第二章 ディアナ号の遭難
(1)下田の被害
ディアナ号が、下田に来航し、第一回目の交渉が行われた翌日、嘉永7年(1854)11月4日、安政の地震が起こりました。地震の起きた時刻は、『下田日記』には、「支配向きと御用談いたし居りながら食事中、五ツ時過地震にて、壁破れ候」、また、『袖日記』には、「今朝五ツ半時大地震 大地割れ走る人皆ころぶ 家蔵倒れ、或ハねじる 土上へ登り下る」と記述されており、現在の時刻では、大体午前9時頃だと思われます。
安政の地震は、震源地が紀伊半島南部で、マグニチュードが推定で8.4でした。被害は九州から東北地方まで及ぶ大規模な地震でした。特に、沿岸部の津波による損害が大きかったといわれます。(この地震を安政の地震と呼ぶのは、これより間もない嘉永7年11月27日に改元して安政と年号を変えたことによります。嘉永7年が安政元年です)広範囲に渡った地震の被害の様子が、『諸国大地震大津波末代噺』に、すごろく仕立てで描かれており、「かん原吉原、丸やけ」の記述もみられます。
『諸国大地震大津波末代噺』
『裁頂物見舞其外扣』
下田市教育委員会蔵
地震による下田の被害状況が記録されています。 |
この地震により、下田は大きな被害を受けました。下田の惨状について、『伊勢町旧記』では、「家屋875軒のうち流失皆潰841軒。半潰水入30軒、流失皆潰土蔵173軒、半潰水入土蔵15軒。総人別3851人のうち、男53人、女46人計99人、人別外に23人、計122人流死。一家のこらず死絶えしもの6軒。港内にありし諸国廻船漁船の流失破損あり」、『大震津波ニ付 裁頂物(さいちょうぶつ)見舞(みまい)其外扣(そのほかひかえ)』では、「嘉永七寅十月一四日五ツ半頃、大地震之跡、津波ニ相成、町中不残流失致、及大破、必死と難渋仕候、且其夜者大安寺山を始めとして、宮山・海善寺山・浦根山通・七軒町・坂下町・弥次川町辺之者ハ、了仙山・城山・大浦畑通ニ而一夜を明し、誠ニ目もあてられぬ次第也」、さらに『下田日記』には、「寺の石塔、其外燈籠等、みな倒れたリ。間も無くつなみ也とて、市中大騒ぎ也(略)火事かとみる間に、大荒浪田面へ押来り、人家の崩れ、大船帆ばしらを立てながら、飛ぶが如くに田面へドット来たる体、おそろしとも何とも申すべき体なし」と、地震の様子を具体的に書いてあります。また、地震をディアナ号艦上で体験した司祭長マホフが記した『ディアナ号航海誌』によると、「海水は海底から吹き出して、釜(かま)の中で煮えたぎっているかのようであった。浪が渦巻いて逆立ち、飛沫となって飛び散った。大浪がつぎつぎと高くなり、異常な音を立てて怒り狂い、だんだん海水を駆り立てて岸を侵し、たちまち陸地を侵していった・・・。海岸にあった日本の小船はねじ曲げられ、四方八方に散らされた。波の強襲はたちまち拡がって町中まで達し、通りを侵し、ますます水位が高くなって家並みを侵して覆い洗った。さらに波は、水かさが増えたことに満足したかのようにすばやく海の方に戻って行き、壊された家や人間までもさらって行った。一瞬のうちに、湾には丸太や小舟、藁屑(わらくず)や着物、屍体(したい)、板や、木片につかまって生命を守っている人々などがいっしょくたにあふれてしまった。 (略) 最初の大浪が町の方へ行って十分もたたないうちに、第二の大浪がさらに大きく海のほうへ巻き返してきた。私たちの眼前にあった町・・・下田が消え失せた」と書かれており、下田が壊滅的(かいめつてき)な被害を受けたことがわかります。
地震前の下田湾の様子(モジャイスキー画)
地震後の下田湾の様子(モジャイスキー画)
(2)戸田の被害
戸田村の被害については、大正元年の『戸田村誌』によると、「溺死三十一人、負傷者二十五人、軽傷者無数、皆潰屋二十五戸、塀壁破損全戸数の三分の一、橋梁破七ヶ所、破船二十五隻」と記述されています。
