも、普通の家庭の子供たちが、なぜ異常行動に走ったり、罪を犯したり、自分の人生をめちゃくちゃにしたり、他人の人生をめちゃくちゃにしたりという現象がどうして起こるのか。多分、親である方々も教師である方々も、今、一番頭を悩ませているのはその問題だと思うのです。
私は、自分の子供たち、孫たちを被害者にしないように、みんな恐らく気を配って注意しているだろうと思う。でも、それでも被害者にならないという保証はどこにもない。そして、今やもっと恐ろしいのは、ひょっとしたら自分の子供や孫が加害者になるかもしれないという、この現実です。
自分の子供だけは別だなんて思ったら大間違いです。世の中、他人に起こり得ることは常に自分にも起こり得る。これは鉄則です。自分のうちだけが例外だとか、わが家にはまさかそんなことはあり得ないとか、うちの子に限ってなんて思っている親がいたら、これは100パーセント間違いです。世の中で起こっていることは常にわが家でも起こり得る。わが身にも起こり得る。だからこそ常にきっちり危機管理というものをしなくてはいけない。
つまり、私が自分の子供が生まれる前に、ひょっとしたら甘甘の父親になるかもしれない連れ合いにきっちり約束させたというのは危機管理です。幸い、私の「鬼かあちゃん」ぶりがかなり功を奏しまして、娘と息子、年子ですけれども、今や所帯を持ってそれぞれが親になり、私はめでたく5人の孫のおばあちゃんになりました。
孫を迎えるにあたって、いきなりわが連れ合いは先手を打って、こう宣言しました。自分たちの子供を持つ時には私が先手を打ったわけ。過保護は許さない。甘やかしては駄目。向こうも理屈の分かる人間ですから、メンタリティーとは少し違うのですけれども、理屈は分かるから、要するに知識人として受け入れざるを得ないわけです。論理的に間違いがない。確かにその通りだと思ったら、本人も受け入れざるを得ない。
ところが、おじいちゃんになる。まだなってまもなく、いきなり先手を打って、「僕が厳しく子供たちをしつけたり育てたら、孫たちに恨まれる。孫たちが大きくなって、『ああ、あれは自分たちのためだったんだ』ということが分かるようになったときには、僕はもう死んでいる。だから、今現在、孫たちに嫌われたくない。だから、僕は孫たちに甘くする。厳しくしない」。もう議論の余地がないわけ。いきなりそう宣言されてしまったのです。「教育は親がすればいい。僕はもう厳しく言わない。孫たちが将来大きくなってから、『ああ、おじいちゃんがあんなことを言って厳しくしたのは、僕たちのためだったんだな』ということが分かる、そういう年齢になったら自分はもう死んでいる」というわけ。だから、自分は嫌われたくないから、孫たちにはひたすら甘いおじいちゃん。
それを聞いた時に、私としてはまた悪役を引き受けざるを得ないわけです。2人してめろめろのじいさん・ばあさんになったらどういうことになりますか。娘夫婦はただでさえ忙しくてほとんどうちにいないときているし、息子は忙しくて家にほとんどいないし、専業主婦の嫁さんは何しろ優しいお母さんに育てられて、とても伝統的な、日本的な家の中に育てられている人ですから、これまた私たちと価値観が違うかもしれないと思って、ここはひとつ覚悟を決めました。
この3世帯の中で私はボスだ。理屈抜きで怖い存在がなくてはいけない。ですから、私は理屈抜きで怖い存在、ボス。それで、孫たちに全員「ボス」と言わせているわけです。(笑い)ところが、皆さん、嫁さんはお行儀がいいんです。そういう伝統的な価値観で育っているから、子供たちがおばあちゃんのことを「ボス」と言うのにとても抵抗があるんです。
そこで、私は連れ合いと同一戦線に立って綱引きをするという話をしましたよね。ここで分かれてしまうと教育というのは成り立たない。だから、うちの息子の所に息子が3人いるのですが、ボスと言っていいのか、おばあちゃんと言っていいのか混乱しています。娘の所の2人は、娘がそういう通りに教えますから、私のことをボスと言うんです。保育園に行くと、「ボスって、おばあちゃんのことなんだよね」と、年齢が、分かるにつれてそういう認識をしていくわけです。ですから、相変わらず私は威張っております。わが家の独裁君主として君臨しております。
とにかく、この世の中には無条件で怖い人がいなくてはいけない。条件抜きなの。理屈がどうとかこうとか言っているうちに話がどこかへ行ってしまう。「駄目」と言ったら駄目なの。
