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吟剣詩舞
こんなこと知ってる?(5)
 四月号から始まった新企画「吟剣詩舞こんなこと知ってる?」の五回目です。読者の皆さまと双方向で意見が交換できるコーナーとして設けております。
 吟剣詩舞の歴史、人物、身近な出来事など、読者の皆さまが驚くようなこと、是非、知らせたいことがありましたら財団事務局月刊誌係まで、ご寄稿をお願いいたします(形式は問いません。写真等も歓迎です)。
 今回は演歌歌手・一節太郎のエピソードと、読者の方から戴いたご質問について、本部事務局がお答えいたします。
 
“一節太郎(ひとふし たろう)は、
たいへんきれいな声の持ち主です!”
 「一節太郎は、たいへんきれいな声の持ち主です」。この言葉は、曾て、本栖湖で行なわれた夏季吟道大学の講師として長年にわたりご講演をいただいた作曲家の遠藤実先生が、「演歌のこころ―歌をめぐるわれとわが弟子たちの体験―」というお話の中で、内弟子の一節太郎を評しておっしゃられた言葉です。
 一節太郎は、「逃げた女房にゃ未練は無いが・・・」の歌い出しで始まる『浪曲子守唄』(昭和三十八年〈一九六三年〉発売)で一世を風靡、「浪曲歌謡」という独特のジャンルを築いた歌手です。
 一節太郎のあの歌声を聞いて、思わず咳払いをしてしまったという人も結構いたようです。
 遠藤実先生曰く、「彼は、あの唄のために無理して声を潰して独特のダミ声を作っていたのです。あのダミ声を維持するため、毎日、たいへんな努力をしていましたが、それでも、すぐにもとのきれいな声に戻ってしまうので困っていました」。
 
本栖湖の夏季吟道大学で講演される遠藤実先生
(先生は昨秋、大衆音楽界初の文化功労者に選ばれました)
 
 一節太郎は、『浪曲子守唄』を歌うため、もったいないことに、持ち前のきれいな美しい声を潰すのにたいへん苦労していたようです。
 『浪曲子守唄』は、一節太郎が弱冠二十二歳の時のヒット曲でした。しかし、ヒットしたのは、この歌一曲だけでした。もし、彼が、その持ち前のきれいな美しい声でデビューを果たしていたならば、もっと多くのヒット曲を出すことが出来たかも知れません。
 
“吟詠の発音にウラ声は良くないと言われています。しかし、最近、「ウラ声の強化と安定による発声法」というのがあると聞きましたが、これは吟詠の発声にも応用できるのでしょうか?”
 この質問はいつか出て来ると思っていました。
 五月二十八日放送のNHK「生活ほっとモーニング」の『あなたの声が若返る』で、声の老化現象((1)声が低くなる、(2)抑揚がなくなる、(3)声の張りがなくなる、(4)話すテンポが遅くなることなど)を改善し、若々しさを取り戻す、効果的な発声のための筋肉トレーニングを紹介するという番組がありました。
 番組では、声の老化を改善する方法として、三重大学教育学部教授でテノール歌手でもある弓場徹(ゆうば とおる)さんが、ご自身が開発した「YUBAメソッド」で、声を改善するトレーニングの基本パートを紹介していました。
 声が若返るための「YUBAメソッド」では、ウラ声とオモテ声がほど好く混ざった歌声を美しい声の理想としています。そこで、まず、ウラ声とオモテ声をはっきり分けて出す練習方法を基本パートとして教えていました。
 ウラ声にも、良いウラ声(芯があり響きがあるウラ声)と悪いウラ声(息が漏れてスカスカのウラ声)があるということです。
 弓場徹教授の著書には、平成十年十月初版発行の「歌う筋肉」夢のヴォイス・トレーニング〈CD付〉(ビクターエンタティメント株式会社)、平成十六年五月第一刷発行の「声美人・歌上手になる」奇跡のヴォイス・トレーニングB00K〈CD付(CDの内容はどちらも同じもののようです)〉(株式会社主婦の友社)などがあります。
 何年も前のことですが、フジテレビ系の長寿番組、タモリの「笑っていいとも!」に東京大学詩吟研究会の皆さんが特別出演していました。番組の中に登場した詩吟の稽古風景を見ていましたら、早速、この「YUBAメソッド」による発声トレーニングを稽古に取り入れているのを見て感心したことがあります。
 「良いウラ声」を活用することで、無理のない発声、生涯使える発声への道が開けるとしたら、長寿時代を迎えている吟詠界にとっても願ってもない発声法と思えます。大いに研究するに値するといえるのではないでしょうか。
 それに邦楽界(歌謡曲や詩吟などを含む邦楽全般を指します)の大歌手、名吟家などといわれる人たちが、この「良いウラ声」による発声を最大限に活用して、活躍されて来ていると思えてならないからです。
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第14回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二、一六〇三)―【その五】
天皇親政から室町幕府へ
 このようにして、楠正成をはじめ、多くの勤王の武将の努力により、建武中興として後醍醐天皇の親政政治が始まろうとしたが、足利尊氏が反旗をひるがえして、弟真義とともに京都へ攻め入り、再び京都を舞台に攻防の戦いが繰り返され、楠公をはじめ官軍方の努力によって尊氏、真義の軍と兵庫の豊原河原、および小清水付近で戦い、これを打ち破って西海に追い払うことに成功はしたが、悪運の強い尊氏らは、九州西国の大軍を陸路から真義、水路からは尊氏が率いて東上して来た。その勢力は侮りがたく、強力な部隊で、戦上手な楠公もその打開策に非常に苦しんだ末、遂に自分は死を決し、自分のなき後、後事を托し得る武将は一子の正行であると信じ、悲しい桜井の訣別となる。
 楠公は三千八百余騎の部下を連れて桜井の駅へ行き、ここで楠公はわずか五百騎、弟正季は二百、合計七百余騎の決死隊を編成して、残りの三千余の兵は恩地、和田、八尾、湯浅の宿将とともに正行に付けて金剛山に帰している。これは楠公が後の事を如何に心配していたかという証拠である。
 死を決して、泰然自若として騎兵隊の先頭に立ち、真義の陸軍を散々に悩まし、つづいて上陸して来る大軍の中を、湊川の戦野を血に染めて縦横無尽に駆けまわり、合戦十六回、身に十一ヵ所の傷を受け、遂に残兵七十三騎となり、“臣が事畢れり”と大悟、弟正季とともに一片の義心を万世に留め、刺し交えて壮烈な死を遂げてしまうのである。時に楠公は四十三歳、正季は三十三歳、延元元年(一三三六年)五月二十五日であった。
 
