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3 条約の批准(ひじゅん)と通商条約の締結
 安政2年(1855)、ロシア皇帝から先に調印した日露和親条約を許諾(きょだく)したという書面が幕府に渡されました。そして、翌年にポシェット全権らが下田に来航し、11月10日、下田奉行との間に条約の批准書が交換されました。この時に、戸田での建造船の代船返却とディアナ号の大砲の贈呈式が行われました。
 安政4年(1857)、プチャーチンは通商条約の締結を要求して長崎に来航し、長崎奉行らと交渉を行い、日露追加条約が締結されました。そして、翌年再び来航して交渉を進め、日露和親通商条約17カ条と貿易章程六則が調印されました。
 
『魯西亜國條約並税則』(関家文書)
当館蔵
 
 この『魯西亜國條約並税則』は、富士市中里の関家(関家は、5代にわたり医術を業としました。医学書や俳諧関係の文書が多く残されています。)に伝わるもので、木版印刷で、通商条約の内容と思われる内容が記されています。「帝国大日本大君と全魯西亜帝と懇親を厚うし及び両国人民貿易え規則を立て永久の基とし」で始まり、下田、長崎の他に神奈川、兵庫などの開港の期限やロシア人の日本での行動範囲、輸出入の取り決め、両国貨幣の取り扱い、裁判権、最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)等について書かれています。
 
4 川路聖謨とプチャーチン
 条約の交渉そして、締結がスムーズに行ったのは、プチャーチンが、ディアナ号沈没以来、日本人の手厚い行為に心を動かされたためといわれています。また、川路聖謨とプチャーチンとの互いの人間関係も大きな要因であったともされています。互いに相手の人間性を理解し、深い敬愛(けいあい)の念を抱き、信頼感をもちながら交渉に臨んだからです。
 
プチャーチン像
奈木盛雄氏蔵
 
川路聖謨像
東京大学資料編纂所蔵
 
〈川路聖謨〉
 享和元年(1801)豊後国日田にて、内藤吉兵衛の長男として生まれる。幼名は弥吉、後、聖謨を名乗る。江戸に移住し、川路三左衛門の養子となる。幕府の役人として、佐渡奉行、小普請奉行、海防掛等を歴任する。プチャーチンとの来航時、日本側の全権委員となり、条約をまとめる。
 
川路聖謨のプチャーチン評
○「今般参候魯人名前使節プチャーチン(布恬廷と記す)この人第一の人にて、眼差しただならず。よほどのものなり」(『長崎日記』 1月2日)
○再びおもえば、魯戎(ろじゅう)の布恬廷(プチャーチン)は、国を去ること既に十一年(航海三十年におよぶといいいき)家を隔つること一万里余、海濤(かいとう)の上を住家として (略) 今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たび、四たび日本へ来りて、国境のことを争い、この十一月四日をはじめにて、一たびつなみに逢い、再び神のいぶきに挫れて(とりひしがれて)、鑑は深く千尋(ちひろ)の海底に沈みたり。されど、少も気おくれせず、再びこの地にて小船をつくり、漢土の定海県へやりて、大艦を求めんことをいいて、其日より其ことを落なく書記して出し、其いとまに両国の条約を定めんことを乞いぬ。常には布廷奴(ふていやつ)などといいて、罵りはすれど、よくおもえば、日本の幕府、万衆のうちより御謄(登)用(ごとうよう)ありて、かく御用いある左衛門尉などの労苦に、十倍とやいわん、百倍とやいわん、実に左衛門尉などに引競ぶ(ひきくらぶ)れば、真の豪傑也。其豪傑を、朝な夕なに見し、聞きもしながら、少しも知らぬとは何事ぞや(下田日記 12月8日)
○「下田長楽寺にて、布恬廷と応接いたす。今朝、バッテイラに乗り、魯人八十人、俄に来る。これはフランス人参り候を承り候て、右の船を乗取り候積りの由。出帆を承り殊の外残念がり申し候。 (略) 布恬廷は、いかにも豪傑なり」(『下田日記』 12月14日)
 
プチャーチンの川路評
 「全権団筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、われわれに対する丁重さと慎重さにおいて、教養あるヨーロッパ人とほんど変わらない。ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物たり得るであろう(『プチャーチンの上奏報告書』)
 
ゴンチャロフの川路評
 「この川路を私達は皆好いていその知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳にはゆかなかった。その一語一語、眼差し(まなざし)の一つ一つが、そして身振りまでが、全て常識とウイットと烱眼(けいがん)と練達(れんたつ)を示していた(『日本渡航記』)」


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