5 乗組員の救助
(1)地元民の救助活動
宮島沖に停泊したディアナ号は、時間の経過と共に、浸水が激しくなり、状況は悪化していきました。プチャーチンや乗組員は、この危機的な状況を打破すべく行動を開始しました。「神は勇気ある者を助くと2人の水兵が叫び、たちまち六丁櫂(かい)の漕艇(カッター)を海面に降ろした・・・。航行不能に陥ったフレガート艦を無事に海岸まで曳航するように、2名の士官某氏と6人の水夫は熱い祈りをこめて出発を祝福され、所定の時間に別れを告げた。彼らは、私たちのフレガート艦に結びつけた曳綱(ひきつな)の一端を握り締め、果敢にも決死的作業を開始したのである」と、『ディアナ号航海誌』に書かれているように、荒れ狂う海に乗り出したのです。海岸には、岸に向かっている小船を救おうと、地元民たちが体に綱をつけ、波打ち際で待ち構えていました。陸に近付いた小船を大勢の力で、再び船が沖へさらわれないように引き上げ、乗組員を救助したのです。
ディアナ号乗組員救助図
この様子をマホフ司祭長は、『ディアナ号航海誌』に、「私たちの運命を見守るべく、早朝から千人もの日本の男女が押しかけて来たのである。彼らは奇特にも束になって浜辺を走り回り、何やら気遣っているようであった。つまり、私たちのカッターや、無鉄砲な救助隊員のことを心配していたのだ!
日本人たちは、私たちがカッターを繰り出した意味をいち早く察して、激浪がカッターを岸へほうり出すに違いないと見て取り、綱に体を結びつけて身構えていた。そして、カッターが岸へ着くやいなやそれを捉え、潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、しっかりと支えてくれたのだ!
善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! この善男善女(ぜんなんぜんにょ)に永遠に幸あれ。末永く暮らし、そして銘記されよ・・・500人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人諸氏のものであることを! あなた方のおかげで唯今生き永らえている私たちは、1855年1月4日の出来事を肝に銘じて忘れないであろう!」と感謝の気持ちをもって書き綴ってあります。
『フレガート・ディアナ号航海誌』
国立国会図書館蔵
宮島村等の地元民の救助活動に対する感謝の言葉が記述されています。 |
そして、マホフは、救助された乗組員のために「毎日、町や村から大勢でやって来る日本人たち、わけても宮嶋村の住民たちはできるかぎりの援助をしてくれた。ある人々は大急ぎで囲いの納屋(なや)と日除けをつくって、私たちが悪天をさけられるようにしてくれた。また別の人々は上等のござや敷物、毛布や綿入れの着物、それにいろいろな履物(はきもの)を持って来た。米、酒、蜜柑(みかん)、魚、卵を持参した人もあった。何人かの日本人が、目の前で上衣を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷えこんで震えている水兵たちに与えたのは驚くべきことであった」と書き綴っています。プチャーチンも、「我々が上陸した付近の宮島村では、地震のために破損しなかった家は一軒も残っていない有様だったが、かれらの人間的心労のほどは、とうてい称賛し尽くしがたいものがあった」と、報告書の中で感謝の気持ちを述べています。
川成島の高野治己宅には、「安政の大地震により付近の家の井戸水が皆枯れてしまった。しかし、当家の井戸水は枯れなかったので、ディアナ号の乗組員がこの井戸に洗濯に来たり、飲み水にした。そのお礼に、斧とシャボン玉(石鹸)をもらった。プチャーチンには掛け時計を貰った」という話が伝わっています。斧には、ロシア語の刻印(こくいん)が打たれています。
