日本財団 図書館


今井常夫氏ヒアリング
日時:2005.1.28 13:00〜15:00
場所:海洋船舶ビル10階
対象者:富津市教育委員会 今井 常夫 氏(元木更津市立金田小学校教諭)
ヒアリング実施者:菅家 英朗、酒井 英次、鈴木 覚、櫻井 一宏
 
 金田小学校の干潟における総合的な学習の事例について、お話を伺った。
■地区の現状について
 盤洲干潟は以後の金田地区は半農半漁の村から、海に関係する職業の人は減少し、近年ではサラリーマンになってきていることや、海は危険なところだと教えられて育ち、海辺の体験も少ない人が親になっており、海辺には関心のない世代が増えている。そういうなかで、利潤追求型の人もいれば、環境に関心をもち保全していこうという人もいる。また、周辺は整地され、宅地造成が計画されており、開発を前提に動いていてしまっている。なお、地域の状況はこんとんとしている。地域の人々は(自然環境というよりも)住環境のよさを求めざるを得ない。そういう中で、(自然の保護や)利用のルールがあればいいとは思う。
 
■干潟の学習のきっかけ
 総合的な学習の取り入れられた平成8年ころから始めた。それまでは知識を覚える学習が中心であったが、知識を用いて課題を解決することが重要視されてきた。そこで、強化だけではなく身近な素材を使って興味あることを調べてつくることをやりたいと考えていた。伝統文化とか自然とかを活かして何が出来るか、教職員で実践的な研究を行った。そこで、身近にあって金田しかないものは干潟だと認識できたので、これを使って干潟とか環境の重要性を学ばせていこうということになった。最初は干潟自然のなかで遊び、どんな生き物がそこにいるかしらべることとし、そのうち干潟の生き物とか鳥などに詳しくなってくるが、どうして干潟が重要かという課題につながらないことがわかった。そこで、もっと系統的に学んでいったらどうかということになった。すなわち、低学年は干潟で親しむ、中学年は干潟で調べる、高学年では干潟でわかったことを発信するということである。
 さらに系統性の部分のほかに、いろいろな視点から比較をしながら干潟を見ていくことも重要ではないかと気がついた。つまり、中学年は、干潟を学ぶという点を線につなげていくことで、小櫃川の上流に行ってみる。すると、森があって暗い(干潟は開けていて明るいイメージ)とか、臭いが違う、水が冷たいといった海とは異なる(2年生で干潟で活動しているので、そこと比較して)自然を実感している。鳥とかカニとかは自分の環境に合ったところに住み分けていることに気付く。ヤマセミは岩魚とかがいないと生きられないということを詳しい人に教えてもらう。すると干潟はどうだろうかと考える。高学年になると、では他の干潟はどうだろうかということで、谷津干潟にもいった。谷津干潟は同じ干潟でもこんなに違うということを実感する。なんで、この干潟がラムサールで、ぼくたちの干潟は何もないのだろうと疑問を持つ。施設や展示も立派ですごいけれど、遠くで見ているだけの干潟よりも、自分たちの干潟の方が良いという。そこで、自分たちの調べたことをインターネットで公開したり、新聞に投書したりして発信した。
 釧路湿原で活動している子どもとの交流(NHKの番組を通じて連携した)や沖縄との交流など自分たちの地域だけなくほかのところも学びながら、他のところでも環境について考えている仲間がいるという共感的な理解を深めていった。
 一方、地域では与平衛(民宿)さんが、アクセスの悪い干潟までの往復(学校から干潟まで約4kmある)を送迎してくれたり、地域で環境保全の活動をしている人々には、資料の提供や現地を案内してもらったり、地域の中でいろいろな人が先生になってくれている。県の中央博物館の研究員のカニを研究している方からも指導を受けるなど、いろいろな協力をしてもらっている。
 干潟は広い視野で学ぶことのできる素材である。学習は小学校から中学校までやっていると聞いているが、中学校では受験もあるため金田小のようにはいかない。
 ガイドブック的な資料については、教育委員会では山里と干潟は教育にとっても貴重であることの位置づけはおこなっているが、それに対して予算措置ができるような台所状態ではないという問題もある。企業等の中には、「こんな環境学習のプログラムをつくったので使ってくれ」と来るところもある。
 保護者に、総合的な学習の賛否を聞いたところ98%は賛成してくれた。一方、2%は英語とか他の教科もやってくれと言っている。研究会を開くときもすべてオープンにしていたので、ほとんどの人が来てくれて内容については理解してくれた。子供たちの干潟の見方について、驚いていた。また、自分たちのまわりにこういうものがあるんだという再認識が生まれた。干潟は金田の中心からは離れていたし、不審者もいるかもしれないということで、昔から子供同士では行ってはいけない場所だった。
 この学習では、開発か自然かというような政治的な部分についてはとくに触れてはいない。肯定も否定もしない。
 この取り組みを通じて、子どもたちは環境に対する意識は高まってきている。また、1、2年生で干潟をやっている子が、4、5年時に千葉テレビがきてインタビューされると、とうとうと説明ができる。何を言うべきかを理解し、自然に説明できるようになっていた。コミュニケーション力が子どもはないといわれているが、調べよう、伝えようと思ったときは自分で行動し、自分で考える。実際に行動する。干潟の大切さを知らせたいと思ったある子は、新聞チラシが良いと考え、自分で新聞販売店に行って交渉してきた。新聞店の人は5000枚のチラシを無料でやってくれた。木更津駅でチラシを配ったこともあった。積極的にやっていた。また、がんばっているねと手紙をもらったときは大変喜んでいた。
 
