海洋電子ハイウェイに関する技術要件の現状
SOF海洋政策研究所 松沢 孝俊
1. はじめに
海洋電子ハイウェイ(MEH: Marine Electronic Highway)は近年の電子情報技術の進歩に伴って生まれたコンセプトで、海事関連の業務における情報を電子化して蓄積・配信することによるメリットを、業務の効率化・高度化にフィードバックして運用する環境のことであると言える。それを構成する技術要素は20年以上から点在しており、例としては、1980年代に生まれた電子海図(ENC: Electric Navigational Chart)や、それを利用する電子海図表示装置(ECDIS: Electric Chart Display and Information System)が挙げられる。
MEHの概念自体は1990年代初頭にカナダで誕生したと言われ(Sekimizu et al., 2001)、その時点で技術的に可能であったENCとECDISの開発に重点を置いていた。しかし21世紀に入って、情報ネットワークの高速化や電子機器の演算性能の高速化、またそれらの低コスト化は、MEH具体化の可能性をさらに加速した。すなわち(1)機器のデジタル化が進むことで海事関連の高品質なデータが大量に得られるようになり、(2)記憶装置の大容量化と演算処理能力の向上により大量のデータを有効活用できるようになり、(3)ネットワークの高速化により全地球規模での情報の共有が可能になり、(4)低価格化によりインフラストラクチャおよび技術が拡散しやすくなった。
ところが、従来商用船舶に対する最新技術の搭載は普及しづらい側面がある。理由としては海運業界の厳しいコスト競争があるが、その背景には歴史的な航法の蓄積が既に多くあり、特に新しい機器に投資しなくても運航が可能であるという意識が船主にも船員にも存在することが挙げられよう。しかし、かつて電波航法が天体航法に取って代わったように、多大なメリットが認められれば普及が進み、それによって初めて投資効果が広く認知されることとなる。
MEHも現在普及に向けた産みの苦しみを抱える立場にあると言える。すなわち、MEHが船舶の安全航行にもたらす恩恵は明らかに大であるが、それは航行に必ずしも必要なものではない。しかも、その利益は船舶同士あるいは陸上・海上間で一斉に同じシステムを導入することで最大になる性質のものである。従って、MEHを普及させて安全な海運を、またひいては環境保護を目指すのであれば、その条件は国際的な協調を基盤とするコンセンサスの構築と、何よりメリットを広く宣伝することである。
例として、IMO主導によるマラッカ・シンガポール海峡におけるMEHプロジェクトについて見ると、2005年から5年間計画でデモンストレーションを行うことになっている(本報告書内、今井による)。その目的とするところは上で述べた条件に当てはまるものの、船舶運航側には比較的興味が薄いようである。
そこで本稿では、MEH実現に関する既存の技術をレビューし、その実現性と利便性を概観することを目的とする。ただし、船舶への機器の搭載や操船レベルの問題はSOLASに代表される規則・規制と表裏一体であるが、本稿ではそのような法制上の議論は行わないこととする。
2. 海洋電子ハイウェイの機能
2.1. 船舶の安全航行
統計によると、沿岸における事故で多いケースは、船舶同士が行き違う際の衝突、そして座礁である。これらの事故には、他船の識別や進路に関する情報、および海図情報や気象関連など通航路に関する情報の不足が、原因のうち大きなウェイトを占めている。
MEHでは、これらの情報を効果的に操船者に提供できる。新しい技術により取得できる情報もあれば、既存のインフラにより得られている情報もあるが、共通して言えるのは、情報は電子化・デジタル化され、劣化なく高速に配信が可能で、提供方法のカスタマイズが可能であることである。
MEHにおいては一般に情報はECDIS画面に表示されることが前提とされているが、実際の操船時にECDISを凝視し続けるのは危険な場合がある。しかしライトや音声による注意、あるいは操船者が着用するタイプの情報端末を利用すれば、通常の操船に対する干渉を極力排除したまま、MEH情報を安全航行に役立てることが出来る。
また、情報はデジタル化されているので、適当なアルゴリズムを与えて自動的に状況を判断するシステムが実現可能である。これは航行支援としての使用が第一義であるが、場合によっては操船の自動制御に応用が可能である。
