3 下田へ来航
(1)箱館へ入港
ディアナ号は一隻で箱館に向かい、嘉永7年(1854)8月30日、箱館に入港しました。しかし、応対した箱館奉行は、交渉の権限のないことを告げ、交渉を拒否しました。そのため、プチャーチンは老中宛てに交渉再開の文書を提出して、幕府への伝達を申し入れ、大坂に向かうことを告げ、箱館を去りました。
箱館に入港したディアナ号(モジャイスキー画)
(2)大坂天保山に出現
ディアナ号は、太平洋岸を航海し、嘉永7年(1854)9月18日、摂津(せっつ)大坂の天保山(てんぽうさん)沖に停泊しました。さらに、岸和田を通り、安治川口(あじがわぐち)にも達しました。突然、現われた異国船により、大坂や近隣の町が大騒ぎになりました。
『安政甲寅日記(あんせいこういんにっき)』には、その時の様子を「当月十八日未下刻(午後3時頃)当初安治川(あじがわ)天保山え魯西亜船壱艘渡来、寝耳に水の如くにて、市中大騒動に相成り、東西御奉行并御代官其外諸役人衆早速御出張御座候」と記述され、大坂が大混乱になった様子がわかります。
大坂城代土屋寅直(つちやとらなお)はディアナ号が出現したことを直ちに江戸及び京都所司代に急報するかたわら、付近の諸藩に対して連絡して、湾岸一帯の警戒に当たらせました。そして、京都所司代は、京都の警備を厳重にするよう手配をしました。天皇の居る京都に不測の事態が起これば取り返しのつかないことになることを恐れたのです。しかし、騒ぎは収まらずかわら版も出る始末でした。大坂と京都の人々は驚き、人心が落ち着かないため、双方の奉行は「警備は万全であり、万一戦争になってもロシア兵を上陸させないし、戦争はないと思うから安心して家業に励むよう」と通達まで出しました。しかし、「京都が危ない故、幕府は朝廷を彦根(ひこね)へ移そうとしている」という流言飛語(りゅうげんひご)まで流れたそうです。
大坂天保山沖に停泊中のディアナ号 『天保山魯船図』
プチャーチンが箱館から大坂に向かうことを決意した理由は、大坂は朝廷の所在地、京都に近いので、軍艦を率いて大坂に乗り込んだならば、交渉に消極的な幕府も驚き、ロシアの要求に応ずるであろうと考えたのです。案の定、大坂の役人や一般民衆は異国の軍艦が不意に入港したので非常に狼狽(ろうばい)を来たしました。大坂奉行はプチャーチンに対し、大坂は開港場ではないから異国船の寄港は許さない、長崎、もしくは下田へ回航すべき旨を伝えました。
プチャーチンは下田にいくことを決意し、天保山を退き、紀州加太浦(かだのうら)へ停泊しました。その後、加太浦を出帆し、下田に向かいました。
かわら版『嘉永七寅九月十八日八ツ時』
異国船出現により大坂湾の警備体制の様子を描いたかわら版
『攝州大坂異國舩御固図』
ものものしい大坂湾警護の様子(モジャイスキー画)
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