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第四章 ヘダ号の建造
1 代艦を建造
 ディアナ号が沈没して、ロシアヘ帰る船を失ったプチャーチンは代艦建造の申出書を作成し、安政元年(1855)12月5日に幕府に願い出ました。攘夷(じょうい)か開国かの国論やクリミヤ戦争中であるという国際情勢もあり、幕府はこの申し出に対して、その対応に苦慮しました。川路の宿舎である蓮台寺(れんだいじ)村広台寺(こうだいじ)において、討議を重ね、その結果「プチャーチンは我が国にロシアの使節として来ている故、その要請を入れて、建造する場所を提供することは、国際信義の上から当然のことであり、また、それは戦艦でなく、帰国のための船であるから、この際、その申出を許可するのが至当である」として、12月7日代艦建造を許可しました。
 代艦の建造場所について戸田と下田の二案があり、どちらにするか、協議を重ねました。最終的には、下田奉行の意見が採り入れられ、建造場所として戸田に決定しました。それと同時に、韮山代官江川太郎左衛門を建造取締役(けんぞうとりしまりやく)に指名し、食料や薪水の供給をはじめ、建造一切の監視、取り締まりを命じました。
 
江川英龍肖像画(複製)
(財)江川文庫蔵
 
 江川太郎左衛門は、享和(きょうわ)元年(1801)伊豆国韮山に生まれました。剣術や馬術、蘭学、さらに西洋砲術まで学びました。天保6年(1835)、代官職を継ぎました。英龍(ひでたつ)を名乗り、号は坦庵(たんあん)としました。韮山代官の支配地は、武蔵、相模(さがみ)、伊豆、駿河の広範囲に及びました。日本の近代化に向けて進歩的な考え方をし、老中阿部正弘に推挙され、幕府の海防掛となりました。主な業績としては、・種痘(しゅとう)を広める・韮山反射炉の建造・品川台場(だいば)築造の監督・農兵(のうへい)策の建議と実行・パンの製造等があげられます。
 
江川邸
 
2 ヘダ号の建造
(1)戸田村の様子
 
宝泉寺 プチャーチンの宿舎となった寺
 
本善寺 乗組員の宿泊場所となった寺
 
 ディアナ号を修理するはずの戸田で代艦を建造することになりました。戸田村においては、その準備を進めました。プチャーチンや士官の宿舎として宝泉寺(ほうせんじ)や本善寺が充てられました。その他の乗組員には、本善寺の近くに長屋四棟を新築し、そこに住まわせるようにしました。ここで、帰国までのおよそ半年にわたるプチャーチンや乗組員たちの生活が始まったのです。『ディアナ航海誌』には、「十二日には、私たちは、民衆や町の顔役、幕府の役人たちが集まっている戸田に儀式の秩序に従って入った。私たちに対する出迎えはものものしく、丁重(ていちょう)で愛想(あいそ)のよい心のこもったものであった。平常のお辞儀の後で、ロシア流のあいさつが交わされた。「どうぞ」「ようこそ」「ご機嫌よう」――私たちは所定の宿舎に案内された。私たちはここで、下級の乗組員のために新築された家を見た。プチャーチン中将以下士官全員は、かつては神社か寺であった大きな特別の家に案内された。本尊は持ち出され、床には清潔な畳が敷いてあって、所々にいろいろな食糧が配置されていた。」と記述されています。
 こうして、伊豆の一漁村であった戸田村は、住民約3000人に加え、ロシア人およそ500人、幕府の役人、さらに、造船のための大工や人夫などを入れると膨大な人数になり、混雑を極めたといわれます。
 戸田村の警備も厳重に行われ、村内字入浜(いりはま)、字小山田、修善寺越え、真城(さなぎ)越え、小土肥(おどい)越え、井田(いた)越えの六か所へ見張りの番所を設置し、外部からの侵入やロシア人の逃亡、日本人との交際等を取り締まりました。『下田日記』には、「戸田という所へ、異人五百人を引寄せ候積りに成る。戸田ならば、二十町より外へ出ることならぬ要害の地故、よろし」と記述され、戸田が警護上ふさわしいことが分かります。また、「三日のうちに五百人の居所、其外食物、酒、タバコ等にいたる迄差支無き候にいたしたり」とも記述されて、宿舎や食料の手配などに万全の準備が為されていたことが分かります。
(2)造船に関わった人々
 造船に携わった者は、幕府側では、勘定奉行水野筑後守、同川路左衛門尉、戸田が支配地である沼津藩や小笠原氏から派遣された役人、さらに、韮山代官江川太郎左衛門等が中心となりました。仮奉行所は勝呂弥三兵衛(すぐろやさべえ)宅に置かれました。
 
仮奉行所跡(勝呂弥三兵衛宅)
 
 戸田村において材料の調達や人足の手配等にあたる造船御用掛には、斎藤周助、勝呂弥三兵衛、松城兵作(まつしろひょうさく)、太田亀三郎、斎藤雅助(まさすけ)、辻平兵衛、服部三左衛門、山田平左衛門ら8名が選ばれました。また、造船世話掛には、上田寅吉(とらきち)、緒明嘉吉(おあけかきち)、石原藤蔵(とうぞう)、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉(とうきち)らの船大工棟梁(とうりょう)7名が選ばれ、他村からの大工と共に建造に携わりました。


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