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'05剣詩舞の研究◆11
群舞の部
石川健次郎
 
剣舞(群舞)「憤りを書す」
詩舞(群舞)「曲江」
剣舞(群舞)
「憤り(いきどおり)を書す(しょす)」の研究
陸游(りくゆう)作
〈詩文解釈〉
 作者の陸游(一一二五〜一二〇九)は南宋の詩人で、生涯に三万の作品を詠んだといわれ、そのうち約一万が今日に伝えられている。彼の作風については、今回のシリーズ7回目の「児(じ)に示す(しめす)」でも述べたように、国を愛し正義を尊び、よこしまを憎むといったものや、田園の自然に人々の生活を詠んだものなど幅が広い。処で彼の出身地は浙江省紹興県の山陰と呼ばれた地方で、陸游が誕生した頃の国情は、北方の異民族「金」が宋の領土であった中原(洛陽・鄭州を中心とする黄河流域一帯)を侵略し更に南下して来たので、南宋は江南を中心とする政権をつくった。陸游は官職をはなれた父と故郷で生活し、少年時代から陶淵明の詩を学びその影響を受けた。三十四歳で官職を得た陸游は数年後進士の資格も得たが、政界の争いを批判して免官になる。その後復職して地方の役人として軍事面でも主戦論者として活躍した。この詩は作者六十二歳の晩年に、憂国の思いから三国時代の諸葛孔明(しょかつこうめい)の事績を引用して、当代に傑物のいないことを嘆いている。詩文の意味は、『若い頃の自分は世の中のむずかしさなどは全く気にかけず、かつては宋の国土であった北方の中原の空を眺めては意気がたかぶるのを覚えた。また或る時は高いやぐらの軍船に乗って雪の降る夜に瓜洲(かしゅう)の渡し(わたし)(江蘇省にある軍事上の重要拠点)で戦い、秋には武装した馬に乗り大散(だいさん)の関所で戦った。それというのも自分は辺境の長城の様に敵を防ぐ事を誇りに思ったのだが、今は鏡にうつる白髪(しらが)を見て老を感じている。中国は今から千年以前に蜀(しょく)の諸葛孔明が書いて有名になった「出師(すいし)の一表(いっぴょう)」(蜀が全軍をあげて魏を討つために出陣した折、孔明が主君に奏上した書で、内政上のこと、臣下の忠節、国家のゆくてを述べたもの)があるが、現在の我が国には彼と肩を並べるような人物がいるのだろうか』というもの。
 
出師の一表
 
諸葛孔明像
 
〈構成振付のポイント〉
 憂国の詩人、陸游の壮大な気迫が溢れた作品だけに剣舞の群舞としても奔放な構成を試みることが出来るであろう。
 中国では古くから中原を制することは、全土を支配する戦略的課題とされて来ただけに、この地の奪回を夢みていた作者の思いを反映したい。先ず前奏から第一・二句目にかけては詩文にこだわらず、全員によるダイナミックな刀法の連続で抽象的な気迫をみせる。三句目は刀を櫓(ろ)に見立てて操船の揃い振りなどに変化を持たせ、四句目は馬上での三つ巴の斬り合いを早いテンポで展開する。五句目は三人揃い振りで作者の心情を居合の型に置き換えて演じ、六句目は二人が控えて一人だけで作者の老いた風情を継続する。七句目はその作者役が諸葛孔明の役に替って、扇を「出師(すいし)の表」に見立てて読み上げると他の二人が臣下役で拝承する。八句目は第二句と同じパターンで再び三人が詩文をはなれた抽象的な刀法で作者の気骨(きこつ)を表現したい。
 
〈衣装・持ち道具〉
 役変わりが多いので三人とも黒紋付に無地または縞模様の袴を着用するとよい。扇は振付によって船の帆や馬の鞭、上奏文などに使うので黒骨に金地葭模様などがよい。
 
詩舞(群舞)
「曲江(きょくこう)」の研究
杜甫(とほ)作
 
杜甫像
 
〈詩文解釈〉
 作者の社甫(七一二〜七七〇)は云う迄もなく唐代の代表的な詩人だが、彼の朝廷生活は快適なものではなかったようだ。当時(七五七年)安禄山(あんろくざん)の反乱軍に捕えられて長安に幽閉されたが、彼は脱出して皇帝の粛宗(しゅくそう)の行在所に至り、その功で左拾遺(さじゅうい)(皇帝の御意見番(アドバイザー))になった。しかし彼の頑固な責任感から反って粛宗の怒りをかって翌乾元(けんげん)元年(七五八)に地方の長官に左遷されることになった、この詩は同年の春の作で社甫は47歳だった。なお題名の「曲江」とは池の名で曲江池(ち)とも呼ばれ、漢の武帝が長安の東南隅に造った。詩文の意味は『朝廷の勤めから帰るたびに不要な春の衣服を質に入れて、それで酒を買っては曲江の辺で酔いしれて家に帰った。従って酒屋の借金などは方方にあったが、気にすることなくどうせ人間は七十歳迄生きることなど稀なことだから、今のうちに多いに酒は飲んで楽しむべきであろう。
 さて見渡すと揚羽(あげは)蝶が花の中に沢山見え隠れして蜜を吸っている、又とんぼは水面に尾をつけてはゆっくり飛んで行く。自分もこの様な長閑(のどか)な眺めの中に浸ってゆったりと過ごそう。』というもの。
 なお詩の中程の(古来稀なり)は古稀の語源である。
 
曲江池案内図
 
〈構成振付のポイント〉
 前半は杜甫が努力して得た左拾遺の役職を剥奪され、何んともやり切れない気分を酒で紛らそう(まぎらそう)とする様子がよく描けている。然しこの様な詩文の舞踊表現は、群舞より独舞に適しているから、そこで今回は群舞として作者の心情を抽象表現で描く工夫をしてみよう。
 まず前奏から一・二句目は四人(同僚役)が隊列を組んで行進すると、酔った一人(杜甫役)がその列に絡む(からむ)(縫う)様な動きで疎外された人間の虚無感を見せて一人残る。三句目は前句を受けて一人座り込むと、四人が再び現われて杜甫の回りを固め内と外に向った動きを見せる。四句目からは外側の四人が円運動すると、中央の杜甫は立ち上って激しく動き四人と調和する。
 後半は五句目から四人が突然二枚扇で蝶の振りを見せると杜甫役はそれを見る。六句目からは四人は二人ずつ二組の大きな蝶となり、杜甫役はとんぼの形態振りで交流する。七句目は再び四人は蝶(五句目と同)になり、とんぼも一緒になって五人の乱舞になる。八句目からはがらりと変り、仕舞様式の格調ある五人の扇の揃い振りを見せて退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 杜甫自身とその周囲、それに自然界の蝶やとんぼに現実から逃避したい杜甫の姿を描くので、男女ともに着付や袴は中間色で無地がよい。扇は銀無地などが適当である。
 
表紙説明◎名詩の周辺
新正口号―武田信玄作
山梨・甲府市
 武田信玄は戦国時代の名将で、越後の上杉謙信と川中島で戦った、いわゆる「川中島の合戦」は一般によく知られています。「鞭声粛々夜河を過る・・・」で有名な頼山陽の漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」もこの時の様子を詠んだもので財団発行の「吟剣詩舞道漢詩集」(絶句編)にも載っています。不識庵が謙信、機山は信玄で、ともに出家した後の法号です。
 武田信玄は、幼名を太郎または勝千代ともいいましたが、のち、将軍足利勝晴の一字を贈られ晴信と称しました。法名は信玄。法性院・徳栄軒という名も伝わっています。機山は没後、慧林寺(現在の恵林寺)の僧快川が贈ったものです。
 
 
 信玄が生まれたのは、大永元年(一五二一)、甲斐の国(山梨県)石水寺城で、父は甲斐の国守、武田信虎、信玄はその長男として生まれました。二十一歳のとき、父に代わって甲斐を領し、しだいに勢いを増し、群雄と覇を争い、信濃を制圧します。
 この間、今川・北条両氏と同盟を結び、越後の上杉謙信と五回にわたり川中島で戦っています。
 謙信を牽制するため北越の一向宗徒を扇動したり、浅井・朝倉両氏および石山本願寺と手を結ぶこともしています。将軍足利義昭の要請を受け、甲信の兵二万、北条氏の援軍二千を率いて上洛の途につき、遠江に入って徳川氏の諸城を攻略、元亀三年十二月、三方原で織田・徳川の連合軍も破り、翌元正元年、野田城を囲みますが、作戦中病を得、帰国の途中、信州駒場で没しました。享年五十三歳。遺言により信玄の死は三年間秘められ、三年後に火葬、信玄が寺領を寄付して菩提寺とした恵林寺で天正四年(一五六四)大葬儀が行なわれました。
 信玄のこの詩は、いつどこで作られたかは不明ですが、新年に入ってからもまだまだ春は遠いといった感じを口号(文字を書かずに心に浮かぶまますぐ吟詠すること)という形で述べたもので、武将として名高い信玄の詩人としての一面を伝える興味深い詩です。
 
甲府まで来たらぜひ見たいのが、特別名勝「御岳昇仙峡」。巨岩・奇岩に清流が織りなす自然の豪快な景観は一見の価値あり
 
もう過ぎてしまったが、秋にはブドウ狩りも楽しめる。地元産の種々のワインも各地で味わいたい
 
【武田神社】JR中央線甲府駅からバス武田神社行きで約10分。終点下車後すぐ。
【甲斐善光寺】JR中央線甲府駅からJR身延線で4分、善光寺駅下車後徒歩約10分。
【恵林寺】塩山市小屋敷にあり、JR中央線塩山駅からバスで約13分、恵林寺前下車後すぐ。
 なお、「信玄公まつり」が毎年甲府城を中心に四月中旬に行われています(昨年は4月9・10・11日)。


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