日本財団 図書館


'05剣詩舞の研究◆5
青年・一般の部
石川健次郎
 
剣舞「戊辰の作」
詩舞「母を奉じて嵐山に遊ぶ」
剣舞
「戊辰(ぼしん)の作(さく)」の研究
木戸孝允(きどたかよし) 作
〈詩文解釈〉
 作者の木戸孝允(一八三三〜一八七七)は長州(山口県)萩の藩医・和田昌景の次男として誕生したが、同藩の桂九郎兵衛の養子となり、桂小五郎を名乗った。十七歳のとき吉田松陰の門に入り勤王の志を固め、国事に深い関心を持つようになったが、二十歳の折に江戸へ出た孝允は斉藤弥九郎に剣を学び、また彼の優れた技量はたちまち同輩を越えて塾頭になった。なおそれと同時に江川太郎左衛門について西洋兵学を修め、安政五年に藩の文武修業所の御用係となった。
 
作者の木戸孝允(写真)
 
 この頃から国内では尊皇攘夷の気運がたかまり、長州藩は文久三年に勅命を奉じて外国船を馬関(関門海峡)に砲撃した。これらのために長州は再度にわたって幕府から攻撃されたが此れを撃破し、さらに坂本竜馬を介して西郷隆盛、大久保利道らと薩長連合を結び、密勅を奉じて倒幕に立ち上った。やがて王政復古と共に木戸孝允は明治政府の中枢となり、参議兼文部卿として活躍したが、明治十年に四十五歳の若さで没した。
 この「戊辰の作」の詩は、孝允が明治維新の大業を成しとげた勤王の志士としての心境を、戊辰即ち明治元年に詠んだもので、内容は『過ぎし年には幕府の大軍が、我が長州の国境い(くにざかい)迄攻めて来たこともあったが、今は逆に朝命をうけ、一剣を携えて(たずさえて)討幕の軍を進めている。思えば世の中の移り変わりは夢のようだが、しかし自分の勤王の志は少しも変わってない』というもの。
 
〈構成振付のポイント〉
 作品は木戸孝允の人となりをそのまま詩に詠んだ様な明快な詩文構成である。従って剣舞の構成も詩文に倣って(ならって)、起句は幕府軍より攻撃を受けた状況、承句は反対に優位に立って攻撃を仕かけた状況を、それぞれ一人称的な剣技で構成する。振としては起句の受け身の戦いと、承句の攻めの戦いにコントラストをつけ、特に前半の起句では大軍の敵を迎えた演者の眼くばり(目付け)を振付上のポイントにしたい。さて転句は前半とは変って三人称的な感覚で「世の中の移り変わりは夢の如し」と演じたいところだが剣舞表現としては少々難しいテーマなので、むしろ抽象的な剣技として、例えば刀で相手を斬り付けるよりは、刀を“かざし”たり“構え”のポーズで演者の立つ位置をじりじりと移動させて、時の移り変りを発想させるとよい。従って「夢の如し」を眠りの振りと結びつけてはいけない。結句も三人称的に「少しも変らない勤王の志」を最も激しい作者の心として、強烈な剣技で表現すればよい。ここでも詩文で注意したいのは「腸(はらわた)」で、ここでは一般的に“心”のことだから、胸を中心に振りのポイントを置くとよい。
 
関門海峡の砲撃(馬関戦争絵図)
 
〈衣装・持ち道具〉
 勤王の志士の衣装パターンとしては黒紋付に袴が定番だが、結句に述べられた純粋な勤王の心を反映して、着付と袴を白に統一したり、また演者に似合った単色無地の紋付でもよい。鉢巻、たすきも使ってよいが、扇は振付の必要に応じて選べばよい。
 
詩舞
「母(はは)を奉じて(ほうじて)嵐山(らんざん)に遊ぶ(あそぶ)」の研究
頼 山陽(らい さんよう) 作
〈詩文解釈〉
 作者の頼山陽(一七八〇〜一八三二)は江戸時代後期の学者で芸州(広島)の出身。三十二歳の頃から京都に定住したが、この詩は山陽が四十歳の折に九州の長旅の帰途、芸州の母を伴って初めて京都を案内し、名勝嵐山を訪れて詠んだもの。詩の内容は『五年ぶりに嵐山を訪れると、山いっぱいの桜は鮮やかに咲きほこって美しい。しかしこうした景色を眺めるよりも更に嬉しいことは、毎晩母と枕を並べて、満開の桜の香りにつつまれた嵐山に眠ることができた喜びである・・・』というもの。なお起句の“已に五年”とは山陽が江馬細香や武元景文と五年前の文化十一年春に、嵐山で花見をしたことを、久しぶりの意味で述べた。
 
〈構成振付のポイント〉
 記録によれば、山陽が母を伴って嵐山を訪れたのは文政二年三月二十四日。この年の二月二十三日に広島を母と出発、途中は母の駕篭によりそって路々の風景を説明しながらの楽しい旅であった。この時の様子は「侍輿(じよ)の歌」にくわしく述べられているが、母親は嵐山の景色を大変好まれ、山陽もその後も母を案内して孝養を尽くしている。ついでながら文化十二年の四度目の折は、七ヶ月余り京都に滞在して広島に帰ったが、山陽が途中の尾道までを同道した様子が「母を送る路上の短歌」に述べられているので、こうした山陽の母思いの心情を知るよすがとなる。
 
頼 山陽(肖像画)
 
 前置きが長くなったが、この作品を詠んだ当時の母親(静子)は六十歳。彼女は大阪の儒者、飯岡義斉の娘で梅(ばいし)の号を持ち、観劇を好み、酒、煙草をたしなむというから、当時としては進んだ女性だったと思われる。
 さて舞踊構成としては、前半は母を伴って嵐山の桜を眺める情景を見せ、後半は宿屋で親子が懐しく語らう様子を描く。
 細かな表現は詩文の上での指摘がないから振付上での創作になるが、例えば起句は、前奏から様子のわかった嵐山の名所を探して、変りのないことをたしかめながら振り返って母を招き、手を取って案内する。承句は花の咲きほこった様子と散る美しい情景を扇の振りで見せ、扇を細めて短冊に見立て、詩文を記して母に呈する。転結句は宿での夕餉(ゆうげ)のイメージで、母に一献差して自分の杯にも注ぐ。話しは弾んで明日母を案内する吉野や三輪の景色を説明するうち、ふと母の居眠りに気付き、優しくいたわると、そばに落ちていた短冊を取り上げて見入る・・・と云った親子水いらずの情景を一人称で演ずる。
 
嵐山の桜
 
〈衣装・持ち道具〉
 一人称振りなら当然頼山陽のイメージであるべきだが、最終的には演者に似合うような調整も必要である。一般的には内容の雰囲気から着付は中間色で、調和のとれた袴を使用する。扇は例えば墨絵の桜や、上品な霞模様などがよい。
 
〔訂正〕
 七月号の詩舞「春日山懐古」の研究の中で、上杉謙信の居城があった春日山を現在の新潟県高田市と書きましたが、正しくは新潟県上越市です。(昭和四十六年四月二十九日に高田市と直江津市が合併して上越市となる)
 お詫びして訂正致します。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION