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森野 今の話の続きで言いますと、「活動」と「運動」というお話がまず、非常に示唆的で、社会的な取り組みをするということで、今まで私達がやっていたのは大体大きな計画を立てて、それを実行する団体があって、それに必要な予算もあって、そして、こういう風に動きなさい、こういう風に作りましょう、と言う風な取り組みでした。ところが、こういうのが、大体、大した成果を生まないというのは、皆、気がつきはじめました。つまり、「活動」ではなくて、日本では昔から言うように「動きがつく」と言います。「動き」は「つく」のであって、動かしたり、動かされたりするのではないですね。ある命令を受けて、「こうしなさい」といって人は動きます。動かされます。しかし、2度目から自分で動くようにはなりません。むしろ社会的取り組みというのは、動きがついて来ることこそ大事であって、人々がこれをやりたいな、と思い、そして、鯉江さんも言われましたが、私達は沢山のものを世の中から受けているわけです。それだけ、沢山のものを受けているわけだから、自分も何か自分の気持ちでこれをしたいな、という形で、自らの動きがつく、そういう動きが段々固まって行って、大きな動きになる・・・これは、誰もとどめることは出来ませんね。つまり、号令一家、何かが成されている、というのとは違うわけですね。環境チケットとかいうのも、実は環境に係わるところというのは、先程も言いましたが、ビジネスベースで考えたら、とても取り組めるような課題ではありません。「幾ら呉れたら、ゴミを片付ける?」というような話になったら、誰もしません。もっと違うことをやって、ゴミなんか出し放題で、お金儲けた方がいいです。ところが、世の中にはお金で評価できる、金銭評価で人の行動を評価するものと、それが出来ないものがあるわけです。今、「ゆい」の話がでましたが、わが国で、昔から「ゆい」や、地域によっては「手間がえ」とか労力を出してもらったら、今度は自分が労力を出せるときに返して行く。そういう風な仕組みが、お金での金銭的な評価を補っていたのですね。これが、車の両輪のように動いていたから、地域社会がうまく成り立っていた。ところが、経済成長一本槍で来ましたので、やはり、金銭的な数字で出てくる評価というものに皆驀進して行きました。そして、それは相変わらず、大切なことであるんです。しかし、それだけだと、自然も痛めば、社会も痛めば、人間自身も痛むのですね。かつて、高度成長の時代に、子供の寝顔しか見ないで、企業戦士で働いた世代と言うのがあります。私なんかもそういう世代ですけど、そういう世代は、たまに日曜日に家にいると、子供から、「叔父さん誰?」と言われたという、それだけ、ほとんど子供は寝ている顔しか見たことがない、というぐらい、働きつづけたというそういう世代もあります。それは、すべて、日本の社会を豊かにするということになってきたわけですが、同時に後回しにしてきたものがある。それが、環境問題であり、社会が今、非常に人間が壊れているとしか思えないような現象が多々ありますね。昔あったような、非金銭的に評価しあう、といったところが、なおざりにされてきたからだと思います。人間というのは、お金をくれるから動く、っていうこともありますが、ありがとう、と言われて自分がやったことを認めてもらって、また、もっと人に喜ばれることをしたいな、と言う気持ちも同時にあるのです。そうすると、それぞれにあったような仕組みみたいなものを作っていったらどうだろうか、と。そうすると、昔あった「ゆい」や「手間がえ」といったような、人々が協力し合ってコミュニティを作っていくような昔の日本人の言い方で言うと「習俗」、生活をするときの構えとか、習慣とかというものが、もう一度新しく作り直されていくのではないか。私達はそういうものを作り直して行くプロセスに入っているのではないか。だから、動きがつかないとこれは出来ていかないです。人に言われてすることでは、ないですね。ボランティアというのも、人に言われてすることでなく、自分の意思でするから、ボランティアだと思うのです。そういう動きの動機付けになっていくようなしくみ、というのが環境キップだったんじゃないか。こういうものが、自然に「止めなさい!」と言っても広がって行ってしまうようなことになると、一番ことが上手くいくのではないか、と思います。
 
大塚 確かになにかやっていただいて、ありがたい、と思ったときにお金で渡すのは失礼だから、こちらも何かして・・・と、代わりにまた楽しいひとときを提供する、というのはありますね。
 
