(3)造船作業
牛ヶ洞の造船碑
造船場所としては、海底の傾斜度、地質、西風に対する位置、宿舎との距離などが検討された結果、「牛ヶ洞(うしがほら)」に決められました。造船の設計図は造船御用掛の太田亀三郎宅で行われ、設計図の完成には、約55日を要したと言われます。
造船用資材は、銅延板(どうのべいた)、銅棒、鋲(びょう)、地鉄(ぢてつ)、釘などが江戸から送られ、木材は、近辺の樟(くすのき)や松が調達されました。そして、沼津の千本松原の松も使われました。『江川坦庵全集』には、「駿東郡大諏訪(おおずわ)村、今沢村、原宿、大塚村、一本松新田、助平衛新田、植田新田の御林(幕府直轄林(ちょっかつりん))から、長さ一間から五間、目通り3尺5寸より7尺までの松を130本を切り出し、戸田へ送った」という書状が記述されています。切り出された松は、狩野川口より船で戸田へ運搬されました。
ヘダ号設計図
材料の調達や大工の召集等、洋式船を造る苦労はいろいろありましたが、その他に、言葉が通じないことも作業を進めていく上で、大きな障害となりました。しかし、通訳を介し、または身振り手振りで、ロシア人の指示や指導に従い、次第に造船をする仕事に慣れ、技術も上達していきました。また、ロシアとの寸法の違いにも戸惑い、設計図にも、総長81尺1寸、肋骨心距中央部1尺7寸5分など端数(はすう)が書かれており、苦労の跡が分かります。そして、今まで手がけたことのない洋式船の建造というやや勝手の違う仕事にも、日本の大工道具である鋸、鉋(かんな)、のみ、さしがねなどを上手く使いこなして、作業を進めていきました。当時の様子が、「日本当局はいくつかの道具を近くの沼津と江戸で作らせ、腕利き(うできき)の鍛冶工(かじこう)や大工をスクーナーの建造に送ってきた。日本人は当初25人から30人であったが、その後、約60人になった。鍛冶工や特に、大工は優秀な職人たちでした。彼等はゆっくり仕事をしたが、ロシア人の指示をきわめて正確に守って、すべてを丹念にこしらえあげた。ムシン・プーシキンとヨルキンをはじめとするロシア水兵が中心となって活動した。かれ等は日本人に帆の縫いかた、骨材の作り方と組み方、その他を教えた」とE・ファインベルグ著『ロシアと日本人』に記述されています。
のこぎり
墨壷
裃
造船の順序として、大体、次の通りでした。(『ヘダ号の建造』より)
(1)船台の構築(こうちく)・据付け
(2)船台に竜骨を置き、これを固定する
(3)竜骨に船尾材と船首材を取り付ける
(4)肋材(ろくざい)を取り付ける
(5)補助やぐらを組んで船の梁(はり)を固定する
(6)固定された船首材・肋材(船体)に外板を張る
(7)船首に鉄材をつけ、吃水部(きつすいぶ)を銅板で包む
(8)甲板を張り、外装を施す
覚(魯西亜船建造用鉄物鍛冶職人賃金請取証文)
(財)江川文庫
ヘダ号建造に掛かった費用の受取り証文です。 |
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