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吟剣詩舞だより
第七回五泉吟詠會
 社団法人関西吟詩文化協会五泉吟詠支部は平成十六年一月二十五日(日)午後一時より、三重県名張市・梅が丘市民センターにおいて第七回五泉吟詠曾を開催しました。五泉吟詠支部は、大阪学芸高等学校鍋谷安宏校長が指導しています。同校詩吟部や詩吟部OB会員が日ごろの練習成果を披露しようという目的でこの日の大会となり、会員が合吟や独吟を朗々と発表しました。
 鍋谷会長の大阪学芸高等学校における生徒指導の八年間のまとめ「八年の歩み」と校長の挨拶集「共に歩こう」そして詩吟道三十年を四八五頁にまとめられました「一生初心」の三冊の本の出版を記念してお祝いの吟詠が続き、最後に会長が「祝賀の詞」を吟じ満場の拍手を浴びました。出演者以外にもOB会会員や地域の方々などのご来場で、会場は満席の状態、合吟や独吟の一番一番が終わるごとに大きな拍手が送られ、会場を沸かせていました。
 会長が「三月に勤務先で定年を迎えます。昨年は大阪学芸百周年という記念すべき年に校長を務め、本年無事に定年を迎えることができましたのも会員始め皆様方のお陰と深く感謝いたしております。今後は詩吟道にも一層励み、会員の皆さんと共に支部の発展に全力を注ぎたいと思います」と挨拶、来賓挨拶や祝辞が続きました。つぎに表彰、段位、雅号授与とすすみ、鍋谷先生に三冊の出版を記念して、高木康永OB会会長、小原峰昇師範より記念品や花束などが贈られ祝電なども披露されました。
 全ての番組終了後、最後に今成三郎会員より「本日は有り難うございました。今後も峰永会長御指導の下、より研鑽を積み重ね、詩吟道に精進する所存です。皆様方のご健勝、ご多幸をご祈念申しあげてお礼のことばといたします」との謝辞があり、なごやかな雰囲気の中、記念撮影後閉会しました。
 同支部は高校生や若い人が中心の詩吟愛好家の集まりで注目を集めており、今後の活躍に大いに期待がもてます。
(文責 大阪学芸高等学校詩吟部OB会長 高木康永)
 
鍋谷安宏校長を囲み記念撮影
 
山下岳先生「文部科学大臣 地域文化功労者表彰受賞」
記念祝賀会盛大に開催
 何年ぶりかの大雪で開催も危ぶまれた祝賀会が、去る一月二十四日金沢市のニューグランドホテルで関係者二百人が集まり開催。山下先生の吟剣詩舞道の普及発展に全力を注がれた功績を評価されたものです。
 祝賀会は、発起人代表の榊原岳水石川県吟剣詩舞道総連盟理事長の挨拶で始まり、谷本正憲石川県知事、村隆一津幡町町長、入倉昭星(財)日本吟剣詩舞振興会常任理事など多数のご来賓よりご祝辞を戴きました。なかでも、入倉昭星財団常任理事には、河田和良財団会長からの、山下先生の数々のご功績と、これからのご活躍に対しての期待を述べたご祝辞を披露していただき、会場を盛り上げていただきました。
 これに対して、山下先生は「今後は、残る命を吟道のために尽くしていきたい」と、お礼の言葉を語られました。最後に中屋岳舟副理事長により、閉会の言葉で締めくくりました。
 
財団会長の祝辞を代読する入倉昭星財団常任理事
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第11回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二〜一六〇三)―【その二】
天皇親政から室町幕府へ
 文学の面では、いわゆる軍記物といわれるもの“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり”という書出しで平家の起り、そして清盛の専横を極めた栄華の夢、滅びゆく運命の有様をすぐれた筆でえがき、武士の勇武に対する讃歌を綴った“平家物語”を筆頭に、“保元物語”“平治物語”“源平盛衰記”、また歴史を扱った“吾妻鏡”などから和歌集として“新古今和歌集”“金塊和歌集”“山家集”随筆では鴨長明の“方丈記”兼好法師の“徒然草”等もこの時代にできている。
 しかし後醍醐天皇が千三百十八年に即位されるにおよんで、天皇は幕府を倒して、天皇親政を復活しようとして皇子の護良親王や、北畠親房らと討幕の謀をたてたが、準備が整わないうちに幕府へ洩れて、千三百三十一年(元弘一年)六波羅の幕府軍と戦って敗れ、後醍醐天皇は隠岐の島へ流されてしまい、この変を機に幕府に不満を抱く各地の武士や勤王の志の厚い近臣が朝廷に味方をして兵を挙げ、中でも河内の楠正成(一二九四〜一三三六)や護良親王の軍が六波羅を悩ませる一方、幕府方は足利尊氏(一三〇五〜一三五八)に命じて京都へ上らせるが、逆に尊氏は六波羅を攻撃する。その間に上野の新田義貞(一三〇一〜一三三八)が立って鎌倉へ攻め入り、執権北条高時以下、一族を全滅させてしまう。
 後醍醐天皇は直ちに京都へ帰り、幕府方の立てた光厳天皇を否定して、天皇自からの親政を樹立し、千三百三十四年に年号を建武と改める。これを世に建武中興と名づけている。
 しかし、足利尊氏は一応鎌倉に逆らって六波羅を取ったが、建武中興に不満を抱き、護良親王を鎌倉へ幽閉し、新田義貞を討つために鎌倉へ向かい、箱根で義貞の軍と戦って尊氏は敗れ、再び京都へ戻ったところを奥州から上って来た北畠顕家の軍に敗れ、九州まで逃れたが尊氏は間もなく九州を圧して軍勢を整え、水陸の大軍を率いて京都を目指して来たので、これを迎え討った新田義貞も遂に敗退し、楠正成も湊川で戦死してしまい、尊氏は入京して持明院統から光明天皇をたて、自分は征夷大将軍になり、室町幕府を開いたのである。
 室町幕府ができた後も、後醍醐天皇は吉野へ逃れて、ここに皇居をつくり、正統な皇位は吉野にあると主張したので、ここから吉野の朝廷を南朝、尊氏の擁立した天皇を北朝と呼び、南北朝が対立して、暫くは抗争を続けるわけである。
 
楠 正成(一二九四〜一三三六)楠正成は橘諸兄の後裔で、代々河内の赤坂に住む豪族の楠正澄の長子であった。元寇のあった年から十四年目の永仁二年に生まれ、幼名を多聞丸といった。八歳の時から河内の観心寺の滝覚坊聖瑜という博学多識の高僧のもとで仏教についてはもちろんのこと、儒学、ことに朱子学、禅学等を通じて精神的な教育を受けて育ち、この幼年の時に多聞丸が、天王寺の大梵鐘を人差指一本で動かしたという有名な話が残っている。それは初め指で釣鐘の下の方を突いて、動いたか動かないかわからないほど少しゆれる、次に二突、三突、四突と間隔をおいて反動を利用すると、だんだん惰力がついて、大きな釣鐘を一本の指で大きく動かして人々を驚嘆させたということである。
 こんな話の中にも、やがて稀代の軍略家といわれる楠公の片鱗がうかがえよう。
 そして十五歳の時に諸葛孔明の兵法を日本に伝えた大江維時の子孫である大江時親から兵法の奥義を学んだといわれ、その熱心さは太公望の兵学書を八十一度、孫氏の兵法を十三度も習い返したといわれるほど、精密に研究しているのである。
 
幼年の頃の多聞丸


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