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今月の詩(3)
平成十七年度全国吟詠コンクール指定吟題から
【幼年・少年・青年の部】(絶句編)(3)
勧学  木戸孝允
 
【大意】いかに足のおそい馬でも、倦まずたゆまず、長年月かかって歩み続けるならば、どのような高い山でも大きな沼沢地でも、すべて通過することができる。ほんの一すくいほどの岩間の泉も、絶え間なく湧き出て流れ流れてやむことがなければ、ついには広々と果てしない大海万里の波ともなるのである。そのように人も不断の努力を積むことが大切であって、多少の才能などは問題ではないのである。
 
【一般一部・二部・三部】(絶句編)(3)
舟中子規を聞く  城野静軒
 
【大意】春も過ぎようとするころ、淀川を下る舟が山すそに眠る八幡・山崎を通過中かと思う折しも、血を吐くようなほととぎすの声、川面には夜目にもしるく落花が静かに流れてゆく。「一声は月が啼いたか」と思われ、一声は水中から発したようでもある。ほととぎすの声は実に聞く者の腸も断たんばかりに悲しませるものであるが、まして故郷を離れているこの身にとって夜半の舟中での感慨はひとしお痛切なものがある。
(解説など詳細は財団発行「吟剣詩舞道漢詩集」をご覧ください)
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第16回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二〜一六〇三)―【その七】
天皇親政から室町幕府へ
 奥州では伊達政宗が勢力を張り、伊豆、相模を手中に収めて小田城に拠る北条早雲、駿河の今川義元、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、三河の徳川家康、尾張の織田信長、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、周防の大内義隆、安芸の毛利元就、四国の長宗我部元親、豊後の大友宗麟、薩摩の島津貴久らがおもな武将だった。
 これらが互いに貪欲な牙を磨いて領土を奪い合う戦いが、明けても暮れても続けられ、そのなかの織田信長が千五百六十年(永禄三年)に今川義元を桶狭間の戦いに破り、京都へ入り、一応足利義昭を将軍に立て、後に義昭を追放し琵琶湖東岸の安土に居城を構えて天下を取り、中国の毛利元就を討つため秀吉を派遣して岡山の高松城を攻めたが、なかなか落ちないので応援軍として明智光秀に命令を下す。
 光秀は自分の居城亀山へ帰り、そこから中国地方へ向かう予定で亀山へ行くが、途中信長に反旗をひるがえして、老いの坂より逆戻りをして、本能寺を宿舎にしていた信長を討ってしまうのである。
 信長の悲報を聞いて秀吉は、直ちに京都に軍を返し、明智光秀を山崎の一戦で破り、光秀は小栗栖(おぐるす)の長兵衛の槍に突かれて最期をとげ、秀吉の手に天下が転がり込んでしまう。尾張の百姓の子に生まれた木下藤吉郎は、豊臣秀吉となり、天下へ号令する武将にのし上がり、各地の武将を破ったり、手なづけたりして天下を統一したのである。
 そして大阪に築城技術の粋をかたむけた五層七階の天守閣を持つ大阪城を築き、位は関白にもなり、邸宅として京都に豪華な聚楽第(じゅらくだい)を作り、さらに伏見へ伏見桃山城を築き、ここへ移って朝鮮出兵などという海外政策もたてるが、千五百九十八年(慶長八年)に秀吉が死んだのでこの政策は中止され、秀頼が後を継いで大阪城へ移るが、関ヶ原の戦いで徳川方が大勝して、徳川家康による江戸幕府の手に天下が治まり、江戸時代に入るのである。
 
「本能寺の変」(上)と明智光秀の最期
 
 ここで戦国時代の逸話として、今日まで人々の語り草になっている挿話を二、三あげておこう。
 まず第一は、自分生涯の敵であり、最大の努力をはらって倒そうとしている武田信玄の国甲斐へ塩を送っている上杉謙信、また天正三年長篠城が武田の軍に包囲された時、その重囲をくぐり抜けて岡崎城の使者になった鳥居強右衛門勝商は使命をはたしての帰途、敵兵に捕えられて城内へ向かって“援兵は来ないので早く開城して投降せよ”といえ、拒めば磔刑にすると脅かされたが、鳥居勝商は死を覚悟して、城に向かって大音声をはり上げ“援兵は明日必ず来る、大いに安心して戦え”と叫び、磔刑にされている。
 
上杉謙信
 
 また秀吉が出世をして、位人臣を極めて後も、母の前には土下座して孝養を忘れなかったことも、あるいは、大阪城落城の悲話として、木村重成の妻尾花が夫の重成の兜に香をたき、死の出陣の夫への餞に十九歳の花の命を断ったことも、美しい逸話である。


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