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五 第五期(明治時代〜大正時代)の船絵馬と船絵師
 文化期(一八〇四〜一八一七)から常に船絵馬の主流を保ってきた吉本派は、新興の諸勢力に押されてようやく衰微し、明治一五年(一八八二)頃にはついに終焉(しゅうえん)の期を迎えることになる。管見では、落款物は明治八年に江津市(島根県)の山辺神社に奉納された一面をもって最後とする。
 吉本派に代って日の出の勢いで船絵馬市場を席捲(せっけん)するようになるのが絵馬籐である。絵馬の裏に貼られた商標(図40)に明らかなように、絵馬籐は絵馬・羽子板の岩城ゑんま籐として大阪北堀江黒金橋北詰に店を構え、船絵馬ばかりでなく武者絵馬などさまざまな絵馬に腕をふるった(図41)。前述のように、明治三年に至ってようやく落款を入れた絵馬籐は、それまでの遠慮(?)を取り返すかのように、絵馬の大半を落款入りとし、船絵馬といえば絵馬籐を連想するまでに発展した。おそらく量産によるコストダウンに加えて、小絵馬から大絵馬に至るまで自由かつ迅速にこなす手腕が買われたに違いない。たとえば、瀬越町(加賀市)の白山神社奉納の大絵馬(図42)では瀬越の北前船船主広海家の持船一〇艘を一面にそつなくおさめ、一方、明治一五年の上木町(加賀市)の菅原神社に奉納された絵馬(図43)では両徳丸と泰平丸を船首尾から巧みに描いている。側面からではなく船首尾から見た二艘を配した構図は卓抜だし、とくに泰平丸の左舷斜め前方というむずかしいアングルでも器用にこなす腕はなかなかのものである。
 また難船絵馬に示された絵馬籐の表現力も大したもので、やはり船絵師としての実力は認めてやらなくてはならないと思う。一例を挙げておくと、明治二〇年(一八八七)に福浦(石川県羽咋郡富来町)の金刀比羅神社に奉納された難船絵馬(図44)は迫力満点で、数ある絵馬籐の難船絵馬のなかでも随一の出来といってよい。強風下で帆を三合に下げて、つかしで凌ぐ船を右に、船首を風上に立てて逆艫(さかども)で凌ぐ船を左に配して、舳の車立(しゃたつ)に金毘羅大権現の大木札を結わえ、乗組一同、空中に現出した金毘羅大権現の御幣(ごへい)に手を合わせて祈願する姿を劇的に表現している。両船が船首から船足を落とすために曳いている碇綱がいわゆるたらしで、左の船の綱がぴんと張っているのは、先に碇をつけているためである。
 ところで、明治時代後期になると絵馬籐も肉筆の絵馬を描いた。当時の国内海運に普及しだした洋式帆船の絵馬がそれである。相当数の洋式帆船の絵馬が全国的に流布しているが、大半は絵馬籐の作である。何ぶんにもスクーナー、ブリガンチン、バーケンタイン、バークと帆装や船体がバラエティに富んでいるため、版画化することができなかったのである(図45)。同様に需要の少ない小廻しのイサバ船とか猪牙(ちょき)船、あるいは紀州のダンベイ船などの絵馬も肉筆が珍しくない(図46・47)。こうしたさまざまな船を注文に応じてそつなくこなしたところに絵馬籐の成功の因があったわけで、やはり彼の力量は見直さるべきだということを繰返し述べておきたい。
 
図40 絵馬籐の商標
 
図41
 
絵馬籐筆の武者絵馬 風間浦村(青森県下北郡)の大石神社蔵
 
図42 絵馬籐筆の大絵馬 瀬越町の白山神社蔵
 
図43
 
明治15年(1882)の絵馬籐筆の絵馬 上木町の菅原神社蔵







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