日本財団 図書館


吟剣詩舞だより
吟道紘仙流祥誠会吟剣詩舞道大会
=創立二十周年記念=開催
・平成十六年八月八日
・メルパルク仙台
 
 短い夏を謳歌し、生命の歓喜を歌い上げる東北三大祭、そのフィナーレを彩る仙台七夕祭最終日。例年にない猛暑の中、平成十六年八月八日(日)、メルパルク仙台で盛大に開催されました。
 午前十時、オープニングセレモニー。中條仙舟副会長による開会の辞の後、国歌斉唱、紘仙流詩合吟、物故者黙祷。
 紘仙流銀嶺会会長(他四名)による「祝賀の詞」詩舞で開始。会員合吟、独吟、詩舞、千葉支部、平塚本部からの友情出演で吟詠が披露されました。
 次いで「道の雅」と題し、華道吟、茶道吟、書道吟が舞台一杯に繰り広げられ、日本の美、心で会場が華やかななかに、しっとりとした雰囲気に包まれました。
 午後一時、式典に移り大会実行委員長の挨拶、浅野史郎宮城県知事、仙台市長代理、全国朗吟文化協会会長代行小倉契秀先生、宮城県吟剣詩舞道総連盟理事長岡部渓秋先生の祝辞の後、二十周年功労者表彰、そして紘仙流祥誠会長施旗が会員より会長に贈呈されました。祝電披露では、財団法人日本吟剣詩舞振興会会長河田和良先生はじめ各方面の先生方からの祝電が披露されました。紘仙流祥誠会奥村紘彩会長より、「これまでの会に対する感謝と、一層の精進を重ね吟道発展に尽くしたい」と謝辞を述べられました。さらに浅野宮城県知事に社会福祉協会への寄附目録が手渡され式典を終了しました。
 
浅野史郎宮城県知事(前列左から5人目)のご臨席を頂き、奥村会長、会員と記念撮影
 
 続いて来賓者吟詠、剣舞、詩舞、尺八独奏、平成十五年度日本吟剣詩舞振興会全国大会一般二部優勝者・紘仙流会員須藤琢仙による独吟「宝船」が披露されました。
 その間、構成糠塚至仙により「悠久の長江を下る」が一時間にわたり繰り広げられ、社甫、李白の世界に思いを馳せました。わが会が二十一世紀を記念し平成十二年十一月の五日間「中国長江吟行の旅〜三峡と三国志の跡を惜しむ〜」その時の感動と思いでを綴り構成吟にしたものです。
 さらに来賓吟剣詩舞に入り、県総連の先生方、各方面に渡る先生方の吟詠剣詩舞に会場は湧き大変盛り上がりました。最後に奥村紘彩大会会長の「田子の浦ゆ」の朗詠後、万歳三唱をもって盛会裡に幕を閉じました。
(吟道紘仙流祥誠会副会長 中條仙舟)
 
第二十三回九州地区吟剣詩舞指導者特別研修会を開催
(九州各県の指導者が集い研修会)
 
 去る八月二十二日、財団法人日本吟剣詩舞振興会九州地区連絡協議会が主催する「第二十三回九州地区吟剣詩舞指導者特別研修会」を福岡市ももちパレスにおいて、財団会長河田和良先生、財団理事箕輪緑崇先生を講師としてお招きし九州各県より七百四十名が参加する中で開催しました。
 この特別研修会は、吟剣詩舞道の普及と振興のため、第一線で指導にあたる九州各県総連の指導者を対象に、毎年各県持ち回りで開催しているもので、福岡での開催で二十三回となりました。
 
挨拶する九連協議長・坂本岳雄氏
 
 研修会は、午前十時より益中鵬山九連協書記長による開会のことばに始まり、主催者を代表して坂本岳雄九連協議長の挨拶、財団会長河田和良先生からの祝電披露と続き、地元福岡県を代表して豊島栄陽九連協副幹事長の歓迎の挨拶で研修会の幕を開けました。
 
 研修会では地元郷土史作家の吉永正春先生から「筑前の戦国武将」についての興味ある文化講演があり、引き続き財団会長河田和良先生よりご挨拶を賜り、吟剣詩舞憲章についての意義、指導者としての研鑽に努めることへの貴重なご講義を頂きました。
 午後からは財団理事箕輪緑崇先生の発音と調和について「吟詠を楽しみ、より芸術的、豊かなものに」と題して解りやすい解説でお話しがあり、引き続き各県より選抜された九名の吟詠実技実習に入り、財団会長河田和良先生、財団理事箕輪緑崇先生及び地元少壮吟士六名の熱心なご指導を頂き、受講者一同有意義な研修会となりました。
 最後に各県の受講者代表に修了証書の授与があり、福永瀧霊九連協幹事長の閉会のことばにより午後三時四〇分盛会裏に無事閉講することが出来ました。
(九連協書記局)
 
