2 その後のプチャーチン
(1)プチャーチンヘ勲一等旭日章
ヘダ号にて帰国したプチャーチンは、その後、安政4年(1857)日露追加条約調印、安政5年(1858)日露通商条約調印のため二度来日しています。明治政府は、明治14年(1881)プチャーチンに勲一等旭日章(きょくじつしょう)を贈っています。幕末に条約交渉で来日した外国人に対して、唯一の授章です。これは、プチャーチンがディアナ号を失うという悲運にもめげず、しかも、礼節ある態度で条約の締結を成し遂げた事やヘダ号建造が日本の洋式造船の先駆(せんく)になった事等、いわゆる、もう一つの開国といわれるように日本とロシアの友好関係の樹立に尽力した事を評価したのだといわれています。
(2)プチャーチン家の紋章に日本の侍
遣日使節として、条約締結という大役を立派に果たしたプチャーチンに対して、ロシア政府は、伯爵(はくしゃく)の称号を与えました。伯爵に叙せられたプチャーチンは、紋章を新たに作成しました。この紋章には、ロシア王朝の双頭の鷲(わし)や矢のとがった先端のついたAの字が描かれています。矢は古くからのプチャーチン家の紋章だそうです。紋章の左側には、使節の旗をもった下士官が盾(たて)の保持者となり、右側には、刀を腰にさし、鉄砲を持った日本の武士が同じく盾(たて)の保持者となっています。自分の家の紋章にまで、日本の武士の姿を描いている事により、プチャーチンの日本に対する想いの深さを知ることができます。
プチャーチン家紋章(複写)
(3)オリガ・プチャーチナの訪日
オリガ・プチャーチナ像
明治20年(1887)、プチャーチンの娘、オリガ・プチャーチナが戸田村を訪れました。日本に滞在中、父が世話になった関係者に記念品を贈り、謝意を述べました。この時、オリガの宿舎となったのが松城家でした。オリガの泊まった部屋は現在でも保存されています。その後、オリガ・プチャーチナは三年後に亡くなりましたが、遺言として100ルーブルを戸田村に贈っています。戸田村では、その遺志を大切にし、このお金を窮民(きゅうみん)救済基金にあてました。
(1)ディアナ号模型を戸田村へ贈呈
昭和45年(1970)、大阪で開催された万国博覧会の時、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型が、日露友好を記念して、博覧会終了後、戸田村立造船郷土資料博物館に贈られました。この模型は、実物の48分の1の縮尺で、ソ連海軍の設計局が製作した物です。この時、プチャーチンの曾孫にあたるマリナ・プチャーチナが戸田を訪問しました。そして、下田市長楽寺で行われたプチャーチンの慰霊祭へも参列をしました。
ソ連から贈られたディアナ号模型
(2)ドミトリー・プチャーチン夫妻の富士市訪問
平成4年(1992)9月11日、プチャーチンの子孫にあたるドミトリー・プチャーチン夫妻が、「友好半島・日露の会」の招きで富士市を訪問しました。この時、地元民の140年前のディアナ号乗組員の救助活動に対し、厚く感謝の意を述べました。そして、市立博物館、三四軒屋緑道公園の錨やプチャーチン像の見学等、ゆかりの地を訪れ、地元の人々とも交流を図りました。
ドミトリー・プチャーチン夫妻
(3)友好の像の寄贈
広見公園の一角に、一隻の漁船にプチャーチンと漁夫が乗った「友好の像」が建っています。この像は、平成6年(1994)に建立されました。碑文には、「富士市の先人の勇気と人間愛に満ちた献身的な行為に対して、また、日露和親条約の締結140周年を記念して、ロシアの作家であるグザーノフ氏やジーロフ氏と尼崎市在住の鈴川正久氏の発意により、ロシアの国民であるヴィーレン・I・ライスキ氏が、この友好の像を富士市に寄贈する」と記されています。
友好の像(広見公園)
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