楠 正行(一三二六〜一三四八)正成の長子で、十一歳の時に桜井の駅で父とわかれて母のもとへ帰った。正成が戦死し、その首が届けられたとき、悲しさのあまり自害しようとしたが、賢い母に教え訓され、それ以後は父の遺訓と母の愛に励まされて武術と学問に精進し、楠の残った一族を率いて南朝の後村上天皇のもとへ馳せ参じ、正行二十二歳の時、細川顕氏を大将とする足利の大軍を藤井寺の合戦で打ち破って初陣の功をたて、顕氏と山名時氏の連合軍が住吉と、天王寺に六千余騎で布陣しているのを二千余騎の手勢で散々に破って大勝利を博し、若い名将正行の名を挙げている。
 
正行をさとす賢い母
 
 この時の逸話に、戦い勝って正行が渡辺橋にさしかかると、川の中で敵兵達が傷ついて流れてゆくのを見て、救い上げ、焚火をして温め、薬や食物を与えて手厚く介抱して、傷のいえた者達には具足や馬を与えて敵方へ送り返してやったという話が残っている。その敵兵達は温い情に感激して、四条畷の戦いの時、正行に味方した者も少なくなかったといわれている。
 足利方では、二十歳ばかりの正行にさんざん打ち破れたのを残念に思い、高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)の兄弟を大将として六万余騎の軍勢で攻め寄せたので、正行も意を決して吉野の皇居をたずね、後村上天皇に最後の参上を申上げ、後醍醐天皇の御陵にもお別れを告げ、如意輪堂に立ち寄って、堂壁に手兵百四十三人の名を書き連ね、その最後に“かえらじとかねて思えば梓弓(あずさゆみ)、なき数に入る名をぞとどむる”と一首の和歌を書き残したことは有名である。
 
堂壁に和歌を書く正行
 
 いかに智謀の将正行といえども、あまりにも差のある兵力では、四条畷の合戦で獅子奮迅の働きをするものの、次から次へとくり出す新手の敵兵のために全身に傷を負い、弟正時とともに差し違えて、一族郎党全員討死をしてしまう。正行は二十三歳、正時は二十一歳の若さであった。千三百四十六年、正平三年一月五日のことで、正行が吉野の皇居へ参内してからわずか八日目に四条畷の野を血に染めて、父は後醍醐天皇に仕えて忠節を尽くしたのに対して、正行は後村上天皇に仕え、二代にわたって二朝の天子に忠勤をはげんで、忠臣孝子の名を今に残しているのが楠公父子である。


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