第三章 日露和親条約の締結
日本との交渉を求めるロシアの使節としては、プチャーチンは三人目の使節となります。
一人目は、寛政4年(1792)に北海道の根室に来航したアダム・ラックスマンです。二人目は、文化元年(1804)、長崎に来航したニコライ・レザーノフです。しかし、いずれも交渉は不成立に終わりました。それから、50年近い空白期間を経て、プチャーチンが任命されたのです。
(1)長崎での交渉
幕府は、ロシアとの交渉役に、大目付(おおめつけ)筒井肥前守、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)川路聖謨を任命しました。交渉の進め方や内容について、老中阿部正弘から開国、通商の件はなるべく引き延ばし、また、北方の境界の設定は、樺太(からふと)島においては、北緯50度の地を分界とし、またウルップ島をもなるべく日本の領土とするようにとの命令を受けました。
筒井、川路らの全権団は、江戸から約40日ほどかかり長崎に着きました。長崎に着いた全権団は、早速、プチャーチン使節一行と長崎西役所で会い、儀礼(ぎれい)を交換しました。そして、パルラダ号へ行き、答礼訪問も行いました。第一回目の会談は、嘉永6年(1854)12月20日に始まり、6回にわたって行われました。嘉永7年(1854)1月2日には、条約の草案が示されました。第一条は修好(しゅうこう)の概要、第二条は国境の確定、第三条は開港、貿易、漂民救助、第四条は居留地(きょりゅうち)設立、信教の自由、第五条は貿易章程(しょうてい)の判定及び阿片(あへん)売買の厳禁、第六条は領事の派遣、第七条は領事裁判即ち治外法権(ちがいほうけん)の設定、第八条は最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)の設定等です。しかし、樺太の境界、開港場所等いくつかの問題で一致せず、妥結までには至りませんでした。その後、条約交渉とは別にクリミヤ戦争の状況もあり、プチャーチンは交渉を中断して、長崎を出港しました。その後再び長崎に来航し、覚書(おぼえがき)を長崎奉行に送り、条約の締結を江戸で行いたいと申し入れた後、ロシア領沿海州へ向かいました。
『魯西亜使節應接図』
早稲田大学図書館蔵
長崎にて幕府側とロシア使節の応対の様子。幕府代表の筒井政憲ら4名が台座に着座し、プチャーチンら4名は艦から持参した椅子に座って対座する様子が描かれています。 |
(2)下田での交渉
幕府は、ロシア側との交渉に、大目付筒井政憲、勘定奉行川路聖謨を交渉役に、下田奉行伊沢美作守、目付松本十郎兵衛、勘定吟味役(ぎんみやく)村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)、勘定留守役中村為弥、儒者(じゅしゃ)古賀謹一郎らを下田におけるロシア応接掛(おうせつかかり)としました。
条約交渉の日本側全権(モジャイスキー画)
プチャーチン(中央右)と幕僚たち
『露艦建造図巻』
第一回の会談は、嘉永7年(1854)11月3日に福泉寺で行われました。会談の主な内容は、開港の場所、国境確定問題、領事(りょうじ)駐在問題等でした。一回目の会談以降、安政の大地震、そして、ディアナ号の修理問題等により中断されたが、代船建造問題に見通しがもたらされると、11月13日、玉泉寺において第二回目の会談が開かれました。しかし、双方の主張が一致せず、折衝は難航しました。引き続き14日に第三回目の会談が行われました。その後、ディアナ号の代船建造問題等に見通しがつくと、安政元年(1855)12月14日、長楽寺で第四回目の会談が行われました。次いで、15日に第五回目の会談が行われ、懸案(けんあん)事項の合意がなされました。交渉の経緯については、下記の通りです。
第一回会談
・日米和親条約の締結。日露間にも条約の早期締結を希望する旨を伝える。
・通商開始に同意するならば、エトロフ島の日本領土を認め、カラフトについても譲歩する用意があることを伝える
・開港場として、箱館と大坂を指定。代港として兵庫、浜松を希望。幕府は了承せず後日折衝となる
第二回会談
・カラフトの所属問題
・11ヶ条の条約のうち、6ヶ条の審議
開港場及び欠乏品の代料支払いとその購入方法
開港場に領事官を駐在させる
(ディアナ号の修理場所)
第三回会談
・領事裁判権の施行、及び最恵国待遇に関する問題
・下田の代港問題
・領事官駐在問題
第四回会談
・日露国境と領事官駐在
・千島の国境問題
『魯西亜来航評議書類』
(財)江川文庫蔵
プチャーチンが露国の使節として重任にあたる旨が書かれています。 |
『丑十二月廿日対話』
(財)江川文庫蔵
川路左衛門尉とプチャーチンの条約交渉のやりとりが記録されています。 |
第五回会談
・日露和親条約全体の検討
・領事官問題
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