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第五章 難船絵馬と髻の絵馬
 現存する船絵馬は、管見の範囲でもほぼ四千面に及び、未調査のものを加えれば優に六千面を越すと思われる。前述のように、最も古いのは寛永四年(一六二七)の朱印船の絵馬であるが、これを含めて寛永時代の船絵馬は七面を数える。奉納者はいずれも朱印船の船主などの特権商人たちが主で、後世のように船頭や水主(かこ)が奉納するという大衆性はなかったようだ。したがって、現存の船絵馬から判断する限り、船絵馬奉納が普遍化するのは一八世紀後半からでしかなく、とくに文化期(一八〇四〜一八一七)以降は優れた船絵師が大坂に輩出して、大量の需要に応じられるようになった。
 船絵馬奉納の目的は、航海の安全祈願にあったから、図柄としては平穏な海上を帆走する船の姿を描くものが圧倒的に多い。ところが、中には激浪中を難航する場面を描いた絵馬があり、われわれはこれを難船絵馬と名付けている。しかし、この手の絵馬は数が少なく、全体のわずか一〜二パーセントを占める程度しか発見されていない。それだけにすべてが貴重な作例ということになる。
 航海中、強風に襲われた時には、慶応三年(一八六七)に深浦町(青森県西津軽郡)の円覚寺に奉納された難船絵馬(図137)のように適当に帆を下げ、追風・追波で危険を避けるのが常道である。これをつかせ、あるいはつかしという。もし風向きが針路に反する場合は、風下に流されるのを少なくするために、たらしとして碇綱を何本か曳航する。それでも流され方がはなはだしい時には碇綱の先に碇をつける。つまり、今日でいうシーアンカーである。
 追波が強い時には舵や外艫(そとども)が破壊される恐れがあるので、丈夫な船首を波にたて、たらしを曳かせる。これを逆艫(さかとも)とか後ずさりとか舳(おもて)流しとか呼ぶが、これが時化(しけ)の対策としては最善の方法であった。というのも、弁才船に代表される和船では外艫と舵を含む船尾廻りが波浪に対して弱かったから、逆艫にし、水切りのよい丈夫な船首で波を受けたわけである。
 逆艫の際には、舵がばたつくのを防ぐため、舵を上に引き上げておかねばならない。慶応三年(一八六七)に竹野町(兵庫県城崎郡)の興長寺に奉納された難船絵馬(図138)はそうした点に抜かりがないばかりか、船首から曳いたたらしも描いており、さすがは船絵師、よく知っていると感心させられる。もっとも、現存の逆艫の難船絵馬では舵を引き上げていない絵馬のほうが多い。おそらく、値段の関係から船絵師が手抜きをして、墨線に普通の版画を利用したため、舵もそのままとなったのであろう。
 けれども、なお流されるとなると、最後の手段として帆柱を伐り倒した。この行為は、海難の際に船頭・水主が人事を尽くした証拠ともなった。帆柱の伐り捨ては、帆柱に当たる風で船が流されるのを恐れたからであるが、実際には船の重心を下げる効果がある。明治元年(一八六八)に福浦(石川県羽咋郡富来町)の金刀比羅神社に奉納された絵馬(図139)のように帆柱を伐った難船絵馬はごくわずかしかないから、そこまでいかないうちに助かった場合が多かったに違いない。
 難船絵馬の特徴は、暴風雨の吹きすさぶ空中に金色の御幣(ごへい)が現出している点にある。これは船の守護神である金毘羅大権現などを象徴し、神の救いが現われたことを意味する。ほとんどの絵馬では明治二六年(一八九三)に三木町(加賀市)の御木神社に奉納された難船絵馬(図76)のように舳(おもて)の車立(しゃたつ)に金毘羅大権現の大木札を結わえているから、御幣は金毘羅大権現のシンボルと考えてよい。面白いのは、明治二六年(一八九三)に小丹生町(福井市)の春日神社に奉納された絵馬籐筆の難船絵馬(図140)で、舳の車立に金毘羅大権現、艫の車立に美穂(みほ)(三保)津姫命(つひめのみこと)、仕出矢倉上に住吉大神と船上には三つも大木札がある。とすれば、現出した御幣が象徴するのはこれら諸神と即断しかねないが、案に相違して、絵馬の奉納された神社の祭神の春日大明神である。御幣の脇を見ると、誤解がないようにわざわざ「春日大明神」と明記されているからである。
 
図137 慶応3年(1867)の
吉川芦舟筆の難船絵馬
深浦町の円覚寺蔵
 
図138 慶応3年(1867)の難船絵馬 
竹野町の興長寺蔵
 
図139 明治元年(1868)の難船絵馬 
福浦の金刀比羅神社蔵
 
 もとより、物事に例外はつき物で、難船絵馬に必ず御幣が現出するとは限らない。たとえば、日置川町(和歌山県西牟婁郡)の市江地蔵尊に奉納された四面の難船絵馬(図141)には御幣の代わりに地蔵菩薩が描かれ、また明治三四年(一九〇一)に南国市(高知県)の青龍寺に奉納された難船絵馬(図142)には不動明王が描かれている。これは祈願の対象を特定して描かせたものであって、他に類例を見ない珍品といってよい。なお、市江地蔵尊の四面は、無落款ではあるが、明らかに絵馬籐筆である。
 難船絵馬が奉納されるようになったのはいつ頃からかというと、意外に新しく、筆者の調査した範囲では、天保三年(一八三二)の酒田市(山形県)の日和山金毘羅宮の一面と弘化四年(一八四七)の間島(新潟県村上市)の仲雲寺の一面を古い作例として、安政六年(一八五九)と元治元年(一八六四)の須佐町(山口県阿武郡)の皇帝社の各一面、慶應三年(一八六七)の深浦町の円覚寺と竹野町の興長寺と松前町(北海道松前郡)の渡海神社の各一面と続き、残りはすべて明治時代の絵馬に限られる。とすれば、神仏に祈願して助かった御礼として難船絵馬を奉納する習慣は、幕末に始まり、明治時代になって流行するに至ったとしか思えない。しかし、流行したといっても、難船絵馬となると、それを奉納する船頭や水主はごく少数だったわけだし、絵馬屋としても注文画ないしはそれに準じる作品になるから、いきおい既製品もあまり用意されていなかったに相違なく、ために現存する作例が極端に少ないのだろう。
 
図140 明治26年(1893)の
絵馬籐筆の難船絵馬
小丹生の春日神社蔵
 
 こうした事情を反映してか、難船絵馬の中にはどうみても船絵馬屋の作とは思えないものが高い割合を占めている。おそらく、海難で助かり、故郷に帰った船乗りが、奉納する寺社の近所にある普通の絵馬屋とか土地の絵師ないしは器用な人に依頼して描いてもらったのだろう。したがって、現在、最も古い作例である天保三年の日和山金毘羅宮の一面をはじめとして船絵馬屋以外が描いた絵馬は、たとえ巧みな絵であっても、船の描写に難点が多く、難船絵馬としては高い評価をあたえられないものがほとんどである。たとえば、東大寺二月堂の難船絵馬は、相当の力量をもつ絵師の手になる迫力のある大画面にもかかわらず、船の描写の崩れのために、せっかくの秀作も割り引いて評価せざるをえない。







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