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(3)下田へ入港
 嘉永7年(1854)10月14日、朝8時頃、下田の武山遠見番所(ぶさんとおみばんしょ)から下田奉行へ、「石廊崎沖に異国船が現われた」という報せがありました。間もなく、近くの浦々からも同じような届けが来ました。大坂に現われたロシア船が下田へ回ったという報せを受けて、近隣の村々へ下田奉行が警戒させていたところへの注進でした。15日に下田港に入港したディアナ号は、湾内の和歌浦に投錨しました。プチャーチンは、艦より、艀(はしけ)(バッティラー)を降ろし、交渉の再開の申し入れを行いました。奉行所の役人は、その主旨を聞き、江戸へ連絡することを伝え、一旦引き取ってもらいました。奉行所では、直ちに江戸へ使いを飛ばしました。報告を受けた勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)は直ちに下田に向かいました。
 
下田湾に停泊中のディアナ号(中央付近)(モジャイスキー画)
モジャイスキーは、ディアナ号に乗船し、行く先々の風景や人物を写真や画に描きました。
ロシア中央海軍博物館蔵 提供下田市
 
 下田の住民はディアナ号が出現しても大坂におけるような驚きは見せなかったと言われます。その理由として、前年ペリーの艦隊、いわゆる「黒船」が、既に下田港に入港したり、嘉永5年(1852)には、ロシア船メンシコフ公号が漂流民を乗せて来たりしているので、異国船や異国人を見慣れているからでした。
 メンシコフ公号事件というのは、嘉永5年(1852)下田港に漂流民7人を乗せてメンシコフ公号が入港しました。これは漂流民を、人道的な見地から日本に送り届けようとするためのものでした。しかし、当時の日本は鎖国が行われており、外国とはいかなる理由でも取り引きをしないようになっていました。そのため、代官江川太郎左衛門は漂流民の受取りを拒否したのです。やむなく、船長は、下田港を出て、中木浦(なかぎうら)(南伊豆町)で漂流民をボートに乗せて上陸させたということです。
 
 日本の国の珍しい出来事を一覧表にした刷り物、『古今奇事(こきんきじ)一覧』の番外に、「嘉永七秋ヲロシヤ舶来(はくらい)」と書かれています。幕末の日本にとって、外国からの異国船が出現したことは、大きな出来事であったと思われます。ロシアからの異国船、ディアナ号が人々の興味を引いたものと思います。
 
『古今奇事一覧』
高木長平氏蔵
 
 他に、「宝永四 富士焼宝永山湧出」や「寛文五 大阪天守雷火」「延応(えんおう)元 奈良大佛目より血流ル」などという事も書かれています。


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