第六章 広がる日露友好
鎖国体制の下で、外国人との接触や交際は固く禁じられており、一般民衆にも「貰うな」「やるな」「付き合うな」ということが徹底していました。役人も目を光らせ、行動を見張っていました。
下田で安政の大地震の時、『ディアナ号航海誌』に、「私たちは、小舟に乗っていた日本人たちを艦に乗せようとして救急網を投下した。しかし、彼らは不器用だったり、頑固(がんこ)だったりして、みずから破滅を招いてしまった。」というように、津波に遭遇した人々を助けようと、救助の手をさしのべましたが、それを拒み、悲劇的な結末に終わったことが記述されています。
また、『袖日記』には、「町方壱人へ申付。先達而(せんだって)異国船浜へ着くの節、異人と品物交易いたし候者之れ有り候ハバ、早速町方へ差出申す可く候。内証にて相済べく侯後日二顕候ハバ、曲事(くせごと)ニ相成べき由、云渡し之れ有り候。先日、柚野村の人、異人見物に行、百文程の品物交易いたし候を、彼地ニて見付けられ、縄付(なわつき)に相成、柚野村名主へ預け候よし。小田原様の家中の小者一人、異人と交易いたし、韮山之手ニて御召捕ニ相成り、未だ牢舎のよし」とディアナ号が沈没した時に、ロシア人と品物を交易(こうえき)した者が罰せられたことが記述されています。しかし、掟は掟として、人々は自然なかたちで触れ合い、交流が始まっていきました。そして、日常生活の中での文化的な交流や物品交換も行われていきました。
(1)要石神社での奉納相撲
神官植松弥作氏によりますと、沼津一本松に漂着したロシア人が、「要石(かなめいし)神社の奉納相撲(ほうのうずもう)に参加し、土地の若者たちと相撲を取った」という話が伝わっています。この時、内田重蔵(じゅうぞう)という若者がロシア人を投げ飛ばして優勝したそうです。その賞品として、回転式のコーヒーカップをもらいました。このコーヒーカップは、内田家に伝えられていましたが、横浜で戦争のため焼失してしまったそうです。この絵は、内田家の人が今から約60年位前の昭和の初め頃に知り合いの画家に描いてもらったそうです。
ロシア人との相撲大会
(2)ロシア語単語覚書
沼津小海(こうみ)、増田家にロシア語の単語を記した文書が伝えられています。どのような経緯で書かれたのか、また、年代も不明ですが、上陸したロシア人一行が富士から沼津を通って戸田まで行く途中、休憩地や宿泊地となった村々で何らかの交流があったものと推測されます。フウチャチンの名があったり、米をウイス(リース)、魚をアレバ(ルィーバ)などと書かれています。
『ロシア語単語覚書』
(3)戸田村での交流
また、戸田村の村民も、最初は、初めて目にするロシア人に驚き、警戒心や厳重な警護体制とも相まって、ロシア人との交流もありませんでした。しかし、時がたつにつれて、次第に打ち解け、触れ合いも始まっていったそうです。そして、物々交換も暗黙(あんもく)のうちに行われていたようです。
日露合作の掛軸
戸田村の宝徳寺には、ロシア人と日本人の合作した絵が残されています。これは、当時の宝徳寺住職の祖母にあたる、かう子が和歌を書き、勤斉(きんさい)が蝶、介田(かいだ)(別府卍城)が菊の絵を描き、グリゴリエフがうつぎの花を描き、彩色したものといわれています。
プチャーチン肖像画掛軸(複写)
そして、士官ミカーヨフが、ヘダ号建造の人夫頭をしていた辻次佐太夫にプチャーチンの描かれた肖像画を贈っています。これには、「吾が魂(たましい)を此の地に永久に留めおくべし」と書かれており、プチャーチンが戸田村民への感謝の意をこめて、ミカーヨフに描かせたといわれます。この掛軸から、プチャーチンや乗組員の日本や戸田村民への気持ちの一端を窺い知ることができます。
村民との交流が深まる中、ロシア人がひじょうに興味をもったエピソードとして、
・ロシアには蛇(へび)がいないので、大変珍しがった。
・炉の自在鉤(じざいかぎ)を不思議がり、鉤の竹を割って見て何の仕掛けもないのに驚いた。
・大工が使っていた墨壷(すみつぼ)を便利なものだと感心した。
・草履(ぞうり)や下駄(げた)を珍しがった。
・日本人が櫓(ろ)をうまく漕いで船を自由に操るのを見て感心した。
などの話も伝えられています。
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