カ 『渡邊利左衛門守亮 嘉永七寅年日記』
(十月)十二日 曇 午時前頃、異国船壱艘沖ヲ東へ通ル。三保の岬の真中少々内海へ入りて、真東を向て走ル、ナラヒ風也、ナラヒヘ向て行、三枚帆ニて船先へ布の目印ヲ立、大サ小山の如し、夕方迄見へて外海へ出ル
『渡邊利左衛門守亮 嘉永七寅年日記』
渡邊俊介氏蔵
蒲原で問屋職や富士・庵原両郡の郡中惣代などを歴任した「木屋」渡邊家に伝わる利左衛門の日記です。 |
十三日 小雨 朝四ッ時頃、異国船壱艘内海へ見ゆる、岬より内四五里も山へ添ふて内ノ方也 今日は曇天故ニ遠目がねも届かず、慥ニ(たしかニ)ハわからず須臾(しゅゆ)ニ外海へ出ル
(十一月)五日 晴天 豆州下田極難の由也、此節下田ニロシア舩滞泊ス、無難(ぶなん)の由也
廿七日 晴 昨夕方異国船一艘、長五十間位帆柱三本、此内海へ入、今朝払暁ドブ川磯辺へ掛リ、追々磯伝へ東へ行、五貫島村磯へ掛ル、阿らク山へ登りて数十人ニて見ル、此異舷下田湊へ掛リ居て、此度の大地震ニて大破ニ及、此海へ飄流シ来ル由也、原駅の西一本松辺へ異国人ヲ乗タル我国の舟着、異人共十五六人上陸セシ由也
廿九日 晴 ロシア船五貫島滞留、今日異国人共三百人上陸、同村仮住居
(十二月)二日 晴 此節五貫島村滞泊のロシア船、異人ハ三百人、同村へ泊り、痛ミ船へ異人少々乗船、破損ヲ普請の為、今日同村より倉沢迄の猟船(りょうせん)数百艘ニて異船ヲ引キ、同村ヲ引出ス、我等ハアラク山へ登り眼下ニ見ル、順風ニ引出シ由々敷(ゆゆしき)有様也、然る処、申刻頃俄ニ大浪起り、日本船ハ残ラズ東西へ逃帰ル、異船大浪ニコラヘズ難船致シ、帆柱三本北の方へ倒ル、大浪敗舟へ打付ル、大難船ニ成、我等ハ山より下ニ見ル、神風威光(かみかぜいこう)、可恐事也ト萬人大悦(よろこび)ス
三日 晴 五貫嶋村滞留のロシア人、昨日空舟(からぶね)海上へ引出ス時、諸荷物凡六町程の間へ種々珍器、積ミ上ケ、磯辺春花如よし、此異人漢字ヲ解セズ、アメリカ語ハ少々通ズル由咄(はなし)有之
キ 『年代記話博』
ヲラシア舩の義は翌二十六日朝新浜村三軒家浦に漂着仕り侯、碇(いかり)を卸し相繋ぎ(つなぎ)申し侯、人々あやしみ不審に思い段々様子承り申し候所全く修覆に来り候船にて方角を失いよんどころなく彼の地漂着の由 夫より見物の男女夥しき(おびただしき)事に御座候 此の段御地頭所へ御注進申し上げ候に付き、一番に韮山御代官江川太郎左衛門様御手代元締(もとじめ)脇中村清八様、駿府紺屋町(こんやちょう)御代官大草太郎左衛門御手代小倉慎吾様御出張成られ、其の外加島(かじま)近村御陣屋方何れも御出張成られ、一同御立会(おたちあい)御評議の上豆州戸田湊へ送り遣し申すべき積り取り極まり夫より村々え引き船仰せ付けられ、一同承知かしこまり奉り候 右ヲラシア船長さ四拾五間、唐人五百十六人乗り、唐人は残らず陸送りの積りにて、右は数百艘の漁船にて引き出す積り相成り申し候 当最寄の郷中にて、西倉沢村二艘、今宮六艘、町屋原村六艘、神沢村四艘、都合拾八艘乗り、夫より蒲原郷中東浦は豆州内浦迄引き役仰せ付けられ、十二月三日数百艘の漁船にて引き出し候所、凡そ三里余も引き出し候処、俄かに大雨風に相成り、引き船御役に御座候得共各々助命あやうく相成り候に付き、引き綱を解き左右へこぎにげ来り申し候 扨又唐船の義は津波の節に痛み候所より俄かに淦(あか)の道にて、水船に相成り間もなく水底に沈み跡形もなく空しく(むなしく)相成り申し候、陸に罷り居り候唐人共一同力を落とし候得ども、最早(もはや)致し方これなく誠に哀れなる次第なり
『年代記話傳』(由比町指定文化財)
由比町蔵
由比寺尾村の名主であった小池太三郎が天保15年から明治2年までの由比宿の出来事を中心に記録した物です。 |
ク 『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』
下田より同国戸田と云所に舶をうつせと命ありければ、十二月四日則舶出して戸田にうつらんとす。折から俄に西南の風暴しく吹出て、戸田に入る事を得ずして雄勢崎(おせざき)より駿河の国小州(おす)の湊に吹入らる、異船はもとより破損して艪楫もなく海上をのるになやミければ (略) 異舶(いはく)を下田へ引もどさんと我船(漁船也)二百艘を出して夷舶を小羽浜沖(小州はり二里程沖)までひき出したり、しかるに俄に西の暴風吹出ければ船人ども命をからうじてひき綱をきり皆逃退く (略) 異船(小羽浜沖よりもとの小州の湊へ吹もどす)悉く風波にくだかれ其夜のうちに檣も打れ水上の船錺り(ふねかざり)もミな破れて千本の浜にながれよる。遂に異舶ハ小州の沖合にしづミたり。或人曰是全く神風なるべし
『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』
山崎英彦氏蔵 23ページに記載
提供 静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター |
ケ 『原宿植松家日記』
(十一月)廿九日 新濱エ着船の異人上陸致し、積荷物等船中より引揚げ大混雑也、小田原よりも警護として物頭(ものがしら)弐人其外鉄炮(てっぽう)組人数も罷り(まかり)出、沼津よりも多人数出張大騒動ニ之有候 (略) 此夜御代官様ニも鮫島村エ御引越ニ相成申候
十二月大朔日 此日は新濱エ異船見物として次郎右衛門 (略) 小須湊渡船之処、夫より小須村始(はじめ)鮫島村ハ潰家多分ニ之有、誠ニ驚き入り候
二日 此日ハ日本人、異人一同ニて異船引出し候処、追々西風烈敷く(はげしく)吹出し、引船の分残ず引綱を切り、内浦辺エ逃去り、誠ニ危事ニて江之浦え乗入れ候処、異国船の義ハ柏原辺の沖合迄引し出候て、引船の綱切れ候と海中え沈ミ其侭見えず申候、異人も上官之分ハ孰れ(いずれ)も嘆息致され候得共、下官の者ハ平気也、夜大風吹き止まず快晴
『原宿植松家日記』
植松靖博氏蔵
原宿の年寄や名主等を勤めた植松家の当主が、社会、世相、政治、そして生活等について直接、間接に見聞したことを書き留めたもの。 |
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