日本財団 図書館


五 背景
 弁才船の主な外観上の変化は大略以上に尽きるが、最後に船絵馬の背景について一言述べて本章を閉じることにしたい。
 海上安全の守り神といえば、十人中九人は金毘羅様を思いうかべるに違いない。しかし、金毘羅信仰と船との結びつきは定かでなく、江戸時代になってから海運の発展とともに急激に盛んになったといわれている。古くは摂津の住吉神社、紀州の熊野速玉神社、安芸の厳島神社、筑前の宗像(むなかた)神社、出雲の美保神社、陸奥の塩釜神社といった神社がうまいぐあいに各地に分布していて、船乗りたちのあつい信仰をあつめていた。こうした古くからの海上守護神の中で最も広く信仰されていたのが住吉の神であった。
 はじめは、武庫(兵庫県)の莵原(うなび)住吉に祭られていたが、仁徳天皇が難波(なにわ)の高津に都したとき、墨江(すみのえ)の津、つまり難波の港にうつして海上安全の守護神としたのが、今の住吉神社という。現在でこそ海に遠い陸の中の神社になってしまったが、昔は海べりに位置し、鎌倉時代初期の『佐竹本三十六歌仙絵』の巻頭の「住吉社頭図」では、さすがに船の守り神にふさわしいたたずまいを見せている。
 江戸時代でも住吉神社が海に面していたことは確かで、寛文七年(一六六七)の『海瀕(かいひん)舟行図』を見ると鳥居の前の松林が海岸線になっているが、その後はだんだん土砂の堆積がひどくなり、幕末ごろでは海岸までかなりの隔たりができてしまった。神社と海とのあいだは水田などで、別に障害物がなかったため、海上からでも松林は見えたらしい。ただ、大坂出来の船絵馬がよく見えもしない住吉神社の本社を大きく描くのは日本独特の空間短縮の遠近法によるが、それだけに住吉信仰の強さが感じられるともいえる。
 船絵馬に背景が描かれるようになったのはかなり新しい。近世初期の朱印船の絵馬などでは何も描かないのがふつうだし、背景らしきものが登場するのは万治四年(一六六一)の金峯山寺の大絵馬(図7)が最初で、荷揚げの風景が描かれている。もっとも、この絵馬はいわゆる船絵馬の形式が確立される以前の作であるから、別扱いにしなければならない。とすると、船絵馬の背景がひとつの様式を確立するのは今のところ一八世紀中頃が上限になる
 
図101 天明期の久福丸の絵馬
寺泊町の白山媛神社蔵
 
図102 安永元年(1772)の絵馬
岩屋の敏馬神社蔵
 
 船絵馬の背景としての住吉神社は、宝暦・明和期(一七五一〜一七七一)からようやく多くなり、天明期(一七八一〜一七八九)以降、様式化される。大坂出来の船絵馬が住吉神社の背景を定着させた時期の作だけに、天明期に寺泊町(新潟県三島郡)の白山媛神社に奉納された絵馬(図101)の社殿、太鼓橋、鳥居の表現は、安永元年(一七七二)に岩屋(神戸市灘区)の敏馬神社に奉納された絵馬(図102)よりも明確になっている。実際の出現年代はもう少しさかのぼるのだろうが、ともかく一九世紀の中頃までに住吉神社の背景は完全に主流の位置を占めることになる。そこには船絵馬の量産地が大坂だったという事情があるにせよ、やはり住吉信仰が強く生きていたことを第一の理由に挙げなくてはなるまい。
 寛政一〇年(一七九八)刊行の『摂津名所図会』の住吉神社の項には、船主・荷主・船頭といった船に関わる人たちの信仰のあつさをこう記している。
 常に精心をこらし祷り(いのり)奉り、風波の難を避、渡海穏(おだやか)ならしめんとて出帆・帰帆ことに詣(けい)せずといふ事なし。社頭の神燈は諸国廻船中の輩(ともがら)より献し、夜燈のほかけは煌(くはう)ゞとして其光幾千の数をしらず
 船絵馬の背景としての住吉神社は、通例、享和元年(一八〇一)に大浜(香川県三豊郡詫間町)の船越八幡神社に奉納された船絵馬(図103)のように描かれる。こうした図柄をもって住吉神社と断定するのは、次の理由による。
 
図103 享和元年(1801)のプレ吉本派の絵馬
大浜の船越神社蔵
 
図104 住吉神社
船の科学館蔵『摂津名所図会』より
 
図105 出見の浜の高燈籠
『摂津名所図会』より
 
 第一は、四つの社があること。住吉神社には底筒男命(そこつつのおみのみこと)・中筒男命・上(うわ)筒男命の三柱(みはしら)の神と神功皇后が祀られており、それぞれが独立して本社を構えているので、四つの本社があるのを特徴とする。したがって、四棟の社(やしろ)を描けば、それだけで住吉神社を表現したことになる。
 『摂津名所図会』に載る住吉神社の境内の図(図104)によって本社の配置を説明しておくと、右手の廻廊に囲まれた奥の社殿が一本社(祭神は底筒男命)、廻廊前面の社殿が二本社(祭神は中筒男命)、その手前左手の社殿が三本社(祭神は上筒男命)、その右手の社殿が四本社(祭神は神功皇后)である。船絵馬の背景の社殿配置とはまるで違うが、このほうが正しいことはいうまでもない。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION