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2 被害を受けたディアナ号
 津波を受けたディアナ号が、下田湾内を漂流する様子が、ゴンチャローフの『日本渡航記(終章二十年を経て)』では、「もっとも凄絶(せいぜつ)だったのは、海岸がたえず高く見えたり、低く見えたりする変化であった。あるときは、艦と水平になるかと思うと、すぐさま6サージェン(約13メートル)も高く上がった。甲板(かんぱん)に立っていたのでは、水面が上がるのやら、海底が動くのやら、てんで見当がつかなかった。艦は潮流のまにまに四方八方へ振り回され、近くの島の岸壁に接近して、あわや胡桃(くるみ)のように粉微塵(こなみじん)かと脅されるや、たちまち湾の真中へ投げ出されるという始末であった。やがて、急激な回転が始まった。報告書の記録では、30分間に何と42回転もしたのである。そしてついに干潮となり、艦は海底や自身の錨にぶつかって左右に傾き始めた。そして、最後に艦は傾斜したまま、しばらく動かなくなってしまった」のように記述され、ディアナ号が大きな損傷を受けたことがわかります。また、『ロシア海軍省の記録』には、「右舷の砲門が顛覆(てんぷく)して水兵ソボレフが下敷となって死亡し、下士官テレンチェフは足を挫折し、水兵ヴィクトロフは腰から下に裂傷(れっしょう)を受けた」と記述されており、乗組員1人死亡、2人が負傷と、乗組員にも被害が生じた事がわかります。船倉には、海水が溢れ、食糧も、軍用物資などもずぶぬれになってしまいました。何よりも艦にとって、致命的だったのは、竜骨の一部がもぎとられ、舵を失ってしまったことでした。古賀謹一郎の『西使続記』に「毎分一尺五寸宛も浸水しているのに、二十七人の水兵は鐘(かね)の合図で整然と交代しながら、ポンプ、滑車、革桶(かわおけ)で、浸水を汲み上げ、昼夜寸時も休まない。若しこれが我が国の船であったならばとっくに沈没していただろう」と書かれ、ディアナ号の乗組員が艦を守ろうと昼夜をわかたずに働いている様子が書かれています。
 
津波により被害を受けるディアナ号(右端)(モジャイスキー画)
ロシア中央海軍博物館蔵 提供下田市
 
 そして、艦の負担を軽くするために、積載してあった52門の大砲や荷物等も11月9日、全部陸へ揚げられました。なお、この大砲は、安政3年(1856)11月10日の日露和親条約の批准(ひじゅん)の時に、日本に寄贈されました。
 このディアナ号の遭難について、応接掛や下田奉行から、「一体此程の津波にて、彼の余程相損じ、ことにマキリカハラ(竜骨)九丈程の物打放れ、船中淦(あか)入り相成り居り、此上(このうえ)若し(もし)大風波これ有り候ては、とても凌ぎ難き(しのぎがたき)体に付、全く当座の凌ぎのため、船中重き荷物陸揚げいたし度き旨申聞け候間、当所此程(このほど)の災害に付、荷物陸揚げいたし候とも、番人等差出し候儀は相成り難く候間、右之処承知に候はば、海岸へ上げ置き候儀は、苦しからざる旨申聞け候処、大砲其外陸揚げいたし候儀に付、番人等には及ばざる旨申聞け候事。魯船痛所出来候以来、甚だ窮迫の体にて申聞候は、是迄は魯西亜使節之規格を立て居り候処、此程之体、全く漂流人同様に付、厚く御憐愍(ごれんびん)下され度き旨申聞け、右に付、何卒(なにとぞ)船修復出来之上は、帰国迄の食料として、麦米其外御送り下され度き旨申聞侯事」と老中にディアナ号の破損状況の報告を行い、さらに船の修理や食料の手配などの救済を申し出ました。
 ディアナ号遭難のニュースは外国の新聞に掲載されました。イラストレイテッド・ロンドン・ニュース1856年1月5日号に、ディアナ号が下田の大津波で被害を受け、沈没したことを伝える記事が掲載されました。ジャンク風の船に乗っている人、そして、ヤシのような木から、当時のヨーロッパの人の日本観が分かります。
 
イラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されたディアナ号の遭難記事
神奈川県立歴史博物館蔵
 
3 ディアナ号の修理地を戸田に決定
 プチャーチンは、条約交渉と共に津波のため大きな被害を受けたディアナ号を修理という問題をも抱え込みました。ディアナ号の修理地として、幕府は下田を候補地としましたが、プチャーチンは、また、いつ津波の害を受けるかもしれないということや、下田は交戦中の外国船に見つかり易いことなどを理由に断りました。幕府は新たに長津呂(ながつろ)(南伊豆町)、網代(あじろ)、稲取(いなとり)等を提案しましたが、ロシア側の了解は得られませんでした。ロシア側から別の伊豆の地を捜したいとの申し出があり、ロシア側と日本側役人が付き添い修理に適する場所を捜しました。
 戸田港の発見については、フレガート・ディアナ号の下田遭難に関する『ロシア海軍省の記録』によると、「日本の役人達と一緒に、フレガートで、二人の士官が派遣され、彼等は先ず伊豆半島の東岸を、次いで西岸を回航して、フレガートは十二月三十日に帰航、下田から三十五哩(マイル)隔てた西岸に全く閉ざされた且つ竜骨改修工事に好適な戸田と、別に戸田付近の安良里(あらり)を発見した」と書かれており、また、『下田日記』には、「異人に御目付・普請役を添えて遣したるに、那賀郡(なかぐん)戸田村というを見出したり。それは誰も知らず、勿論、図等には更になし。しかし、よく聞けば良港也。今まで人の知らぬ所也」と記述され、修理に適する港として、今まで、あまり知られていない戸田が発見されたことが記述されています。
 
戸田港全景写真
戸田村教育委員会蔵
 
 戸田が修理に適する条件として
1 巾着(きんちゃく)型の港で西風が激しい時でも、湾内は静かである。そして、修理するに十分の広さがある。
2 砂浜がある。修理するのに、艦を横倒しにして修理する方法が考えられていた。
3 ディアナ号が破損しているので、余り遠方への曳航は困難である。
さし
4 砂嘴(さし)上の浜が突き出ており、外部から発見されにくいので、交戦中のフランスやイギリスの目にふれにくい場所である、等があげられます。
 戸田が修理地として適していることを受けて、川路聖謨らは協議をし、嘉永7年(1855)11月23日、修理地として戸田港を決定し、老中に報告し、戸田をロシア側に利用させたいと願い出て、11月26日付で、その許可を得ました。
 
4 ディアナ号の漂流
(1)戸田に向けて出港
 修理地として決まった戸田に向けて、ディアナ号は出港することになりました。しかし、戸田港の出港は難航しました。初めは、11月24日に出港の予定でしたが、代用の舵がうまくきかず、取りやめになりました。翌25日は風が強く出港することができませんでした。そして、26日、風のおさまるのを待って、ディアナ号は戸田に向けて出港しました。『下田日記』には、「かじの補いに縄を下げ、夫へから樽(たる)を結び附けたるよし。大綱を以て船を巻き候由。この体にては、いかに思うとも、大洋は乗られぬべし」と書かれており、船体に綱で樽を結びつけて、浮かべることにより、船のバランスを保とうとする工夫をしましたが、とてもこの有様では、遠くへ航海できない様子が分かります。そして、「異船今辰(たつ)の刻(午前八時)出帆いたし候旨申来る」とも書かれており、風がおさまり、午前8時頃やっと出港できた報告が川路にあったことが記述されています。
(2)宮島沖に漂流
 下閏をやっと出港することができましたが、折からの風や波等の影響で海が大荒れになり、航行の自由を失っていたディアナ号は目指す戸田港に入れず、海上を漂流するようになってしまいました。
 漂流し、沈没するディアナ号の様子について、『プチャーチンの報告』(ロシア海軍雑誌モルスコイ・ズボルニク1855年7月号公式記事及び通達の部、231-243ページ)から抜粋すると、以下のようになります。
 
1月2日午前8時 穏やかな北風の下に、下田の港を出帆する
※ 日本型帆船も一緒に出発する(随伴船(ずいはんせん))
午後4時過ぎ 安良里港から7海里(約11キロメートル)の辺りを航行
午後8時 風が南西微西に変わり、激しくなり浪も大きくなる
漏水も増大する
午後10時頃 岸より10海里の所を航行
1月3日午前2時半 深さ20サージェン(約43メートル)の所で、帆を収め、両舷の錨を投入する
夜明け頃、富士山に面した砂浜の海岸から1ケーブル(約183メートル)の所に居る
第3の錨を投入する
※ 随伴船を砂浜に乗り上げさせる(沼津原一本松)
1月4日 風はおさまらず、船の漏水(ろうすい)も激しくなる
日没前、10人漕ぎの短艇(たんてい)に乗組員が乗り、集まっていた日本人に岸に引上げられる
6人を乗せたギグ(小舟)も岸に引上げられる
夜間、間断(かんだん)なくポンプを運転
1月5日 朝までに風が若干弱まる
乗組員がランチに乗って退艦する
午後4時までに乗組員の移動が終了
1月6日 風やうねりがおさまり始める
(15海里離れた戸田ヘフリゲートを曳航して引き込み、砂州の上の引上げるという日本人の提案を実地に移すことを考える)
1月7日 午前6時過ぎ、100隻程の小舟により、ディアナ号の曳航開始
3時間程で、フリゲートを5海里曳航、しかし、小舟が曳航を中止
フリゲートが顛覆(てんぷく)するのを視認する
※日付けはロシア暦
 
