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二 髻の絵馬
 深浦町という日本海に面した古い港町に、円覚寺なる古刹(こさつ)がある。境内にある金毘羅様を祀った(まつった)御堂には七三面におよぶ船絵馬とならんで、変った絵馬が三二面も奉納されている。丁髷(ちょんまげ)の髻(もとどり)を絵馬に仕立てたものである。その中で船籍地・船名・奉納年月日などが明記され、髻の保存状態のよいのが、嘉永二年(一八四九)四月四日に若狭国小浜の海商木綿屋の廻船住吉丸に乗り組んだ一二人が奉納した一面である(図145)。当初、一二人分あったはずの髻は、今日では五人分しか残っていない。もちろん、長い歳月の間に結んでいた紐(ひも)が朽ち、ために髻が落ちて無くなったのであって、この点は他の三一面にも共通しているが、むしろ、これだけ残っている方が珍しいといっていいくらいである。この住吉丸には越後の八人と深浦に近い鯵ヶ沢の一人の計九人が便乗しており、別に乗合と書いて髷を同じ日に奉納している(図146)。両者の人数から判断すると、海難にあった住吉丸は深浦港へ逃げ込んで、全員が助かったに違いない。
 では、なぜ小浜の船乗りたちの髻がこのような形で遠い深浦町の円覚寺に奉納されているのだろうか。漂流記などに関心をお持ちの方はその理由をよく御存じと思うが、航海中、時化にあって船が危険に瀕した時、船乗りは神仏に加護を祈願して元結(もとゆい)から髪を切り、船内の神棚や仏壇に供えておき、危難を逃れたあとでこれを絵馬に仕立て、運よく避難できた港か故郷などのゆかりの社寺に感謝の念をこめて奉納したのである。こうした慣習は江戸時代の船乗りの間では広く行われていた。
 住吉丸の場合、津軽沖あたりで難航し、全員髪を切って金毘羅様に助けを祈願したところ、無事に深浦に避難できたため、その髻を絵馬に仕立てて、円覚寺内の金毘羅様に奉納したのであろう。当時、深浦は重要な風待ち港であった。船籍地不明の二面を除く三〇面のうち、その九割にあたる二八面が住吉丸のような他国船の奉納であるのに対し、地元の津軽の廻船の奉納はたった二面しかない。これをみても髻の絵馬の奉納は、助かった場所の社寺に奉納するのが通例だったということになりそうである。
 
図145 嘉永2年(1849)の住吉丸の髻絵馬 
深浦町の円覚寺蔵
 
図146 嘉永2年(1849)の住吉丸乗合の髻絵馬 
深浦町の円覚寺蔵
 
 ところで、十返舎一九の『続膝栗毛』初編の序文には、讃岐の金刀比羅宮に髻の絵馬が多数奉納されていたとして、次のように述べている。
 広前(ひろまえ)にかくの如くの絵馬(えま)多く見へたり、渡海(とかい)の船頭九死一生(せんどうきゅうしいっせう)の奇難(きなん)のとき髻(もとヽり)を払ひ、此御神に祈誓(きせい)するに免れず(まぬがれず)といふことなし。故(ゆへ)にその髻を奉りて末代神恩(まつだいしんおん)を忘れざる(わすれざる)しるしなりとぞ
 しかし、現在、金刀比羅宮には髻の絵馬は一面も残っていないから、いつの間にか捨て去られてしまったのであろう。なお、同書に載る髻の絵馬の図(図146)を見ると、髷は縦に並んでおり、円覚寺などに現存する絵馬とは並べ方が違っている。
 また『ペリー提督日本遠征記』も
船や難破船のまずい絵数個、十二張りの弓及び多数の丁髷がある。それは遭難水夫が生命を全うした感謝の印として、切りとってぶらさげたものである。
と下田のある神社の楼門に船絵馬や難船絵馬とともに髻が奉納されていたことを記している。この髻が絵馬の形式をとっていたかどうかは明らかではないけれども、円覚寺や讃岐の金刀比羅宮の例からすれば、絵馬になっていたとみてまず間違いないであろう。
 