総合学習についての地域・保護者の理解
 学校としては、子どもはどのようなことを学んでいるのかを発信するのがよい。また、地域の中で学んでいるのが学校のPRにもなるし、よいことだ。地域を学ぶということは子どもを地域にだすことでもある。そうすれば地域の理解も得られる。そうすると、地域やあちこちから、発表してくれという声がかかってくる。地域の区長会で、子どもが発表すると非常に感心してくれた。また、海ボタルや商店街などで展示や発表もやっている。
 また、学力としては理科、社会の学力は確実に上がっている。こうした学習で力を発揮する子は国語がたいていは出来る子である。
 
干潟への要望
 トイレがやはり問題になる。あと昔は緊急の連絡も携帯の電波が届かず心配だった。
 
学習支援のあり方
 子どもの興味は多様であり、それに対応した準備は必要であるが、それを与えてはいけない。メニューを見て子どもが選択すべきである。このような学習は、先生の熱心さなどにもよる場合もあるが、学校として継続できるように年間指導計画をつくっておくことが望ましい。海の教育は、他の学校でも様々な形で行われている。
 
以上
 
桐谷新三氏 ヒアリング
日時:2005.2.3 10:00〜12:00
場所:桐谷氏自宅
対象者:桐谷 新三
ヒアリング実施者:鈴木 覚、櫻井 一宏
 
 昭和40年代の水銀公害反対運動が活動の原点である。ここでも魚が変形してしまった。父親が網元で漁師を抱えていた。それで漁師のことを良く知っている。漁師は口下手で、研究とかも忙しくて出来ない(これは、公害などの反対にうまく対応できないという意味)。水俣には関心があり、その後四日市の問題が起きた。また、東京湾も水銀とかPCB汚染で魚の変気や野鳥も死んでいった。そういうときに、漁師は普段は威勢がいいが、県庁とかにいくときになるとしり込みしてしまう。対外的なことができない。そのころ、大浜さんが河口に来て知り合った。また風呂田先生も来ていた。店に靴を買いに来ていたが、鉄砲を撃ちに来たと思い、先生とは知らなかった。それで、この人たちと一緒に東京湾を守る会を結成した。といっても、名前がでることに抵抗がある人が多いので、からかさ連判状(丸くなるようにそれぞれ名前を書くと、責任者が分からない)のようなものでいった。そのころ東京都でフェニックスが明るみになった。それを自然保護団体が反対運動した。それで、地元だけなく東京湾全体をみるようになった。そのあと三番瀬をやった。大野さんが中心だった。三番瀬の間に東京湾横断道路がはじまった。東工大花山先生を代表にして、弁護士も入り、活動した。花山先生は、その後運動のプレッシャーで自殺してしまった。こうした過程で盤津干潟の保全が具体的になった。花山先生の「盤津干潟は自然の宝庫で守らなくてはならない」ということが今でも耳にのっこっている。
 金田の300年続く梵天立てを保存したいと思った。これを運動して、文化財に指定される。その前段階で、選択書をもらった。この風俗の映画2本と報告書(古老へのヒアリングや梵天のやり方などを記載したレポート)は補助を得て(900万円)、作成することができた。
 
