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 第二は、社の前に大皷橋(反橋ともいう)があること。これは住吉神社に限ったものではないけれども、暁鐘成の『摂津名所図会大成』に「反橋(そりはし)・高燈籠を以て世俗当社の景物(けいぶつ)とす」とみえるように四本社につぐシンボルといってよい。
 第三は、神社の森の右端に高燈籠があること。住吉神社正面は、古来、歌にも詠まれて名高い出見の浜で、ここに住吉名物の高燈籠が建っていた(図105)。これについて『摂津名所図会大成』は
 夜ばしりの船の極(めあて)とす、闇夜に方角を失ふとき、住吉大神をいのれば、此灯籠の灯(ともしび)ことに煌(くはう)ゞと光鮮(あざやか)なりとぞ
と述べており、燈台の役割のほかに信仰の象徴的な意味が高燈籠にあったことがわかる。高燈籠は寛政三年(一七九一)以後の船絵馬に現われる特徴であって、船絵馬の背景には欠かせない。
 
図106 文化11年(1814)のプレ杉本派の絵馬 
寺泊町の白山媛神社蔵
 
 以上の三つの特徴から背景を住吉神社と判断したわけだが、四本社、太鼓橋、橋の両側の二つの鳥居の描き方は、時代や船絵師の流派によっても、また同じ流派でも多少は変化する。たとえば、文化一一年(一八一四)に寺泊町の白山媛神社に奉納された絵馬(図106)は、画風は初代杉本勢舟の先駆的様式をもち、いわばプレ杉本派に属するが、住吉神社の道具立ては同じでも、概して帆の両側に二つの鳥居を配する吉本派と違って、太鼓橋の左右に鳥居を配している。
 住吉名物の出見の浜の高燈籠を描き加えることで真の確立をみた住吉神社の背景は、吉本派によって天保初年(一八三〇年代初め)までほぼそのまま踏襲されたばかりか、吉本派以外の大坂出来の船絵馬でも主流を占めたため、船絵馬といえば高燈籠つきの住吉神社の背景というほどに流行した。しかし、天保後期から西洋式の遠近法がとり入れられ、住吉神社は遠く小さく扱われるようになり、ついで新しい背景の流行で急速に姿を消していった。
 前述のように往時は社殿と海岸の間には広い松原があって、船絵馬の背景のように海上から四本社が見えるはずもなかった。もとより、船絵師も買い手たる船乗りもこのことをよく知っていた。しかし、背景といっても実景をリアルに描くのが目的ではなく、あくまでも信仰の対象である住吉神社を描く必要があったため、その象徴として四本社を中心に太鼓橋や鳥居を添えたのであって、こうしなければ買い手は納得しなかったに相違ない。見えない四本社を描いたからといって、単純に絵空事と切って捨てるわけにはゆかないのである。
 ここで問題となるのは、大坂出来の船絵馬の買い手は全国からくる廻船の乗組であり、故郷で奉納する神社が必ずしも住吉神社とは限らないことである。現に、八幡・金毘羅・白山をはじめとして、住吉以外の神社に奉納された船絵馬が九割を占めている。おそらく既製の船絵馬には住吉神社しかないから、それを買って故郷に持ち帰り、奉納したというのが現状だったのであろう。それがいやなら、高い金を出してでも特注して描かせるよりほかはない。
 ところが、買手の中には、特注する金はないけれど、故郷の神社と合わない住吉神社の背景にはこだわりを持つヘソ曲りもいたらしい。そんな連中をねらってか、住吉神社の背景から四本社、太鼓橋、鳥居および高燈籠をとって松林だけにした背景が、文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)には数例を数えるにすぎなかったのに、天保期(一八三〇〜一八四四)になると急激にふえてくる。もちろん、大坂出来の船絵馬での話である。
 たとえば、天保一三年(一八四二)に諸寄(兵庫県美方郡浜坂町)の為世永(いよなが)神社に奉納された絵馬(図107)の背景がそうで、当時、大坂で吉本派と双壁の杉本派に似た船体表現から、この絵馬は杉本派の傍系の無名の船絵師の作と思われる。不思議なのは、この手の絵馬が日本海沿岸の社寺にしか奉納されていないことである。これは、郷里の住吉神社以外の社寺に奉納しても違和感がないため、大坂で船絵馬を買う北前船の船乗りに歓迎された結果かもしれない。しかし、どういうわけか、松林の背景は天保末年以後パッタリと姿を消す。
 
図107 天保13年(1842)の船絵馬
諸寄の為世永神社蔵
 
図108 元治元年(1864)の
三代目吉本善京筆の絵馬
橋立町の出水神社蔵







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