図147 『続膝栗毛』に載る
讃岐の金毘羅宮の髻絵馬
 
 髻の絵馬は、船絵馬にくらべて絶対数が少ないうえに、どこでも残りにくかったとみえて、筆者の知る限りでは、円覚寺以外では小木町(新潟県佐渡郡)の称光寺の一面、竹野町(兵庫県城崎郡)の興長寺の七面、福井県下の一面の合計九面が残るにすぎない。むろん丹念に探せばまだ発見されるだろうが、船絵馬のようにどこにでもあるというものではないから、あまり多くは期待できないような気がする。
 それはともかくとして、この髪を切るという船乗りの習慣がいつ頃から始まったのかというと、これがどうもはっきりしたことがわからない。漂流記では、寛文八年(一六六八)の『尾州大野村船漂流一件』が古いほうだが、これには「十五人の者共、元結を払ヒ、竜宮へ祈願を懸ケ申候へば」とあって、祈願の対象が金毘羅様ではなく、竜宮つまり竜神になっている。同じような例としては、元禄九年(一六九六)の『日州船漂落紀事』に「髪を薙(すり)、佩刀(わきざしつか)をつらねて、潮神(わたつみ)に奉り」とみえるほか、明和元年(一七六四)の『漂流天竺物語』にも「皆々髪を切払、命代りと海に入レ、八大竜王下界の竜神、あまねく神仏に祈祷をこめ」とあるし、また天明八年(一七八八)の『松栄丸唐国漂流記』にも「乗組之者共、髪を払、船頭所持之脇差(わきざし)外鏡・小刀・鋏(はさみ)之類海中え投入」とある。同様の例は一〇例ほどもあるから、一八世紀までは金毘羅様よりも竜神つまり「わだつみの神」への祈願が普通だったように思われる。しかも、髻のほかに刀、鏡などを投げ入れるというのだから、これは古代から行われていた竜神の怒りを鎮めるという信仰の変形とみなさざるをえない。『漂流天竺物語』に「命代りと海に入レ」とあるのは、まさにそれにピッタリで、髻の投入が人身御供(ごくう)の代わりだったことを端的に物語っている。
 しかし、そうなると、髻の絵馬が奉納されることはありえないから、そうした習慣が始まったのは必然的に一八世紀末以後のこととせざるをえない。たとえば、寛政元年(一七八九)の『無人島談話』のように海に投じた例がある一方、それより七年早い天明二年の『北槎聞略』には「皆々髪を断、船魂(ふなだま)に備へ、おもひおもひに日頃念ずる神仏に祈誓をかけ」とあって、切った髪を船魂に供えて、神仏に祈願した例もある。後者の場合、切った髪を船内にある神棚や仏壇に供えたに相違なく、この頃から髪を切ることへの意識の変化が始まったとみるよりほかはない。
 一九世紀の漂流記になると海中に投じる例は文政九年(一八二六)の越前の宝力丸などのほかはみられなくなり、「いづれも髪を切り、金毘羅を念じ」とか「十二人とも髪を切、太神宮へ立願」といった簡単な叙述に終始するのをみても意識の変化は明白である。そして祈願の対象が、竜神から金毘羅様や伊勢太神宮などに変ってゆくのも、その現れとみていいだろうし、さらには一九世紀初め頃に始まるとされる航海安全祈願としての金毘羅信仰の隆盛とも軌を一にしている。円覚寺などに奉納された四一面の年代を調べてみても、最も古い寛政六年(一七九四)の一面を除くと他は天保一二年(一八四一)以後のものばかりで、これまた漂流記から導き出された結論とも符合するから、やはり始まりは一八世紀末とみて間違いないであろう。
 
参考文献
牧野隆信・刀禰勇太郎・西窪顕山『日本の船絵馬』(柏書房、一九七七年)
『紀州の絵馬』(和歌山県立博物館、一九七八年)
『瀬戸内の海上信仰調査報告(東部地域)』(瀬戸内海歴史民俗資料館、一九七九年)
『瀬戸内の海上信仰調査報告(西部地域)』(瀬戸内海歴史民俗資料館、一九八〇年)
『加賀市絵馬調査報告書』(加賀市教育委員会、一九八五年)
『北前船と越前・若狭』(福井県立博物館、一九八五年)
『船絵馬―和船と海運』(石巻文化センター、一九八七年)
『海への祈り』(河野村役場、一九九一年)
『北前船の遺産』(加賀市教育委員会、一九九四年)
『海を翔ける―東かがわの船乗りたち』(東かがわ市歴史民俗資料館、二〇〇三年)
 
執筆分担一覧
石井 謙治  はじめに 第一章 第二章 第三章四・五 第五章
安達 裕之  第三章一・二・三 第四章
 
著者略歴
石井 謙治(いしい けんじ)
1917年、東京都生まれ。元日本海事史学会会長。
著書に『日本の船』(東京創元社、1957年)、『図説和船史話』(至誠堂、1983年)、『和船』I・II(法政大学出版局、1995年)などがある。
 
安達 裕之(あだち ひろゆき)
1947年、大阪市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。工学博士。
著書に『異様の船―洋式船導入と鎖国体制―』(平凡社、1995年)、『日本の船 和船編』(船の科学館、1998年)などがある。
 







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