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2 日露和親条約の締結
長楽寺
この寺で日露和親条約が締結されました。
 
(1)条約締結の様子
 下田において、五回の会談を経て、安政元年12月21日(1855年2月7日)、下田長楽寺において、筒井政憲、川路聖謨とプチャーチンとの間に日露和親条約が締結されました。
 この条約締結の様子を、川路は『下田日記』で、「きょうは、日本、魯西亜永世の会盟とも申すべきわけにて、書面の取替せ有り。着服は、御紋附の羽織、蜀江かたの野袴、花山桃林のまき絵太刀作の大小、これを用ふ。 (略) 条約書取替せ候。書面本書はかな書き、添書は漢文・横文也。横文を双方の通詞これを読み、取替せ候」と記述しています。そして、日記の終わりに、「今夜はじめてよく寝申し候」と書いてあり、条約を締結することができた川路の安堵感(あんどかん)を綴ってあります。
 
ペリーとプチャーチンの外交のやり方
 ペリーは、恫喝(どうかつ)と威嚇(いかく)こそ東洋人相手には有効だと思い、その方法で、来航や交渉の場面において強硬に振る舞いました。ペリーは来航する時、四隻の艦隊を引き連れて、いきなり江戸湾に突入して、幕府や人々を驚かせました。
 これに対し、プチャーチンは対日折衝(せっしょう)においては、できるだけ友好的にという訓令(くんれい)通りに最後まで行動しました。途中、安政の地震に遭遇、ディアナ号の沈没という事態にも、沈着(ちんちゃく)、冷静に対処し、日本側とも信頼関係を保ちながら、交渉を行いました。
 
(2)条約の内容
 
『日露和親条約写』(三条家文書)
国立国会図書館蔵
京都三条家は、当時朝廷と幕府が折衝する武家伝奏の職にありました。
 
『魯西亜国人日本属嶌渉海嶋改正絵図』
(財)江川文庫蔵
日本や北辺諸島が描かれています。
 
〈日本国魯西亜国和親条約〉
 魯西亜国と日本国と、今より後、懇切にして無事ならんことを欲して、条約を定めんが為の、魯西亜ケイヅルは、全権アヂュダント・ゼネラール、フィース・アドミラール・エフィミュス・プチャーチンを差越し、日本大君は重臣筒井肥前守・川路左衛門尉に任して、左の条々を定む
第一条 今より後、両国末永く真実懇にして、各其所領に於て、互に保護し、人命は勿論什物(じもつ)に於ても損害なかるべし
第二条 今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫(それ)より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来(しきたり)の通たるべし
第三条 日本政府、魯西亜船の為に、箱館、下田、長崎の三港を開く。今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食糧、欠乏の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、金銀銭を以て報ひ(むくひ)、若(もし)金銀乏敷(とぼしき)時は、品物にて償うべし。魯西亜の船難破にあらざれば、此港の外、決て日本他港に至ることなし。尤(もっとも)難破船につき諸費あらば、右三港の内にて是を償べし
第四条 難船、漂民は両国互に扶助を加へ、漂民はゆるしたる港に送るべし。尤滞在中是を待こと緩優(かんゆう)なりといえども、国の正法をまもるべし
第五条 魯西亜船下田、箱館へ渡来の時、金銀品物を以て、入用の品物を弁ずる事をゆるす
第六条 若止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館、下田の内一港に官吏を差置べし
第七条 若評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考し取計ふべし
第八条 魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是を待事緩慢にして、禁固(きんこ)することなし。然れども、若法を犯すものあらば、是を取押へ処置するに、各其本国の法度を以てすべし
第九条 両国近隣の故を以て、日本にて向後他国へ免す処の諸件は、同時に魯西亜人にも差免す(ゆるす)べし
 
右条約
魯西亜ケイヅルと日本大君と、又は別紙に記す如く取極め、今より九箇月の後に至りて、都合次第下田に於て取替えすべし。是によりて、両国の全権互に名判致し、条約中の事件是を守り、双方聊(いささか)違変あることなし。
安政元年十二月廿一日(千八百五十五年一月廿六日)
筒井肥前守
川路左衛門尉
エウヒミウス・プチャーチン
カヒテイン・ポススエット
 
 しかし、条約締結後も、玉泉寺の米人滞留やキリスト教の伝導、さらに、領事駐在等、いくつかの問題が残り、戸田の大行寺(だいぎょうじ)で交渉を行いました。特に、条約の第六条の領事の駐留については、老中阿部正弘から、幕府としては、受け入れることはできないので早く撤回(てっかい)せよ、との命令がありました。プチャーチンは条約の修正に応じず、川路は苦慮(くりょ)しました。川路は、自分の生死にも関わると、覚悟のほどを示すと、プチャーチンも川路の心中を察して譲歩をし、領事派遣については、事前に協議するとの回答をしました。
 条約を作成するに当たって、言葉が直接伝わらないため、苦労をしたといわれます。日本とロシアには、それぞれ蘭語(らんご)(オランダ語)の分かる通訳がいるということで、蘭語をはさんで、日本語とロシア語の三カ国語で行われました。通訳には、日本側は森山栄之助、ロシア側はポシェットがあたりました。
 
大行寺
条約の再度交渉の場となった寺です。


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