また、柳島(やなぎしま)の深瀬(ふかせ)美重子氏宅には、やはり、乗組員から貰ったといわれる大皿が伝わっています。
斧
大皿
(2)江川代官等、幕府の対応
乗組員が、ディアナ号から上陸する様子やその救助、保護等については、上記の韮山代官江川太郎左衛門が川路左衛門尉にあてた書状によると、「昨、廿八日申し上げ候ヲロシア船の儀、秋山主悦殿(あきやまちから)知行所・駿州富士郡宮嶋村の内、字三軒屋浜より五六十間の方え掛け留まり、追々入淦(あか)相増し漕ぎ出し方行き届かず様子、海岸高波にてバッテイラ(カッター)着岸相成り難く候に着き、壱人づつ胴縄(どうなわ)を掛け水中え飛び入り、大勢大縄にて引き揚げ候義に御座候。今朝より夕方迄、フウチャーチン始め凡そ四百人程、右浜え上陸いたし候に付き、昨夜戸田浦・一本松新田え罷り越し候下田奉行手附出役、御普請役小人(こびと)目付打合せ、手代(てだい)共差し出し、取り敢えず食料手当て・小屋掛け等取り計らい、私儀最寄り内藤鍬之丞地行所鮫島迄、今夜出張り仕り候。最寄り寺院又ハ、人家え差し遣わし寒気相凌ぎさせ度く候處、地震に付き潰れ屋多く取り計らい兼ね申し候、且つ通詞(つうじ)堀達之助も唯今同村に着任候に付き、戸田浦差し廻し方其の外の義、明日フウチャーチン応接の上委細申し上げ候共、先ず此の段申し上げ度く、此の如く御座候」と記述されています。
一人ずつ体に綱を巻きつけて、海に飛び込んだ乗組員を陸上にいた大勢の地元民が助け上げたことや、早朝から夕方までにプチャーチンや乗組員が宮島村に上陸したことなどが分かります。さらに、江川太郎左衛門自身が鮫島まで出かけて行き、食料の手配や乗組員を収容するための小屋の設置を指示しています。また、宮島村は地震で潰れた家が多く、寒さも凌ぐこともできないので、戸田へ収容したい旨を書き送っています。
そして、川路も、衣類が濡れて寒さを防ぐこともままならない乗組員たちのために、「使節並びに上官のもの40人計りの衣類は羅紗、下官某は染モンパ等にて、衣類下され候」と、幕府に衣類などの救援物資を要求しています。また、沼津藩水野出羽守も原一本松に漂着した船やロシア人を警固する者を出しています。
このように、漂流するディアナ号や乗組員の救助や保護のために、幕府、韮山代官、水野藩等が組織的に動いたのです。
(1)ディアナ号の曳航と沈没
曳航されるディアナ号
浸水がひどく、沈没寸前のディアナ号を戸田に曳航(えいこう)するために、駿河湾沿岸の各村に対して、江川太郎左衛門や沼津藩が、船を出すよう指令を出しました。『下田日記』には、「魯船フレガットいよいよ水船(みずぶね)となりて、上川伝一郎、漁師、廻船等をあつめ(原と吉原の間の浜也)、戸田へ引き寄せ候積り、世話をやく始末(しまつ)申聞ける」と書かれています。これを受けて、「露艦漂流の状況を千本浜から望み見た沼津藩主水野出羽守は直ちに烽火(のろし)をあげて、付近の漁村に急ぎ救助船を出すように命じた。我入道(がにゅうどう)・桃郷(とうごう)・静浦・江の浦・三津方面から数百艘の小舟が折からの強い西風を犯してディアナ号に向かって漕ぎ出した(戸田村に於ける露艦建造)」、「ひき船百艘ばかり附けて(下田日記)」、「西倉沢二艘、今宿村六艘、町屋原(まちやはら)村六艘、神沢(かんざわ)村四艘、都合十八艘集り(年代記話傳)」のように、沿岸の村々では小船が出動しました。しかし、集まった船の数は数百艘、百艘、弐百艘、数十艘などの説があり、正確な数ははっきりしていません。