娘の所に娘が2人、息子の所に息子が3人という組み合わせなのですけれども、この娘の所の2人の孫娘というのは面白いんです。ラップをやってくれるわけ。それで、自分の父親のことを、「お父さん、いつも忙しすぎる」。「お母さん、いつも明るすぎる」、私の娘ですから、明るいのです。孫娘の上の子、お姉ちゃん、「ハナちゃん、いつも忘れ物、多すぎる」。次の子、「ナッちゃん、うそ泣きうますぎる」。(笑い)それで、私のことを言う、「ボスが怒ったら怖すぎる」。つまり、要するにわが家の5人。おじいちゃんは出てこないわけ。(笑い)甘いばかりで存在感がないんですよ、皆さん。
父親はいつも忙しくていない。母親は明るいです。キャーキャーみんなを笑わせて、ある意味では非常にハッピーな雰囲気を醸し出す女の子です。女の子といっても今年40歳になりましたけれども。上の娘はいつも忘れ物をしているんです。下の女の子はしっかり者なんです。だれが作ったか分からないけれども、「うそ泣きうますぎる」。母親が感心していました。「この子は将来、食いっぱぐれないよ。しっかり者だよ」と言っています。それで、私の番になると、「ボスが怒れば怖すぎる」。
鶴の一声。私は、これは実は教育の要だと思っています。「どうして人を殺してはいけないの?」、「どうして盗んではいけないの?」「どうして人をいじめてはいけないの?」「何で勉強しなくてはいけないの?」、こういう質問が、今、世の中にあふれています。それにいちいちまじめに答えようとしています。それも必要でしょう。私もいざ聞かれればきちっと論理的に話はしますし、もちろんちゃんとした理屈も言えます。
でも、毎日の営みで「どうしてこんなことをしてはいけないの?」「どうしてこうなの?」「どうしてああなの?」「どうして父親の言うことを聞かなくてはいけないの?」「どうして母親の言うことを聞かなくてはならないの?」。もしいちいち子供がすべてのことに対して、そうやって質問を投げ掛けて、毎日毎日その解釈だけに終わっていたら、教育というのは成り立ちません。
そういうときも必要であろうけれども、しかし、いったんできあがったその秩序といいますか、ものごとの考え方といいますか、しきたりといいましょうか、わが家のルールといいましょうか、これをきちっと確立されて、それによってスムーズに運営されていかなくては、ほかに何かをするという時間は生まれない。
だから、私は一言で言います。例えば、一昨日、息子が私と一緒に車に乗っていて、下の子は連れてこないで、上の男の子2人だけ後ろに座っている。上の子がうるさいんです。うちの長男の長男。これがまた何だか知らないけれども、じっとしていられないんです。自動車に乗っているのに、「はさみ、ないか」とか「爪切り、ないの?」とか。爪が切りたいと言い始めた。父親が「そんなもの、ないよ」と、こう言うのですけれども、私が一言、「車の中で爪を切る馬鹿はいないよ」と。それでおしまい。「車ではそんなことをしないの」「はい」。一言。
うちの娘の2人の娘というのは、今、8歳になったのと、この20日に6歳になる2人目の2歳違いの女の子です。これがかなり幼い時からきっちりとマナーをわきまえるようになった。これは娘が言った言葉ですけれども、「3歳までにきっちりしつけができていれば、あとはほとんど心配ないんだ」と。
その3歳までにどういうしつけをしっかりするかということですけれども、私たちはよく外でご飯を食べます。時には子供を連れていってはいけないようなフランス料理屋だとか、そういう所にも行くことがあります。小さいときに、あまり聞き分けのないときというのは、そういう所は連れては行きません。
ある日、中華料理を食べに行ったら、当時まだ2歳にならない下の女の子がワーワー、何かかんかむずかったのです。その時も私が一言、「出ていきなさい」と言ったんです。「レストランではそんな子供の泣き声なんていうのは似合わない。出ていきなさい」。婿殿がだっこしていたんですけれども、すぐにぱっと立ち上がって、娘を連れて外に行きました。それで、しばらくして戻ってきて、「ごめんさない」と言わせて、それから静かに食事をしました。それ以来、あの2人はどこに行っても大人と同じようなマナーで・・・。
(A面終了)
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