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7 乗組員、戸田へ
 宮島村に上陸した乗組員のその後の処遇について、川路らは、「戸田という所の異人、五百人を引よせ候積りに成る。原宿のつぶれ申さず候を見候て、此所に住居の義強てこれを申す。当惑せり。戸田ならば、二十町より外へ出ることならぬ要害の地故、よろし」と『下田日記』に書かれているように、戸田は警固の上から適地であるとして、戸田に移送することに決めました。ディアナ号の乗組員たちは、地震の被害があまり無かった原宿に住むことを希望しましたが、聞き入れられませんでした。戸田へは、2班に分かれて、12月6日と7日の両日に渡って、宮島村を出発しました。プチャーチンは、先発隊として出発し、原宿で休み、江之浦に宿泊して、海岸線を通り古宇(こう)から山道を登り、真城峠(さなぎとうげ)を通って戸田に到着しました。道中の警護には沼津藩士があたりました。そして、食料については、沿道の所々の村から玉子や薩摩芋(さつまいも)等が用意されました。宮島村から戸田までは2日間の行程でしたが、1日目の昼食場所として、原宿の渡辺本陣や昌原寺、2日目は木負(きしょう)の満蔵寺(まんぞうじ)があてられました。宿泊場所としては、江之浦の照江寺があてられました。『原宿植松家日記』には、「当所(原)昼休ニて本陣壱軒、昌源(原)寺壱ケ寺江休み」と書かれ、光明寺の『潮来舎(ちょうらいしゃ)砂明追善文(しゃめいついぜんぶん)』には「余も道案内して木負のさとの満蔵精舎(満蔵寺)に至り、官吏并異人へ午飯を調ひ」と記述されています。
 
昌原寺(ロシア人一行1日目の昼食場所)
 
渡邊本陣跡(プチャーチン等の1日目昼食場所)
 
照江寺(プチャーチン等の宿泊場所)
 
満蔵寺(ロシア人一行の2日目の昼食場所)
 
 戸田までの行進の様子について、『ディアナ号航海誌』には、「日本人たちは、病人をきれいな、揺れない箱のような乗物に乗せて運んでくれた。この箱は細い板でつくられていて、両側に窓が取り付けてあった。内側は清潔で美しく整えられている。そこには、柔らかい座蒲団(ざぶとん)、暖かい掛蒲団、その他の備品があって、座っても横になってもこの箱の中はきわめて快適であるが、何よりも重要なのは揺れないことである。この行進用の駕籠(かご)は、日本で見た物のうちで興味があった。私たちは二日かかって約五十露里(約53キロメートル)進んだ。町や村がつぎつぎに現われ、私たちはそこで休息をとった。一部の日本人は後からついて来たが、大多数の人々は私たちの通る沿道に好奇心をもって集まって来た。彼らは敬意を表して平伏したり、習慣通り頭を下げ、膝を折って歓迎したりした。休息所では、あるだけの食物で丁重にもてなしてくれた。」と、興味深く日本の風習や日本人を観察しています。特に、駕籠については強く関心をもったようです。
 『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』には、「総躰の様子凡長ケ高くして痩たり中に肉あるも見ゆ。色白く眼ハ蘭人のごとし。鼻高く言語は普通なれ共音声西国のものに似たり。ものいふ時頗り(すこぶり)に手まねする事多し。至て早く髪の大方赤鼠色(あかねずみいろ)薄黒きもあり、又白赤なるものもあり毛長きもあり多くは短し髪なきもあり多くはあり踵(きびす)なくして歩行にはやあし也。日本語を使うもの両三人あり」と、今度は、山崎継述が日本人の目を通して、ロシア人を観察しています。この山崎継述は、沼津藩士で、水野忠良公に仕え、祐筆(ゆうひつ)、馬廻り役を勤めたと言われます。描画に優れ、谷文晁(ぶんちょう)の直弟子であったということです。この地震之記には、ロシア水兵や地震の様子などが十六図描かれています。
 
『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳夷船漂流話』
 
 
 
山崎英彦氏蔵
提供 静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター
マントのような物を羽織ったプチャーチンやキセルをくわえた姿、運ばれる病人の姿、寝ころがる姿などロシア人一行の様子が描かれています。


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