 畔戸(久津間の人が開拓したので久津間新田といった。享保時代に大洪水があって、河川がかわり、分断された。ひとびとは船で川を渡った。)というのは、オトタチバナ姫のみくろ(人の死骸)が流れ着くところだったのでみくろの浦とよばれ、それがもとで名前になった。万葉集にも畔戸のうらと読まれている。
 金田の瓜倉(中島の人が開拓したので昔は中島新田といった)は、野菜が取れるところでその名前がついた。たまねぎは日本一だった。またソラマメも多く取れ、ベカブネに水をいれそこにつけておいた。そうすると重さが保存される。
 
 干潟では、金田は魚が専門、いわしが多く取れた。すだて漁がさかんであった。すだては1日2回揚げた(干潮の時)、のりが終わるとすだて、4月はボラのちいさい魚であるいな、そしてこのしろ、5月はカレイ、回遊魚を中心にとる。6月はふぐ、7月はすずき、8月はアジがとれ、アジが取れると漁は終わりであった(9月からノリ養殖が始まる)。カレイが何千匹も入ったこともあった。
 (すだての様子を図示)京葉工業地帯が出来る前は、いわしで海が真っ赤になった。きさご、いわしは肥料に使った。
 アクアラインで潮流が変化し、地形が変わってしまった。小櫃川の河口の砂州が広がっている。“うみほたる”の北側は無酸素水が湧昇して生き物が住んでいない。南側では魚は取れる。流れは北半分では時計回りの還流がある。死んだ人が流れ着く場所も決まっているように、一定の潮流があり、それは地形のせいだ。海にいって、ノリ網についた邪魔者を投げてもしばらくすると、また同じところについている(風がないとき)、このように流れは決まっていたが、うみほたるで変わっている。また干潟にクリークができ危険になった。
 干潟をどうするか?はこれからも漁ができる干潟を再生したい。
 もっとも地形は以前も動いている。瀬の間にすだてのスタップをたてていたが翌年はスタップの場所を変えなくてはならない。これで、海は動いているなと実感できる。こうした瀬は高さがないので貧酸素が上がることはない。干潟をどうするかいうと、自然ではだめになっていったから、養殖しかない。このままでは金田がだめになってしまう。新しいものを入れたいと考えている。
 夜の9時半にいって朝あがってくる(アサリとり)でも2千円になる。これで、朝風呂に入ったりすると赤字になる。乱獲も問題である。小さいのも取ってしまっている。
 干潟でバカガイが発生している、昔はバカガイは干潟の棚の部分(沖)で、わいて、バカジといった。今はここには発生しない。いままでこんなことはなかった。カシパンというセブタジというのがある。これは低酸素水のためにみんな死んでしまった。いまは全然居ない。その原因はわからない。その環境変化は調べなくてはならない。地形が変わったかどうかは分からない。
 干潟といっても全部が同じ干潟ではない。地形や潮流の関係で、人が流れ着くところは同じで中島の虚空蔵というところに流れる。昔は漁師が死体を埋めたりした。虚空蔵のところに石があって、それを取り除いたら大きな石柱だった。横断道路の陸上部のところにもそういうことがあった(遺骨が出た)。
 金田は畑が多く野菜がよく取れた。たまねぎは日本一で、昔はソラマメも特産だった。干潟では、ノリが終わると魚をすだて漁で取った。
3〜4月はこのしろ(ボラの稚魚で回遊魚)
5月  はカレイ
6月  はふぐ
7月  はスズキ、その稚魚のセイゴ
8月  になるとアジである。9月からはまたノリが始まる。
 キサゴやイワシは畑の肥料として用いた。しかし、京葉工業地帯が出来てから、漁業は取れなくなってしまった。また、アクアラインが出来てから潮流が変わってしまい、小櫃川河口の砂州がひろがって来た。人工島の北側は青潮が湧昇するので魚がほとんどいない。南側には魚もいるが。もっとも、すだてのスタップを立てるところは、沖の瀬と瀬の間に立てていたが、この位置は年によって変わることがあり、自然でも変化していることはわかっていた。
 夜アサリを取りに行くが、一晩中やっても一日2,000円くらいにしかならない。取れなくなったのは乱獲の問題もある。また、昔は干潟にいなかったバカガイが取れるようになった。以前は、干潟から浅場に落ちる棚(バカ地といった)のところで取れていたが、いまはいない。また、セブタ(不明)地があったが、それも貧酸素の影響でなくなってしまった。
 こうした環境の変化を調べて欲しい。
 