森野 気持ちから何かしてくださった方に、ありがとう、と言って1000円渡したら、相手はむっとしますよね。そういう意味でしてあげたんではない。わかってもらいたい、自分の気持ちがあったはずなんです。それを理解してあげる感性が大事だし、それを表現する必要がある。だから、環境キップといって気仙沼でやっているのは、単にはんこを押してもらうだけです。それによって、人はやる気、動きがでます。速い話、ラジオ体操のカードですから・・・。ただ、誰でも子供のとき、ラジオ体操に行ったと思います。1日目ぐらいは、一生懸命早起きして、行くんですよね。それで、はんこを押してもらいます。2日目になると、なかなか起きられないけど、お母さんに「早く起きなさい」とか言われて行くわけです。そうするとはんこが2つになる。3日目になると、母親に叱られても、まだ布団の中にいたりします。それで、次の日に頑張って行ったりすると、友達に聞いたりするのですね。「お前、はんこいくつあるんだ」と。「俺は全部あるよ」と言われると「いやあ、昨日休んじゃって」とかっていうことですね。「それは、人が自分から動いて行くときのひとつの小さなちょっとした、道具立てですが、その道具立てが、新しい日本人の習俗を作って行く、環境キップはそういう取り組みではないか、と思います。
 あと、環境キップとか環境とか、先程自然の恵みということも言いましたし、環境ゴミ問題を解決する、そうすると、必ず、自然と言うものは護られるべきものとしてあるようなんですが、実はそうでもないんです。そういうことも、この環境キップを使ったイベントに子供たちが参加したり、大人達が参加したりして、気付いて行くのではないか、と。昨年などは台風が沢山きました。自然の報復が始まっていますね。つまり、報復にもまた、意識が向いて行かなければならない時代にもなってきています。早く気がつかないと、天の怒りが・・・。
 
大塚 そうですね。私達、もう随分気付きはじめているような気がします。今、ボランティアという言葉が出ましたが、ボランティアというのは、なかなかやっぱり、最初は一生懸命に始めても、何かいろいろ、家庭の事情とか、仕事が忙しくなってしまうと続かなくなるというのがありますよね。で、今みたいな環境キップとかがあって、また後で使える何かがあると思っていられる、というのは、時間が長く継続して感じられる道具にもなりますね。ボランティアが続いて行くために何かしかけとか、やっていらっしゃいますか?小山さんのところはいかがですか?
 
小山 しかけ、ありません。皆さんから「疲れた、疲れた」と言われているのが、今の現状です。ただ、われわれ仲間が15人いるのですが、15人で出来る仕事ではない。お手伝いしてくれる人を呼んでもらって一緒にやっている。それは、大変有りがたい、と思います。
 
大塚 結局、ボランティアって、一生懸命やる人が一番大変になっちゃうということがあるということがあるんですけれど、その辺は如何ですか?鯉江さんとか、大変と思いますが。
 
鯉江 海のそばで、暮らしていると、ボランティアとか、そういうものでなくて、ゴミが増えれば掃除でもしようか、というのが、あるじゃないですか。で、結構、人を集めようとすると、楽しいことをやるんですよね。結構僕なんか、すぐ、朝早く起きることによって、いいことが一杯あるんです。今の時期になると、風が吹いた翌朝はワカメが一杯、来るわけですよ。僕には大きな犬がいるので、犬と散歩していて、俺が長く海辺にいると、みんなが寄ってきて、「鯉江さん、何調べてるの?」とか「何かいいことあるの?」と聞かれて「ない、ない」と言っても、ワカメを手に持っていると、「あ、ワカメ。ワカメの美味しい食べ方ある?」とか、そうして、話が弾むわけですよ。「ワカメが何時来るの?」と言う話になると、「これは、冬型の気圧配置になって、北西の風が吹くと、掻き回されるから、流れてくるんだね。」というような話をすると、結構「おい、風が吹いた後はワカメが来るぜ」見たいな話になって、「だけどあんまり人に言うなよ。ここだけの話だよ」と言っておくと、しっかり広がるんですよね。だから、僕のやり方なのは、結構「内緒なんだよ」と言いながら、広げてしまうというところ、ありますね。「風吹くときの楽しみってあるよ」って。そう言っていると、どんどんどんとん、来るんですね。で、仮に流れていなくても、「時間があるから、ちょっと家に寄ってみるか」と、そこにワカメが干してあるわけです。それをとってきて、料理して食べる・・・それで、ひとつの海辺の豊かな暮らしになっちゃうわけですね。だから、楽しいことを自分がやる。
 
