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図109 明治20年(1887)の絵馬籐筆の絵馬 
塩屋町の八幡神社蔵
 
図110 嘉永2年(1849)の吉本派の絵馬 
鯵ヶ沢町の白八幡宮蔵
 
 松林に代わって天保初年から徐々に出はじめるのが、大きな日輪か、水平線上の日の出を描く背景で、この太陽を主題とする新形式の背景が天保末年から急速に台頭する。たとえば、橋立町(加賀市)の出水神社に奉納された元治元年(一八六四)の三代吉本善京筆の絵馬(図108)は日輪を描き、明治二〇年(一八八七)の絵馬籐筆の絵馬(図109)は日の出を描く。とりわけ水平線上の日の出の背景が急速な流行を示し、安政末年(一八六〇年頃)から明治時代にわたって主流の座を占めるほどになってしまう。そのため一世紀以上にわたって背景の主役だった住吉神社は影が薄くなり、明治時代に入るとほとんどといってよいほど見られなくなる。したがって、松林の背景は住吉神社から日輪ないし日の出に移行する一時的な流行だったようだ。
 住吉神社であれ、松林であれ、日輪、日の出であれ、背景が定式化されても、ごく稀に奉納した神社や郷土の風景などを描いた絵馬がある。落款のない標準形式の絵馬でも嘉永二年(一八四九)に鰺ヶ沢町(青森県西津軽郡)の白八幡宮に奉納された背景に鳥海山を描く吉本派の絵馬(図110)のような例もなくはないが、そのほとんどが特注の大作か落款の入った大作で占められている。たとえば、二代吉本善興景映、すなわち三代善京は、天保一四年(一八四三)奉納の中条町(新潟県北蒲原郡)の荒川神社の大絵馬(図111)の背景に鳥海山を描き、また慶応元年(一八六五)奉納の鰺ヶ沢町の白八幡宮の大絵馬(図112)の前景に鰺ヶ沢の町並みを描いている。
 住吉神社に代わって日輪や日の出を背景とする絵馬が急速に普及する時期は北前船の隆盛期にあたり、日本海地域の社寺に奉納される船絵馬が激増したため、どこの社寺にも向く無性格の背景に需要が集中したらしい。つまり松原の背景と同じ理由である。興味深いのは、背景の岬や島のシルエットが佐渡に似ている点である。これが意識的だとすれば、大坂の絵馬屋が顧客の多い北前船の船乗り向けに描いた可能性が高く、日本海の日の出ではなく、日の入りを描いたとみたほうがよいだろう。あるいは、水平線上の太陽がやはり日の出なら、明治時代以後の盛行は新政府の教育方針からくる庶民の伊勢信仰の変質、つまり伊勢信仰すなわち太陽信仰のなかに天皇を意識するということが背景にあったのかもしれない。
 
図111 天保14年(1843)の
二代吉本善興景映筆の大絵馬
中条町の荒川神社蔵
 
図112 慶応元年(1865)の
三代吉本善京筆の大絵馬 
鰺ヶ沢町の白八幡宮蔵







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