以上のシステムの中枢としてはデータ処理を行う機器が必要であるが、これは最近のPC(パーソナルコンピュータ)の処理能力で十分であり、従って開発も搭載も比較的ローコストで可能である。開発環境も整っているため、開発業者はハードウェアよりソフトウェアに注力することで、高い投資効果を得ることが出来る。
ECDIS表示方法やユーザビリティなどの操船にとってクリティカルな部分は、主にソフトウェアによる付加価値である。これはMEHではハードウェアによる付加価値と同等以上であり、開発業者には企業規模の大小に関わらずデファクトスタンダードとなるチャンスがある。これはMEHの急速な高度化を促進し、またそれが航行安全性を向上させるため、望ましいフィードバックを形成する。
2.2. 海洋および沿岸の環境保全
船舶が座礁あるいは衝突し、燃料や積荷の流出が想定される場合、その被害を極小化するために速やかに有効な手段を講じる必要がある。特に海峡においては沿岸に被害が及ぶため、特に対処すべき項目が多い。すなわち、初動を効率的に行う以外に、被害の予測と監視を行い、それに基づいて適切な補償がされなければならない。
MEHでは、情報の配信と同じ仕組みで警報を各船あるいは陸上局に発信し、事故に関する詳細なデータを提供することが出来る。警報にどう対応するかは対応サービスのネットワークの構築を待たなければならないが、自船あるいは近隣を通航中の他船より事故の位置や積荷情報が通報されれば、流出した物質の特性や量によって最適な対処手段あるいは対応するサルベージ業者を選定し、それに対して拡散予測や多くの有益な情報を与えることが出来ることになる。
また、沿岸の生態系や環境脆弱性をGISデータベース化して保持し、通常通航による環境負荷および事故時の影響を予測するシステムを構築し、適切な保護プロジェクトを実施することが出来る。環境的に脆弱な海域に対しては、特定の航行ガイドラインが定められるべきであり、操船時にはその遵守が求められる。また、このコンセプトは操船者のみでなく海運会社の航路計画にも反映されるべきで、事故時の対応を事例研究する場合などにも応用が可能である。GISを利用した環境影響評価システム構築の実施例としては、シップ・アンド・オーシャン財団による北極海航路プロジェクト(1995)がある。その中で行われた航路とある重要生態系要素の干渉についての評価例をFigure 1に示す。
Figure 1 : |
GISを利用した環境影響評価例。北極海航路と干渉するIvory Gullの生態域に対するセンシティビティ評価 |
2.3. 海運業務の効率化
船舶の情報のネットワークは、運航計画や港湾業務の効率化を助け、海運業務に関するコストの軽減に寄与できる。これは港湾の安全性の向上、および環境負荷の軽減にも繋がる可能性がある。
これを実際のプロジェクトとして成立させたのが、例えばEUによって導入が進められたVTMIS(Vessel Traffic Management and Information Services)であり、これは各国に点在していたVTS(Vessel Traffic Services)を広く統合して情報の共有を図ったものである。他にもカナダ、シンガポールなども同様のサービスを提供している。(Haare, 2001)
VTMISではVTSと比べて、陸上側がより積極的に船舶の運航コントロールを行い、バースの使用状況や貨物のプライオリティを勘案して、港として最も機能する計画を作成する。必要な機材は、船と港の全情報を把握できるコンソールと通信設備であり、特殊性は低い。しかし現時点では熟練した管制官による判断が不可欠であり、そのレベルがサービス全体の性能を左右するため、人的資源の育成・確保が重要である。
他にも、外航船の運航管理を行うためにMEHを利用することができる。船社では海峡を運航中の自社船舶の動向をMEHを通じてモニタリングすることができれば、安全確保や管理業務の面で大きなメリットがある。MEHは本来海峡の沿岸国同士での情報の共有を目的としているが、システム運営の維持のために船社の要望に応じた情報を提供し、利益を得ることも考えられる。またデータの送受信には、既存技術で可能な一定のセキュリティを施したインターネット通信を利用すれば、インフラ整備にかかるコストを最小限に抑えることができる。
こうした分野の発展のためには、産官の連携、および船社の垣根を越えた統一的な行動が不可欠であるが、情報の電子化によるメリットはコストの低減に大変効果があり、それはMEHの有効利用にそのまま当てはまるものである。
3. MEH構成要素のレビュー
MEHを構成するために必要な要素は様々あるが、大きく分けて船上のインターフェース、陸上支援設備、そして通信路の3つがある。それぞれについて特に重要なもの、あるいは現在特に進歩があると思われるものは次の4つである。
