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3 近代造船の幕開け
(1)ヘダ号の進水
ヘダ号模型
東海大学海洋科学博物館蔵
静岡市の杉村宗作氏作。実物の10分の1の模型。内部構造まで忠実に再現して造られています。
 
 作業は昼夜に渡って行われ、約80日余りで完成しました。船は、二本マストの60人乗りの木造帆船で、スクーナー船(スクーナーが訛って、スクーネル、シコナ、ヒコナともいわれました)と呼ばれました。船の長さは、約25メートル、幅約7メートル、竜骨の長さ約19メートル、排水量80から100トンでした。
 進水式は、安政2年(1855)3月10日に行われ、プチャーチンの上奏報告書には、「ヘダ号の進水式には、多数の観衆がつめかけた。日本ではじめて建造された洋艦のマストには、ロシア国旗と提督旗が高くひるがえった。進水したヘダ号が忽ち(たちまち)岬のかげに走り去っていくのを身をのり出して見つめていた日本人たちは、海岸に立つわたしの側に駆けよって祝った」と記述されています。
 
 
 我が国で初めて造られたこの洋式船は、プチャーチンにより建造の地である戸田の住民への感謝をこめて「ヘダ号」と名付けられました。
 
『露艦建造図巻』
(財)東洋文庫蔵
ヘダ号が完成し、進水式の様子を描いてあります。下の図に「駿州富士郡宮嶋村上陸魯亜人 豆州戸田浦船修復同所船送 船造之図」と書かれています。
 
 そして、西洋式の進水式は、笛を合図に、船体と船台、補助やぐらの間の止め材が外され、船が船台上を滑り下りるので、短時間で終わってしまったといわれます。従来、日本式の進水式の船おろしは一日がかりで行われましたので、そのつもりで見物しようと村民や近在の人々がやってきた時には、船がもう海の上に浮かんでしまっており、船が進水するのを見ることができなかったといわれます。『日露交渉史話』に、「進水式の時に、村人は西洋型船の進水式を見ようと思って、二丁の山道を越えて牛ヶ洞へ行った所が、もう進水式が終わっていた。見たのは朝早く家を出た四、五人の者だけであった。というのは、いつも村で船おろしをする時には、村中総出で弁当を持って一日がかりでやる習わしだったので、そのつもりで行くと、ロシア人は牛脂(ぎゅうし)を三樽ほどレールにひき、「オルスッポー」という号令一つで、ただの五分間ばかりで片付けたからであった」と記述され、西洋式の進水式のやり方に驚いた様子が分かります。
(2)「君沢形」船の建造
 ヘダ号の建造に続き、幕府は同型のスクーネル船を造るようにしました。幕府は、安政3年(1856)4月26日、戸田村で建造する長さ12間でマストが2本のスクーネル船を「君沢(きみさわ)形」とするように、通達を出しました。『江川坦庵全集』に、「スクーネル船を君澤形と相唱え候申し渡 豆州君澤郡戸田村ニて打立候、長さ拾貳間、檣貳本の御船スクーネル船と相唱え候處、向後(きょうご)君澤形と相唱候事右之趣寄々被置候」と記述されています。
 この君沢形というのは、当時、戸田村が君沢郡に属していた関係で、その郡名をとって名付けたといわれます。君沢形のスクーネル船は戸田村で約半年で6隻が造られました。さらに、その後石川島造船所で4隻造られました。
(3)近代造船への橋渡し
 ヘダ号の建造に携わった7人の世話掛は、各藩に招かれ、洋式船の建造と指導にあたり、日本における近代造船の橋渡し役となりました。石原藤蔵、堤藤吉、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門らは石川島造船所に招かれ君沢形船の造船に従事しました。上田寅吉は鈴木七助と共に長崎伝習所(でんしゅうじょ)に学び、第一期生として蒸気船機械製作と操縦(そうじゅう)を教授され、オランダヘ派遣されました。そして、明治3年(1870)に横須賀造船所の初代の職長となり、多くの艦船を建造しました。また、緒明嘉吉の子、菊三郎は父の仕事を継いで東京京橋に造船所を営み、後に海運業も営みました。
 
4 乗組員、帰国の途へ
(1)ロシアヘの帰国
 ディアナ号を失い、プチャーチンは、乗組員をどのようにしてロシアヘ帰国させるかを考え、ロシアに迎えを頼みに行く船を造る計画を立て、代船の建造を願い出ました。
 そのような矢先、フランス船が下田に入港したことを知ったプチャーチンは、この船を襲撃(しゅうげき)して奪い取り、帰国しようと企てました。『下田日記』の12月14日の項には、「今朝、戸田よりバッテイラに乗り、魯人八十人、俄に来る。これは、フランス人参り候を承り候て、右の船を乗取り候積りの由。出帆を承り殊の外残念がり申し候」と記述されています。そして、「布恬廷は、いかにも豪傑也」とも書き、川路はプチャーチンの剛胆さに感心しています。
 ロシアヘの帰国方法については、幕府の役人と話し合いを行い、結局、建造中の船は、ロシア人全員を一度に乗せることができる大型船でないため、帰国については、帰国用の船を雇い、何陣かに分けて行うとことに決まりました。
 第一陣は、アメリカの船カロライン・イ・フート号を使用しました。下田港に寄港した船を、プチャーチンが交渉し、カムチャッカのペトロパウロフスクヘの輸送の契約を結びました。しかし、この時、アメリカ船に乗っていた子供や婦人を下田に残留させたので、後々まで問題となりました。フート号は、安政2年(1855)2月25日にディアナ号の艦長のステパン・ステパノヴィチ・レソフスキー海軍少佐ら159人を乗せて、戸田港を出港しました。途中箱館に寄り、ペトロパウロフスクに直行し、無事に到着しました。
 その後、下田に入港したアメリカ商船ヤング・アメリカ号との傭船(ようせん)契約の交渉をしましたが、同船の乗組員の逃亡問題が起こり、不成立に終わりました。
 