大塚 楽しいことをやれば、みんなが、「活動」でなく「運動」に参加する、という仕掛けですね。
 
鯉江 あとは、忙しい人がいるんで、食べ物でも「美味しく食べる秘訣ありますか」と言われると、海苔とかちょっと置いておくんですよ。犬に餌やって、「おあずけ」ってやるじゃないですか。「おあずけ」すると涎たらすでしょ。みんなもおあずけっていう感じで待っていると、ちょっと待ってから「食べるぞ」っていうと、美味しく思うわけですよ。この辺が僕のやり方かな、みたいな。そんな感じですよね。
 
小山 ボランティアって言われると、すごく辛い。で、私は実は山形が雪国で、今日もまた、雪が降っているんじゃないかなと、思うのですが、酒田市は除雪が下手で、狭い道路には来てくれないものですから、朝起きて雪だと「わー、降ってるー」と言って雪かきするわけですね。それは、まあ結局は「皆のために、自分の為に」ということで、皆が手分けして雪かきをするわけなんですが、その時に誰もボランティアとは思っていないですね。それを誰かが見ていて「いつも御苦労さんだなあ」と言われることで「チャラ」になってしまう。それが、ボランティアっていう言葉でなくて、生活の一部になってしまえば、もう楽ではないかなと思います。
 
大塚 ありがとうございました。
 
森野 ボランティアという言葉が、地方の助け合いの気風の残っているところに言って言えば言うほど、嫌われますね。なんか、ボランティアという訳のわからないことを言って、たいがい、そういうことを言う人は、「自分が教育があるという感じで鼻にかけているような、いやだね」というような受け取られかたです。つまり、ボランティアでなく、仕事なんですね。たとえば、福祉関係なんかでもそうですが、ボランティアと言って、頑張っている方がおられます。でも、地方でたいがい嫌われています。浮いていますね。それは、どういうことか、というと、地域に高齢者がいます。そうすると、最近は地方でも、独居老人が増えてきました。じゃあ、みんなでお弁当のサービスでもしますか、というと、地方では、各家庭の奥さんが出てきて、ごく普通に世話をするんです。そうして、「だって、それ当たり前じゃない。」って。ところが、都会に出ていて、教養もあるような人が田舎に帰ってくると、それは、「ボランティアをこのように組織して、このようにしなければいけないでしょ。」という話になる。それは、だいたい嫌われてくるんですね。
 
大塚 もともと日本のコミュニティの中に、地域の中にもう一度戻せばいいだけのことなんですね。
 
森野 そうなんです。先程、「ゆい」の話が出ましたが、宮古島でも、企業が協賛品を出す、或いは、みんなでやる仕事に事情があって、参加できない。「ゆい」の時もそうですね。都合があって、労力出せない。どこどこで、屋根の吹き替えがあって、自分の時も手助けしてもらったから、自分も行かなければいけない。しかし、行けないときにどうするか、というと、たいがいは酒の一升でも買ってこいよ、って奥さんが御主人に言うのですよ。それで、「お前持って行け、と。お前持って行って、謝ってこい。」とかね。「何で私がいつも謝るときだけ行かなければいけないの」とか言う話になるわけです。そういう家庭争議があったあとで2升届くわけです。それで、お互いの人間関係が上手く行っている。
 それで、地域通貨とか環境チケットとかいろんなチケットの方式がありますが、地方に行きますと、「ゆい」の風習がまだ残っているところがある。そういうところで、「先生そう言うこと言っても、そういうの、もうやっているからだめですよ」とか言う方もいるんです。ところが、始めると、これが、うまく機能するところがあるんです。それは何かといいますと、当然のように集落の付き合いに出なければいけなかったんだけど、自分の都合で出れなかったと言う時に、昔は2升持って行ったんだけど、今は、「御免ね。チケットで」という。これは、今度自分が出来るときに何かしますよ、ということにもなる。これは、チケットでなくて物でもいいんですよ。企業さんが、「社会活動するときに何かしたい、当社としても何かしたい」けど、お金を出すわけにはいかない。厳しい経済情勢ですから。そう言えば、在庫が一杯あるな、と。うちの品物を使っているんだったら、これをひとつ出しましょうかと。これもひとつの「ごめんねおつきあい」です。そこには、地域のコミュニティを共有している仲間であるという連帯感があるから、「御免ね」が出てくる。知らん振りしている人間同志だと、「御免ね」もへったくれもありません。
 そういう意味で言うと、私達が昔持っていた地域社会の繋がりみたいなものが、もう一度少し、取戻そうかなあという動きではないかな、と思っています。
 
大塚 ありがとうございました。


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