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第一章 ディアナ号の来航
1 ロシアの東方進出
 19世紀、イギリスやアメリカ等、列強(れっきょう)のアジア進出が著しく展開されるようになりました。イギリスは清国との間にアヘン戦争を起こして清国を破り、南京条約で香港の割譲(かつじょう)を受け、上海など5港を開港させ、勢力拡大を図りました。アメリカは、カリフォルニアに金鉱が発見され、西部への開拓が進められました。また極東貿易航路に目が向けられ、捕鯨業の振興と共に燃料や水、食料等の確保のため太平洋沿岸での寄港地を必要としていました。
 このような情勢の中で、ロシアも東方進出を図り、日本の北辺を頻繁(ひんぱん)に窺う(うかがう)ようになりました。ロシアは、16世紀後半からウラル山脈を越えて、シベリアやアラスカなどに手を伸ばし、東方進出政策を進めていきました。カムチャッカ半島南部に町を建設し、極東北部の根拠地としました。続いて、オホーツク海やベーリング海峡を占有し、南下して千島、樺太(からふと)に至り、蝦夷(えぞ)の松前藩に通商を求めてきました。
 寛政4年(1792)、根室に、女帝エカテリナ二世に使節として任命されたアダム・ラックスマンが通商を求めて派遣されました。この時、漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら3人を送還のために同伴していました。ラックスマンは根室から松前に回航して、回答を待ちましたが、幕府は「鎖国だから今直ちに通商に関する交渉には応じられない。改めて長崎に来航した時に協議をする」とし、信牌(しんぱい)(信任状)を与えて帰しました。その後、文化元年(1804)、ニコライ・レザーノフが、使節として長崎に来航し、先回ラックスマンに与えた信牌を示して通商開始を求めました。この時、仙台出身の漂流民陸奥津太夫(むつつだゆう)ら4人を伴ってきました。レザーノフは、約半年間滞在しましたが、幕府は返事を延ばしながら通商には応じませんでした。
 
ロシア使節レザーノフ像
 
長崎に上陸した使節団一行 『文化元年魯西亜国使節団』
早稲田大学図書館蔵
 
2 日露交渉へ出発
(1)パルラダ号の出港
 列強のアジア進出が著しく展開する中で、ロシアも日本周辺調査や日本との交流等を早急に推し進めようとしました。特に、1 通商条約の締結 2 千島や樺太等、北辺の領土確定などが緊急の課題でした。このような時に、ロシアのニコライ一世は、アメリカが遣日特使を派遣し、通商条約を結ぶ案が議会を通過したという情報を得ました。アメリカは、嘉永(かえい)5年(1852)ペリーを遣日特使に任命しました。ペリーに与えられた任務は、1 日本に漂着した米国船員の生命財産を保護すること 2 食料、薪水(しんすい)、石炭補給のため米国船が一港以上の港に入るのを認めること 3 貿易のため一港以上の港を開くことでした。同年、ペリーは日本との交渉にあたるため新鋭のミシシッピー号でノーフォークを出発しました。
 ロシアはこのようなアメリカの動きを知ったので、急遽(きゅうきょ)、ニコライ一世はエブフィミイ・ワシリエイッチ・プチャーチン海軍中将を遣日使節として、派遣するようにしました。
 プチャーチンに与えられた訓令の主旨は、1 極東及びアメリカのロシア領沿岸におけるイギリス・アメリカを中心とした外国捕鯨船の情報を得ること 2 アラスカやカムチャッカ、極東水域で行動中のロシア人に対し薪水、食料など生活必要物資の入手のため北日本の一港を開港させ、交易の許可を得ること 3 日本政府が外国に開放した港にロシア船が入港する権利を得ること、つまり最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)を確保すること 4 友好的な態度で交渉に臨むこと、などでした。
 嘉永5年(1852)9月7日、ニコライ一世の見送りを受け、パルラダ号はクロンシュタット港を出発しました。プチャーチンはイギリスのポーツマス港で乗船しました。パルラダ号は、イギリスから購入したボストーク号を伴い、マデラ島、ジャワ島、香港などを経由して小笠原群島父島の二見港に寄港しました。ここで、オリバーツ号やメンシコフ公号と合流し、四隻の艦隊編成になりました。
 嘉永6年(1853)7月13日、艦隊は父島を出港し、7月17日、長崎港に入港しました。19日に長崎奉行大澤豊後守は、プチャーチンより国書を受けとりました。国書は、北方の国境協定と通商条約の締結を求めるものでした。プチャーチンは、長崎で幕府側全権と計6回の会談を行いましたが、交渉ははかどりませんでした。プチャーチンは、ロシアとトルコの戦争拡大などの国内情勢のため交渉を中断し、ロシア領沿海州へ向かいました。
 プチャーチンの乗ったパルラダ号は、1832年に建造されました。船体の長さは約53メートル、幅約13メートル、大砲も備えた重装備の戦闘用の木造帆船でした。しかし、建造後、20年が経ち老朽化(ろうきゅうか)しており、航海を続けるのには危険性がありました。そのため、プチャーチンは、本国へ代艦の要請をしました。それにより、急遽(きゅうきょ)、ディアナ号が派遣されるようになりました。
 
パルラダ号の模型
提供 奈木盛雄氏
 
長崎に入港したロシア船
『魯西亜松長崎入津行列図』
早稲田大学図書館蔵
 
『魯西亜使節應接図』
早稲田大学図書館蔵
長崎に上陸したロシア兵が、ロマノフ王朝の双頭の鷲を先頭に行進する図です。
 
(2)ディアナ号の出港
 ディアナ号は、嘉永6年9月16日(ロシア暦では1853年10月4日)、クロンシュタット港を出発しました。ディアナ号は、大西洋に出て南アメリカ南端のホーン岬やハワイのホノルルを経由して、ロシア領インペラートル湾でパルラダ号と合流しました。ここで、プチャーチンはディアナ号に乗り換え、一部の乗組員を入れ替えて、嘉永7年(1854)8月24日再び日本に向かいました。この後、パルラダ号は武装を取り払った後、敵国に拿捕(だほ)、利用されることを恐れて、焼き払われてしまいました。
 
現代のクロンシュタット港の様子
提供 奈木盛雄氏


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