『露艦建造図巻 ヘダ号の図』
(財)東洋文庫蔵
 
 結局、帰国の第二陣は、建造されたヘダ号によらざるを得なくなりました。同船において帰国を決意したプチャーチンは、老中宛てにヘダ号を借りての帰国と滞在中の厚遇(こうぐう)に感謝する書状を差し出しました。しかし、出国の際には、届け出るという申し出にもかかわらず、無断で3月22日に出港してしまいました。帰国したのは、プチャーチンをはじめ48名であったとされます。ヘダ号は、太平洋をイギリスやフランスの艦隊を避けながら北上し、津軽海峡を経て黒龍江(こくりゅうこう)に向かい、ニコライエフに到着しました。そして、アムール河をさかのぼり、シベリア平原を横断して、戸田を出て7ケ月後に当時の首都であるペテルブルグに到着したそうです。
 第三陣は、ドイツ船グレタ号で、6月1日に帰国しました。ムーシン・プーシキン伯爵ら285人であったとされます。しかし、母国のアヤン港に近づいた所でイギリス船に捕らえられてしまいました。マホフ司祭長や医師、病人は釈放され、上陸を許されましたが、残りの乗組員は香港に護送された後、イギリス本国に連れて行かれました。クリミア戦争が終結後の1856年、ようやく釈放されて、帰国を許されました。
 このように、プチャーチンら乗組員は、3回に分かれて帰国しましたが、帰国した時の人数については、これまで諸説があり確かな数は定かではありません。『ヘダ号の建造』を参考に、乗組員の数を記します。
 
区分 中村一郎 藤井貞文 中村為弥
金子治司
堀達之助
高野明ら
高野明ら
原 平三
金子治司
西岡久夫
ヨールキン
総数 484人 501人 487人 501人 487人 587人
死亡 2人 2人 3人 3人 2人 2人
カロラインフート号 159人 159人 159人 159人 259人 159人
ヘダ号 62人 48人 61人 48人 48人 48人
グレタ号 278人 277人 278人 278人 278人 285人
合計 482人 498人 484人 499人 485人 585人 492人
 
(2)橘耕斎(たちばなこうさい)と和露通言比考(わろつうげんひこう)
 第三陣の帰国者の中にまぎれて、一人の日本人がロシアヘ密航を企てました。掛川藩士で橘耕斎という人物でした。この橘耕斎は、氏素性や任務等がはっきりしない謎の多い人物であったとされます。
 
橘耕斎像 1944年『日露交渉史話』より
 
 耕斎は、ヘダ号建造中に戸田村に潜入し、ロシア人と交流し、ロシア語や風習等を盛んに身につけようとしていました。その時、親交のあった通訳ゴシケヴィッチの手引きで密航に成功したといわれます。ロシアに渡った耕斎はゴシケヴィッチと共に『和露通言比考』という日本語とロシア語の辞典を編纂(へんさん)しました。これは、最初の日露対訳辞典で、収録語は、一万数千点以上といわれ、言葉は片仮名で、イロハ順に書かれており、それにロシア語を付しています。
 ロシアに渡った耕斎は、洗礼(せんれい)を受け、ウラジミール・イオシビッチ・ヤマトノフと名乗り、ロシア人と結婚し、2人の子供をもうけました。アジア局の通訳官として、アメリカやインドにも派遣されました。
 
『和露通言比考』
早稲田大学図書館蔵
 
 その後、欧米派遣大使としてロシアを訪問した岩倉具視(ともみ)と面会し帰国を勧められ、明治7年(1874)に日本に帰国しました。帰国した耕斎は仏門に入り、増田甲斎(こうさい)と改め、明治政府の仕事に従事し、65歳で亡くなりました。
 
もう一人の密航者 吉田松陰(しょういん)
 幕末、橘耕斎と吉田松陰は外国への密航を企てました。一方は成功、一方は失敗というあまりにも対照的な運命を辿り(たどり)ました。
 松陰は、安政元年アメリカ使節、ペリー提督の二度目の日本来航の時に、門人金子重輔(じゅうすけ)と共に外国への密航を企てました。松陰は、この時25歳であったといわれます。しかし、企ては失敗し、国禁を犯した罪で、獄へつながれてしまいました。「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)」という歌は、この時の松陰の感慨を示すものでした。松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、明治維新に影響を及ぼしたたくさんの門人を育てました。安政の大獄(たいごく)に連座(れんざ)して、死刑に処せられました。


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