(7)田子浦地区の人々や子供との交流
ディアナ号にゆかりの深い田子浦地区に富士市日ロ友好協会等の招きで、ロシア大使館関係者やその子供たちが田子浦みなと祭に参加したり、田子浦小学校を訪問したりして交流を深めています。
みなと祭では、ロシアの子供たちが、神輿(みこし)をかついだり、ステージで民族衣装を着て、ロシアの歌や踊りを地区の人々に披露をしたりして、田子浦地区の人々とふれあっています。
田子浦みなと祭への参加
田子浦小学校を訪問したロシアの子供たちは、茶道や華道などの伝統的な日本文化を楽しんだり、小学校の子供たちとのふれあいを通して、交流を深めました。
お琴の演奏を楽しむ子供たち
ロシア大使の富士市訪問
(8)ロシア大使の富士市訪問
日露友好150周年を前に、ロシュコフ・アレクサンドル・プロホロヴィッチロシア大使が、平成16年(2004)9月17日、18日の両日、下田市、戸田村、富士市を訪問し、鈴木尚富士市長や斉藤斗志二衆議院議員等と共に、ディアナ号関係の足跡を辿りました。富士市においては、三四軒屋緑道公園のディアナ号の錨や広見公園の友好の像を見学し、150年前を偲ぶ(しのぶ)と同時に、改めて友好の絆を深め合いました。
平成17年(2005)は、日本とロシアが友好を結んでから、150年になります。日露友好150周年を記念して、日本・ロシア協会と下田、富士、戸田の関係市村が、記念石碑をディアナ号ゆかりの地である下田、富士、戸田、そして、ロシア(サンクトペテルブルグ市クロンシュタット区)等の4ヶ所に平成17年1月に建立しました。
日露友好150周年記念石碑
碑文には、『皇帝ニコライ一世の命により、E・V・プチャーチン海軍中将は、1852年10月、クロンシュタット港を出港したフリゲート艦「パラーダ」号で、1853年8月、長崎港に到着した。1854年12月、E・V・プチャーチンは、フリゲート艦「ディアナ」号で下田港に到着した。プチャーチン海軍中将と筒井政憲、川路聖謨両全権との間で行われた交渉の結果、1855年2月、下田において、日露関係発展の始まりとなった「日露通好条約」が調印された。下田港に停泊中、「ディアナ」号は、津波の被害を受け大破し、駿河湾で沈没した。船員は、宮島村等の住民によって、全員救助された。日本人とロシア人の船員の協力によって、戸田港でスクーナー船「ヘダ号」が建造された。1855年「ディアナ」号の乗組員はロシアに帰国した。日露友好関係樹立150周年を記念して、この記念碑が建立された』と刻まれています。
ロシアから一隻の黒船。
ディアナ号の来航、そして、遭難・沈没・・・下田、富士、戸田は、大きな歴史の舞台となりました。時代を変え、人間愛を生み出し、日露友好の架け橋となりました。
条約締結、ヘダ号の建造、乗組員の救助活動・・・それぞれのドラマの中に“人”がいました。人は、国や時代を超えて動きました。困難を乗り越える勇気と決断、時代を拓く叡智と創造性、人とのふれあいと友情など、人間としての力がいたる所で発揮されました。
ディアナ号は、単に、我が国に近代化や国際化をもたらしただけでなく、人間としての未来を創る力を与えてくれました。ディアナ号の贈り物を、私たちは後世に伝え、未来への指標にしたいと思います。
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