(3)富士近辺の被害状況
『東海道地震津波末代噺種』
『東海道筋大地震大津波大出火』
富士近辺の地震の被害については、『東海道筋大地震大津波大出火』に、「よし原丸やけ 不二川(ふじがわ)水無之歩行成」、また、『東海道地震津波末代噺(はなし)種』には、「富士川 大ぢしんにて川上の山くずれてせき留し故渡し場水なく川原と茂る往来の人歩行(かち)わたり」と書かれています。吉原が火事により丸焼けのような被害を受けたことや駿河トラフに沿う富士川の上流の芝川町の白鳥山(しらとりやま)が崩れて川をせき留めて、富士川を歩いて渡ることができた様子がうかがえます。断層に沿った富士川の西側の蒲原町東蒲原付近では土地が隆起し、「蒲原地震山」とよばれる山が出現したそうです。この地震山について、蒲原の『渡辺利左衛門守亮(もりあき) 嘉永寅年日記』には、「この地震により富士川の西岸が三丈程隆起し富士川の流れが大きく変わり、蒲原側は洪水災害を免れるようになった」ことや、蒲原の人たちはこの地震により恵みを受けたので、「地震さん、地震さん、またおいで」という歌もうたわれたそうです。
『袖日記』には、「内房(うつぶさ)村かるし、家ゆがミ。上井出宿かるし、家ゆがミ。平垣村かるし、同断。五味島家蔵つぶれ候。安居山(あごやま)東漸寺本堂くりゆがみ、鐘楼潰れ、門崩れる。万野村より上、在かるし。田中村つよし。黒田かるし。天間村かるし。中里村より西、在へかけて地割強し。芝川所々橋落。沼津宿、半つぶれ、三島宿、家ゆがミ、市ケ原町十けん焼る。吉原、半潰れ、伝馬町出火。岩淵、つぶれ多し、地崩れ強く、三、四十人見へず。蒲原、家つぶれ、人死ニ、百人ヨ、出火あり。由比宿、地しんかるし。痛家なし。清水、つぶれ多く、人死にあり、津波あり、大に出火」と、近在の村の被害の様子を書いてあります。
富士地区の被害の様子については、静岡県地震対策課がまとめた『自主防災基礎資料』によると、次のようにまとめられています。(抜粋)
〈吉原〉
・総家数502軒。潰276、大破145、小破46 (『御用留』)
・東の方に2町ばかりが、七部通り潰れたが、焼け残っていた上の方は残らず焼失。死者5〜6人。富士川まえのこらず潰。 (『東海道之次第聞書之実説』)
・八分通り潰れ。ここから西方、本市場、富士川まで皆潰れ (『地震道中記』)
〈本市場・吉原辺〉
・破水泥をふき出し、9尺余ふき上ぐ (『地震之記』)
〈富士川東岸〉
・富士川東堤、水神から宮下まで50〜60センチ沈下 (『地震道中記』)
〈岩松〉
・全壊389戸。半壊67。土蔵物置倒壊多数。水神の森以下で幹流が東に変わる。水神の森の南に地震山が生ずる (『富士市史』)
地震の具体的な様子について、伊藤練次郎の『嘉永七寅ノ十一月四日大地震』には、「遥(はるか)ニ東ノ方ニテ何ニトモ知レズ、只風ノ吹出シカト思フ処ニ、段々近寄リシ処(ところ)、覚ズウシロノ蔵ノ軒瓦(のきがわら)壱度ニサット振リ落シケル故、驚キ飛出シケレバ、凡五間程モ行シ処ニ、霜解ケ(しもどケ)ノ中ニ投付ラレ、何事ナルヤノ覚モナク只驚キシ処、其内ニ少シ静カニナリ、日ハ黄色ニテヲボロノ如くナリ、山ノ崩ルルガゴトクノ音シテ (略) 屋敷境ノ井戸ノ水ハ、凡(およそ)壱丈余モ高く、水ハジキアケ実ニ恐敷(おそしき)有様(ありさま)ニ也。其他東西南北共に出火ノ煙(けむり)立、小供ノ啼聲(なきごえ)、大人ノ呼聲(よぶこえ)地ヲ振フ。音何共スゴキ有様、口ニ演ベ(のべ)ガタシ」と書かれており、地震の恐ろしさがわかります。
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