 
 (その他、資料(明治時代の漁場図)などを持ち出して虚空蔵という場所での石柱のしたの人骨の話やその周辺では昔塩田であり、戦国時代ころは里見家の領地で、船倉といって、水軍の船を置いた場所や、塩2000俵で納税した等の古事について語る)
 
 干潟のあり方としては、地元が生きていくために漁業振興がメインである。環境も変わっている。例えば、アサリ漁場はいま掘り起こして採るためにアマモ場がなくなってしまった。こうしたアマモ場の復元も課題である。
 
 私は昭和二年、金田の網元の家に生まれました。漁師を公害から守る運動を始めて四十年になります。今日はスライドを五十枚ばかり用意してあります。その前に、金田ついて紹介しておきたいと思います。中島村、瓜倉村、畔戸村、久津間村4村がまとまって盤洲と言いました。盤洲干潟の名称は4村の前面に位置するためです。金田は里見藩の領地であった。だから塩を生産して納めていた。
 
金田の漁業について
 文化13年(1816)6月、武蔵・相模・上総の3国44浦の名主、漁業総代が神奈川浦に集合して、「内湾漁業組合議定書一札の事」と言う契約をして調印した。金田漁業には手操網(うたせ網)・貝類巻・貝藻採・釣舟・のぞき漁など36種類が許可されたが現在は熊手漁・三枚網漁・餌虫漁・すだて漁の4種類になっている。海苔養殖は江戸・四ッ谷の海苔小売商の近江屋甚兵衛は、文政5年(1822)に上総小糸川尻の人見村で、海苔養殖に成功した。その前に金田に来たが、魚漁が主体であるために反対された。小櫃川河口川尻での海苔養殖試作は、明治31年に中島村・畔戸村・瓜倉村・久津間村の4村の自作農家の有志によって開始された。小作農家は許可にならなかった。
 
京葉工業地帯の造成と公害
 漁業権放棄は、昭和29年(1954)蘇我漁業組合、昭和33年(1958)五井漁業組合、昭和41年(1966)久保田漁業組合、昭和47年(1972)奈良輪漁業組合と進んだ。その結果大気汚染や温排水、水銀汚染による漁業への影響が発生した。
 牛込海岸の樹齢数百年の黒松並木が、大気汚染によって絶滅し、小櫃川河口の這松地区の黒松の巨木も全滅した。大気汚染は海苔養殖にも被害を発生させ、干潮と無風状態が重なると、海苔は急激に変色し、絶滅する経験をした事がある。
 昭和48年 水銀汚染は袖ヶ浦の周辺海域でも、最高23.7ppmと、県の基準の2倍以上の高濃度の水銀ヘドロが検出された。昭和49年温排水は冬季を除いて38度前後で排出され、夏季の最高には41度近くに達した。
 
以上


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