ディアナ号に数本の元綱が取り付けられ、さらに元綱から小船には枝綱が張られました。海上を吹き荒れていた風もおさまり、戸田に向かって曳航(えいこう)を開始しました。2000トンもある大きな船を小舟で引っ張っていこうというのです。各小船は船を漕ぎ出し、ディアナ号は3時間ほどかかり、やっと2里ほど進みました。しかし、突然、小船がディアナ号を引いていた綱を切り、四方八方へ逃げ散ってしまいました。これは、強風と激浪の襲来を早目に察知した船頭の尾身久蔵(おみきゅうぞう)が元綱を切ったのです。そのおかげで、小船は難を逃れることができたのです。その模様について、『下田日記』には、「二里ほど牽き(ひき)参りたるに、一朶(いちだ)の怪雲出て、船頭あやしとみる間に、俄に西の大風起りて、山のごとき立なみ来りて、フレガットの、城を水中に置きたるが如き船を、くるくると廻したり。其勢い、おそろしと申し候も大かたなり。よりて船頭共、みなひきぶねの綱を切りて、パッと散りて逃て」と、記述され、さらに、「フレガットは、二たび三たび、廻るがごとくみえたるに、横ざまになりて、深く水底へ没したり」と、沈没の様子も書いています。なお、ディアナ号の沈没の様子について、「猛烈な驟雨(しゅうう)が襲ってきて恐ろしい巨浪(きょろう)を巻き起し、私たちのフレガート艦を元の場所まで押し戻してしまった。艦はそこでクルクルと旋回し始め、挑みかかった激浪はたちまちにして艦を顛覆し去ったのである」(ディアナ号航海誌)、「ディアナ号は遂に船尾の大鷲の紋章を中空に上げながら、船首から海中に没していった(戸田村に於ける露艦建造)」等に書かれています。このようにして、戸田へ曳航の途中、海上が大荒れになり、ディアナ号は沈没してしまいました。
なお、ディアナ号の沈没した場所については、諸説がありますが不明です。昭和63年(1988)に、ディアナ号の探査が行われましたが、船体は発見できませんでした。
『ディアナ号航海日誌』(複写)
サンクトペテルブルグ海軍史料館蔵
1855年1月7日(ロシア暦)ディアナ号が沈没した様子が書かれた航海日誌です。 |
1月7日、ディアナ号が沈没した日のディアナ号の『航海日誌』には、「早朝、弱い北西からの微風。フリゲートは、シュラウド止金の下部のボルトの線まで沈下してしまっていた。午前9時過ぎ、多数の日本の小舟がフリゲートに向かって集まってきた。この時、提督は艦長とモジャイスキー大尉とシリング大尉、及び水兵15名を従えて、曳索を繰り出したり、左舷大錨のチェインケーブルを取り外したりするためフリゲートに飛び乗った。午後零時過ぎ、ようやく提督がこれらの士官達や艦長を伴ってフリゲートから退艦し、艦を修理(緩んだ所を締め直す)するために突出している港湾に入ると、全ての日本の小舟が、叫び声を上げながら、曳索を放り出し、急いで帆を揚げ、北東の入江の奥に向かって走り去ってしまった。我々の小舟も、直ぐさま嵐になるであろうと言う通訳の申し立てに応えて、同じようにした。事実、30分も経ないうちに、南西の風が吹き始め、大波が立ち始めた。夕方、我々の小舟は江の浦の入江に退避していたが、晩の6時、宮島から乗組員達は、フリゲートの艦尾が沈んでいく様を見ていた。提督がフリゲートに乗艦していた最後の時点では、浸水は最下甲板と砲甲板の間の3分の1の高さまで達していた。 バルチック艦隊航海師団 上級将校 エリキン少尉 レソフスキー海軍少佐」と記述されています。
『魯西亜船難破船漂着物に関する触書』
また、ディアナ号が沈没した時に、「豆州戸田村ニおいて修復御差し許し相成り候魯西亜船、今二日当浜沖ニおいて覆り(くつがえり)候伝え及び候間、船は勿論(もちろん)其の他流れ寄ル品引き上げ急ぎ所代官・領主・地頭へ相届けべき者也」という廻状(かいじょう)が江川韮山代官より各村々に出されました。沈没したディアナ号の船体や船よりの流出品があれば引き上げて、個人の所有にすることなく代官等へ届けなさいという達しです。
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