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 興味深いのは、明治一四年(一八八一)に由良(京都府宮津市)の由良金比羅神社に奉納された難船絵馬(図143)である。この絵馬は絵の出来も悪くなく、一見、地方絵師の作かとも思われよう。しかし、画面左下の落款には「岩滝糸井 飛竜丸文四郎」とあるので、丹後岩滝の船主糸井文四郎自らが描いて奉納したことは明白である。これはごく珍しい例ではあるが、江戸時代の船主には学芸に心を寄せる教養の高い者が少なくなかったから、文四郎はそうした一人だったのかもしれない。
 ところで、面白いことにヨーロッパでも古くから海上における危難をマリアもしくはある特定の聖人の加護で奇跡的に逃れた船乗りが感謝の念をこめて教会に絵馬(Ex-Voto Marins)を奉納した。たとえば、日本で登場するよりも二世紀も早い一六〇四年に奉納された絵馬には、難航するカラックらしき帆船と中空のイエスを抱いた聖母マリアが描かれている。この構図はパターン化しており、船がガレーだったり、カラベルだったり、隻数が多かったりする程度の違いのものが大半を占めている(図144)。なかには海賊の襲撃や海戦、火山の爆発といった珍らしい図柄のものもあるが、いずれにしても一七世紀のものはそのほとんどがプリミティブな表現で、ぐっと写実的になるのは一八世紀になってからである。
 この絵馬の船を和船にして、マリアあるいは聖人を金毘羅大権現の御幣や地蔵菩薩・不動明王にすれば、日本の難船絵馬となる。また、一六〇四年の絵馬でははっきりしたポーズをとっていないが、多くの場合、日本の難船絵馬と同じく船上の乗組員たちはマリアあるいは聖人に向って手を合わせている。となると、気の早い人なら、日本の難船絵馬はこうしたヨーロッパのものを真似してできたのではないかと速断しかねない。ところが、何といっても彼我のあいだには長い年月の隔たりがあるうえ、キリシタン禁止のため日本にこうしたものがまともに導入されるはずがない。おそらくは、危険に瀕したときの人間の気持ちが「苦しいときの神頼み」で、時間や空間を超越してまったく同じようなものを生む結果になったのであろう。
 
図141 明治34年(1901)の絵馬籐派の難船絵馬 
日置川町の市江地蔵尊蔵
 
図142 明治34年(1901)の絵馬籐派の難船絵馬 
南国市の青龍寺蔵
 
図143
 
明治14年(1881)の糸井文四郎筆の難船絵馬 由良金比羅神社蔵(京都府立丹後郷土資料館寄託)
 
図144 1768年(明和5)のヨーロッパの難船絵馬







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