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第五章 ディアナ号の追憶
1 唐人(とうじん)の根っこ
 田子浦海岸、特に、三四軒屋(さんしけんや)付近において、漁民が網を仕掛ける時、必ず海中の障害物に引っかかり、網が破れてしまう漁民泣かせの難所がありました。漁民は、障害物に網が引っかからないように注意深く、船を操作して障害物を避けてきました。しかし、風向きや潮の流れによって、船が流され、障害物に引っかかってしまい、漁ができなく、時には網を切って難を逃れてきたのです。この障害物の正体は何であるか、分かりませんでしたが、地元漁師の間では、「唐人の根っこ」と呼ばれてきました。この唐人の根っこには、二つの説がありました。一つは、安政の地震の時、この沖合いで沈んだロシア船の残骸(ざんがい)、また、錨であろう、もう一つは、明治の中頃、やはりこの海岸で座礁した日本の軍艦、清輝号(せいきごう)の物であろう、という説です。いずれにしても、何とかしてこの障害物を取り除いて、安心して漁をしたいというのが、漁民たちの長年の願いでした。
 
2 錨の引き揚げ
(1)1基目の錨の引き揚げ
 1基目の錨は、昭和29年(1954)8月、地元の漁業関係者や西伊豆妻良(めら)の村田利郎氏らによって引き揚げられました。錨の引き揚げには、田子浦漁業協同組合関係の漁師100人位が交代で作業に従事し、また、村田氏他4名の潜水士が実際に海に潜り、作業にあたりました。潜って見つけた障害物を、村田氏は流木か岩石ぐらいに思っていたそうです。そして、「これは、とてつもない大きなコンクリートのパイプだなと思って、いよいよ鎖を取り付けて引き揚げようとすると、どでかい錨だと分かって驚いた」と語っています。
 
陸上でシャチを回す人々
 
波打ち際まで引き揚げられた錨
 
田子浦地区忠霊廟に置かれた錨
 
戸田村立造船郷土資料博物館前に置かれた錨
 
 錨が沈んでいたのは、三四軒屋浜の沖合い約300メートル、水深約30メートルの地点でした。引き揚げの方法は、陸にシャチ(巻き取り機。「かぐら」とも呼ぶ)数台を据え、二隻の船を使い、船と船との間に2本の丸太を渡し、船からチェーンを下げて錨に結び付け、チェーンブロックでゆっくりと吊り上げるようにしました。この時、船が沈まないように舷側にドラム缶を2、3個ずつ結びつけたそうです。少し引き揚げると、陸の方でシャチを廻して、陸の方へ引き寄せました。こういう方法を何度も繰り返して引き揚げたのです。
 この引き揚げられた錨は、最初は、元の田子浦小学校の東側に隣接する田子浦地区の忠霊廟(ちゅうれいびょう)の前庭に置かれていましたが、昭和53年(1978)に戸田村に寄贈され、戸田村立造船郷土資料博物館の前庭に置かれています。
(2)2基目の錨の引き揚げ
 昭和51年(1976)8月に、2基目の錨が引き揚げられました。2基目の錨の引き揚げには、清水市のダイバー望月昇氏が中心となりました。望月氏は、ディアナ号の沈没に興味を持ち、錨の所在地を突き止めようとしていました。知人の三浦博氏のアドバイスもあり、田子浦の三四軒屋沖を中心に錨の調査を進めていきました。
 昭和51年5月14日、望月氏らは地元の斎藤久氏所有の栄久丸に乗り込み、海に潜り、錨らしき大きな塊を発見しました。この塊は、錨と鎖であることが確認されました。この段階では、まだ清輝号(せいきごう)のものか、ディアナ号のものなのかは判明はしませんでした。
 
クレーン船での引き揚げ作業
 
海面に姿を現した錨
 
海上に吊り上げられた錨
 
吉原埠頭に置かれた錨
 
 その頃、富士市の郷土史家や市民の間でも、地震やディアナ号関係の史実にも関心が高まり、「自分たちの手で、もう一つの錨を引き揚げよう」と、それとなく準備を進めていました。このような時、望月氏の錨発見の情報がもたらされました。もしこの錨がディアナ号のものであれば、富士市にとってまたとない貴重な資料であるので、できれば市自体が引き揚げるべきであるとし、市への働きかけも始まりました。その後、望月氏、富士市、駿河郷土史研究会等、三者の間で、錨引き揚げへの話が急ピッチで進んでいきました。
 錨の引き揚げ作業は同年8月3日に実施されました。引き揚げに従事した船は、若築建設の除渫船(じょちょうせん)第二竜王丸でした。午前10時頃、錨の先端が見えましたが、ワイヤーロープが切れ、再び水中に没してしまいました。失敗の原因は、クレーンを一ヶ所に固定して巻いたのと、錨についていた鎖の長さを予測できなかったことでした。そこで、クレーン船を自由に動けるようにしておき、錨を真上に引き揚げるように考えました。そして、前回の倍近くの太さのワイヤーを使い、再び吊り上げ作業を開始しました。今度はうまくいき、やがて、黒い錨の一部が海面に姿を表しました。鎖が約24メートルもついていましたので作業が難航し、午後2時頃、ようやく全部を吊り上げることができました。クレーン船は、錨と鎖を吊り下げたまま田子浦港の吉原埠頭(ふとう)まで運び、午後4時頃、同岸壁に陸揚げが成功しました。
 
ディアナ号の錨とプチャーチン像(三四軒屋緑道公園)
 
 その後、小佐田哲男氏(当時、東京大学助教授)らの調査により引き揚げられた2基の錨はディアナ号の錨であるとされました。
 2基目の錨は、地元からの強い要望もあり、三四軒屋緑道公園に置かれました。


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