 同じく、ロシア側の記録として、『ディアナ号航海誌』では、「三十露里ほど航行して、夕方になると強い風が吹いてきた。風は進むに従っていよいよ強まり、大浪を立てて艦の漏水はひどくなった。不運に続く不運であった。舵の代わりに取り付けた棒は浪にへし折られ、艦は刻一刻と航行不能の状態に陥った。1月3日には、激浪は恐ろしい様相を呈し、私たちは宮嶋の沖に三本の錨を下ろして停船した。」と書かれています。
 日本側の記録としては、『年代記話傳』では、「ヲラシア船の儀は翌26日朝、新浜村、三四軒屋浦に漂着仕候碇(いかり)を卸し(おろし)、相繋ぎ(あいつなぎ)申し候」と書かれており、『田子浦村誌』では、「航行中連日の暴風怒涛(どとう)に遭ひ(昔時は冬季西風連日吹き荒らみたりし由)入港することを得ず。當村宮島字三四軒屋沖に来り坐州(ざす)して動かざるに至れり」と書かれており、『あだゆめ』には、「去廿七日、秋山主殿、杉浦主税地行所駿州富士郡宮島村沖に懸留り(かけどまり)候魯西亜船之儀」等、正確な地点はわかりませんが、漂流していたディアナ号は宮島村の沖合いで錨を下ろし停泊したことが記述されています。
 
『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』
山崎英彦氏蔵
提供 静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター
ディアナ号漂流の航跡が描かれています。
 
 『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』では、「戸田にうつらんとす折から俄に西南の風暴しく吹出て戸田に入る事を得ずして雄勢崎(おせざき)より駿河の国小須(おす)の湊に吹入らる異船はもとより破損して艪揖(ろかじ)もなく海上をのるになやミければ (略) 我船も大に破し原宿の海一本松と云所に漂着す (略) 異船悉く(ことごとく)風波にくだかれ其夜のうちに檣(はばしら)も打れ水上の船飾りもミな破れて千本の浜にながれよる遂に異舶ハ小州の沖合いにしづミたり」と書かれ田子浦の小須(おす)ノ沖合いで沈んだことが地図に描かれています。
(3)付添い船、一本松へ漂着
 出港したディアナ号と共に、幕府はディアナ号が航行中に難破した場合の救助用として、六百石積みの船を用意し、ディアナ号に付き添わせました。この船には、役人とロシア人が18名乗り、指揮は、エンクヴィスト大尉が取りました。付添い船については、『大日本古文書、幕末外國関係文書附録之三』には、「當十一月二十七日、夷国船並び御買い上に相成り候、六百石積廻船に夷人(いじん)乗り込み、下田港より戸田浦へ乗り廻し候(略)下田(綿屋)吉兵衛船」と書かれており、また、『年代記話傳』に、「道先案内として同道綿屋吉右衛門(わたやきちえもん)殿所持の大船にて」とされており、付添い船は、綿屋吉兵衛(もしくは、吉右衛門)所有の六百石積みの船であったことが分かります。そして、このような幕府の対応に、『ディアナ号航海誌』にマホフは「同情心のある日本人たちはこのときとても親切にしてくれて、艦が航行中に難破した場合の救助用として大きなボートを私たちにくれた」と感謝の気持ちを述べています。
 
『年代記話傳』
由比町蔵(由比町指定文化財)
綿屋吉右衛門所有の付添い船のことが記述されています。
 
 戸田に向かって航行していたディアナ号は、強い風と大浪のために舵もきかなくなり、航行不能になってしまいました。ディアナ号の付添い船も流されてしまい、27日夜、原の一本松に漂着し、大破してしまいました。この時の様子について、『嘉永七甲寅歳 地震之記 傳魯夷船漂流話』には、「夷船と我船と都合二艘にて渡海せしに我船(異人十五六人是に乗り組む)も大に破し、原宿の海邊一本松と云所に漂着す。夜戌(いぬ)刻頃のよし」と書かれています。相模国荻野山中領主大久保長門守(おおくぼながとみのかみ)は『露人漂着の件』として、「去月二十七日晩、原宿続江川太郎左衛門支配所一本松新田浜え、凡七八百石積位之国地船壱艘海岸え打揚候に付、浜辺之者早速駆付見届候之処、異国人計拾八人乗り来り、磯え揚り居、右船は直に到破船」と老中へ報告しています。そして、『プチャーチンの報告』には、「フリゲートに随伴していた、エンクヴィスト大尉が指揮していた日本型帆船では、風下の海岸の近くで、帆が裂けてしまい、それで、乗組員を救助するために、故意に、フリゲートからかなりの距離にわたって広がっている砂浜に舟を乗り上げさせ・・・」と、乗組員を救うために陸に乗り上げさせたと報告しています。また、『安政甲寅日記』には、「尤(もっとも)夷人怪我人多数に御座候由」とかかれており、漂着した船で、怪我人が出たことがわかります。また、下田奉行所から老中へは、「日本船にて異人二十人、駿州一本松へ上陸仕り候につき、手当申し付け置き、水野出羽守へ人数差し出し申すべき旨申し遣わし」と報告され、漂着した付添い船への対応を沼津藩に命じたことが分かります。


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