ECDIS |
電子海図表示装置 |
船上設備 |
VTS |
船舶通航業務 |
陸上支援 |
AIS |
船舶自動識別装置 |
船上および陸上 |
海洋ブロードバンド |
海洋上でのインターネット接続 |
船上インフラ |
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ECDIS(Electronic Chart Display and Information System)は、船上におけるインターフェースとして船橋で重要な役割を担う。MEHで得られる様々な情報を効果的に表示するために、インターフェースデザインの高度化は不可欠である。またカスタマイズによって付加価値を付けやすい装置であり、メーカーによる開発が積極的に行われている。
VTS(Vessel Traffic Services)を行うVTSセンターは、船舶の通航を管制する施設として世界各国で整備が進んでいるが、MEHにおいて通航船舶の情報を共有するためにVTSセンター同士をネットワークで結ぶことが必要である。またVTSセンターは、MEHにおいて気象などのデータを配信するデータセンターとしての役割を果たすことも出来る。
AIS(Automatic Identification System)は、船舶の情報を自ら発信するトランスポンダを各船舶に搭載して、船舶同士で船舶の識別をおこなう、あるいは陸上から船舶の情報を取得するシステムである。装置の搭載は義務化されつつあり、これによりVTSも大きなメリットを得ることができる。
海洋ブロードバンドは、船舶上からインターネットなどに接続して、高速なデータ通信を実現するための技術である。技術的にはほぼ完成されており、使われ方が問題となる。MEHでは船陸間で多量のデータのやり取りを行うことが想定されるため、インフラとしての高速な通信路が必要であり、海洋ブロードバンドの実現は歓迎されるものである。
以下ではVTS、AIS、海洋ブロードバンドの各要素について、詳細にレビューする。
3.1. VTS(Vessel Traffic Services)
VTSは船舶に運航上必要な情報を提供するもので、多数の船舶が行き交う航路の安全を最低限確保するために必要なインフラである。MEHにおいては陸上支援設備の代表的な存在で、目視・レーダー・AISによる監視、航路情報および気象・海象データの配信を行い、必要であれば航行支援のための情報を提供する。
VTSにおける管制業務は、レーダーや船舶識別データベースなどの情報をコンソールに表示し、オペレーターがそれを見ながら船舶に必要な指示を与えることである。コンソール自体には演算処理能力はそれほど必要とされないが、レーダーやAISなどの情報と船舶情報を対応させたり、レーダー信号を合成する基幹システムには、専用の高度な機材が必要となる。システムの構築は世界中でも受注業者が少なく、導入や保守には一定の困難さが伴う。これはシステムの開発規模に対して顧客が少ないためである。
VTSの主要な監視機器はレーダーである。基本的な性質は物体からの電波の反射を探知するものだが、データを量子化して解析することで、ある程度の進行方向の把握などの自動処理が可能である。探知距離はアンテナの高さにもよるが大体20km程度で、物体に対して見通しがないと探知できない。また電波の性質を直接利用しているため、雨雪の反射や偽像などの現象への対処が必要であり、アナログな機器であるといえる。
従って、オペレーターにはレーダーの原理や調整技術の知識が必要である。また国際海峡では管制業務は基本的に英語で行われる必要があり、しかもサービス提供は24時間行われている必要がある。こうした人材の確保がVTSの基盤となっており、IALA(国際航路標識委員会)ではVTSオペレーターの教育ガイドラインを策定している。
実働例として、わが国の東京湾海上交通センターではVTSを用いた通航管制業務を行っており(海上保安庁パンフレット)、保安学校および保安大学校での教育を経た40名程度のオペレーターを4班に分けて、24時間を交代勤務している。監視船舶数は東京湾全体で500〜700隻で、それぞれ10名程度で分担している。また、14GHz帯レーダーを4基配備しているが、このコストは主要な映像処理装置も含めて1基9億円程度が掛かっていると言われている。システムのベンダーは沖電気であり、同社では他のセンターのシステムも受注している。(高橋他, 2001)
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