詩吟との出会い
〜継続は力なり〜
三重県・須崎凰洲
 
 私は現在八十二歳になり、詩吟と詩舞を友として楽しく健康で日々感謝の念をもって暮らしております。
 詩吟との出合いは、中学を卒業して間もなく近くの奥さんから詩吟でも教えてもらったらと声をかけられすすめられたのがきっかけで、その人のご主人に教わることになりました。
 時は大東亜戦争前の昭和十四年三月、友だち四人と週一回午後七時から九時まで牧野先生の家へ習いにいくことになりました。
 詩吟の会名は「関西詩吟同好会四日市支部」です。それから三年熱心に練習しました。その時代の詩吟はガムシャラに大きな声を張り上げて(その当時は中国と戦っていたので中国詩はありません)、先生からは喉を破って血が出るまで練習しなさいと言われ、早朝近くの海岸や里山に行き、誰もいない処で思いっきり大声で吟じたものです。
 かくて三年余詩吟を習い、昭和十八年一月京都の第十六師団に入隊中支那で転戦しました。軍隊ではよく演芸会、会食等がありその時に「須崎、詩吟をやれ」と言われて吟じ名を売ったものです。
 第二の詩吟との出合いは昭和四十五年四月。名古屋地方局勤務から静岡支局に転勤を命じられ単身赴任し、年齢四十八歳、後十年で定年を迎える頃でした。宿舎の近くの詩吟の先生と出合い、縁あって一ノ瀬先生に教わることになりました。会名は「岳南詩吟社」の八幡教室で先生は熱心に厳しく丁寧にご指導下さり、二年間お世話になりました。
 静岡勤務を無事終え、昭和四十八年津支局に転任、家に帰りました。
 友だちが関心流の詩吟をしていたので相談をしたら、君の吟は天洲流の吟とよく似ていると山路泰洲先生を紹介していただき、それから七年間教えを得て山路先生のお陰で天洲流吟詠会の師範となり教室を開きました。一年後昭和五十六年六月六日、寺山天洲先生は急逝されました。十日宗家の葬儀に参列して思うに、もう後十年ご活躍下されば天洲流吟詠会の発展は計り知れなく多大なものがあったと残念でなりません。
 現在は、二代目宗家のご意志を継いで天洲流吟詠会三重県支部として小なれども続けております。
 詩舞は津支局勤務の時に縁あって藤貴流扇和会に入会、二十五年続けております。先生は藤貴良扇先生でやさしく熱心なご指導をいただいております。
 詩吟と詩舞をすれば相乗効果が出て芸の上達によく、健康にもよいものがある。継続は力と申しますが、芸事は奥が深く、永く続けることによって磨きが懸かり芸の真髄に達するもので一層励みになります。
 振り返って考えるに、私は定年後詩吟と詩舞の趣味を続けて健康を保ち元気で暮らせることは、何にもまして喜びでありこれからも身体のゆるすかぎり、長く続けていきたいと思います。
 
表紙説明◎名詩の周辺
山の夜―嵯峨天皇 作
京都・嵯峨天皇山上陵
 嵯峨天皇は第五十二代の天皇(七七八〜八四二)。平安初期の漢詩人で書家として有名です。幼年から聡明で、読書を好み、長じては経史を博覧せられ、文をよくせられました。さらに、書にも卓越し、釈空海、橘逸成とともに「三筆」と称せられたほどです。また遊猟も好まれるなど、まことに文武兼備、不世出の天子といえます。御即位は御年二十四歳。御在位十五年で、皇太弟に譲位されて、嵯峨の地に居住、承和九年七月十五日、五十七歳で崩御されました。
 特筆すべきは漢詩に長ぜられていたこと。五言律・七言律・七言古詩・七言絶句・五言絶句・雑言などにすぐれたものが多く、御遺作は九十余編にのぼります。実に詩人としても一流の御方です。
 ところで標題の詩「山の夜」は、嵯峨天皇が、山荘に仮泊されたときの感興を述べられたものですが、山中の仮りの宿りを物珍しがられているさまがよく出ていて、湿度の高い渓辺の暁の実感がさながらに伝わって来ます。
 
 
 嵯峨天皇の御陵は、山がお好きであった天皇の陵にふさわしく、旧嵯峨御所のあった大覚寺に近い山の頂上にあります。途中、京都市街も一望できる眺めのよい所にあるのですが、標高はさほど高いといえない山なのに、山道の階段(下の写真参照)が九十九折りで延々と続き、カメラ三台と望遠・広角などのレンズを入れた重いカバンを持っての取材者には非常にきつく、頂上の御陵に辿り着くまでに約四十分もかかってしまいました。
 山頂は森閑として荘厳な雰囲気に包まれ、詩の中にある如く、山鳥の鳴く声も聞こえて、まさに山上陵と呼ぶにふさわしい環境でした。
 山を下りて十分程歩くと左側に大覚寺が見えて来ます。正式名「旧嵯峨御所大覚寺門跡」の通り、平安の昔、嵯峨天皇の離宮嵯峨院があった所で清和天皇の時代に大覚寺と改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王が初代の住職に就かれています。真言宗大覚寺派の本山で、心経写経の根本道場であり、また、いけばなの嵯峨御流の総司所としてもよく知られています。
 
【大覚寺】JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅、京福電鉄嵐山本線嵐山駅下車徒歩約15〜20分。大覚寺行のバスはJR京都駅前、京阪三条駅前、阪急烏丸駅前、阪急嵐山駅前、京福嵐山駅前からそれぞれ利用できます。
【嵯峨天皇山上陵】大覚寺より徒歩約20〜30分。但し、山頂へはかなり山道が続くので、運動靴等の動きやすい靴で行かれることをおすすめします。
 
嵯峨天皇山上陵へは、幾重にも曲がった山道の階段が続く
 
大覚寺はいけばなの嵯峨御流の家元でもある


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION