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 こうした落款のない大和屋の絵馬も元治元年(一八六四)で跡を絶ってしまうので、たぶん大和屋は雪山一代で終ってしまったのかもしれない。どのような事情があったかわからないが、大和屋はこんな早く絶えさせるには惜しい船絵師であった。
 大和屋に次いで登場するのが吉川芦光である。絵馬は安政六年(一八五九)の引田町(香川県大川郡)の山王宮の一面(図34)しかなく、見たところ、大和屋の線を細くした感じなので、もしかすると大和屋の傍系ぐらいになるのかもしれない。いずれにせよ、大和屋と同様、吉本・杉本両主流にないすっきりした清新さは認めていいであろう。
 芦光は慶応期(一八六五〜一八六七)に作品の多い芦舟に引継がれてゆくが、その頃には時流に沿って版画利用に転換している(図35)。配色や細かい金具の彩色などに苦心の跡がみられるにしても、所詮は版画、どうしても類型化は避けられず、芦光の時代の魅力は失われている。そのためか、落款入りは、深浦町(青森県西津軽郡)の円覚寺と須佐町(山口県阿武郡)の皇帝社と松前町(北海道松前郡)の渡海神社にそれぞれ奉納された慶応三年(一八六七)の一面と河野村の八幡神社に奉納された明治元年(一八六八)と同四年の各一面(図36)くらいで、無落款物もその後間もなくして姿を消している。画風ばかりでなく、短命な点まで大和屋と似ているのも奇妙な符合というべきだろうか。
 
図35 慶応2年(1866)の吉川派の絵馬
中条町の荒川神社蔵
 
図36
 
明治4年(1871)の吉川芦舟筆の絵馬 河野村の八幡神社蔵
 
 吉川芦光の出現に遅れること五年、これまた新鋭の吉村重助が船絵師と称して登場する。初見は元治元年(一八六四)に大田市(島根県)の八幡神社に奉納された大絵馬で、彼は大和屋と同じようにわざわざ「浪花船絵師吉村重助」と落款を入れている。一面に一六艘もの弁才船を配した大画面はなかなかの迫力であるが、上には上があって、明治三七年(一九〇四)に鮎川町(福井市)の加茂神社に奉納された絵馬籐派の絵馬(図37)には二五艘も詰め込まれている。もっとも、数には圧倒されるものの、すべての船が同一構図で描かれているため、変化にとぼしく、右舷、左舷、船首、船尾と視点を変えて描いた吉村の巧みさには脱帽するほかない。
 吉川芦光同様、吉村の船体描写にはどこかに大和屋の影響が感じられるのは注目に価しよう。ただ、図面的な正確さが硬さとなって表面にでており、大和屋にみられた絵画性にはやや欠けるようだ。しかし、船首あるいは船尾から見た絵には、大和屋系と同様のよさがあり、それは同じ元治元年に輪島市(石川県)の光神社に奉納された落款のない絵馬(図38)にも巧みに生かされている。この絵馬は、港を出る一艘と帆を半ば下して港に入る一艘をうまく配したもので、筆者の好きな作品の一つである。落款はないが、画風からみても、帆を五合ほどに下げて入港しようとする弁才船が大田市の八幡神社の大絵馬にも登場するところからしても、吉村重助の作であることに間違いはない。
 吉村派は船体の版画化を遅くも慶応期(一八六五〜一八六七)には実現させており、明治時代に活躍する素地を作っている。この点が大和屋派や吉川派と違うところである。ただ、吉村派が初めから大和屋派とは別とすれば、また違う見方をしなくてはならないが、それは今後の研究にまつことにしたい。
 第四期の新興派の中には、無落款で終始しながら、第一人者の吉本派に追随していち早く版画利用の量産化を遂げた船絵師がいる。現存する作品数では、同じ新興派の大和屋・吉川・吉村の三派よりもはるかに多く、とくに安政期(一八五四〜一八五九)以降では杉本派を抜いて吉本派につぐ存在となっている。
 この派の絵馬の初見は、画風から判断する限り、弘化三年(一八四六)に剣地の八幡神社に奉納された一面である。以来、この派の絵馬は吉本・杉本両派とともに日本全国に広く流布するが、実はこの船絵師の正体は明治時代の代表的な絵馬屋である絵馬屋籐兵衛、本名、岩城籐兵衛、通称、絵馬籐なのである。
 目下のところ、絵馬籐の落款物は明治三年(一八七〇)に剣地の八幡神社に奉納された絵馬をもって初見とするので、一般には絵馬籐の船絵馬は明治時代以前にはほとんどないと考えられていた。けれども、明治時代以前の無落款物で、絵馬籐様式といえる特徴をもつ絵馬は、弘化三年以降、五〇面(図39)近くもある。したがって、第四期には絵馬籐と落款を入れた絵馬がないので、絵馬籐派という呼称はつけがたいが、数があまりにも多いうえ、完全に明治時代の絵馬籐に連続する様式をもつ点を考慮して、プレ絵馬籐つまり前絵馬籐派と名付けておくことにしたい。
 作画の手法は弘化期・嘉永期・安政前期では肉筆であるが、どういうわけか出来にムラが多く、一部の上出来のものを除いて、感心するようなものは見当らない。しかし、そうかといって、ひどい駄作もなく、やはり新興派に感じられる新しさが船頭・水主たちの購買意欲をそそったのであろう。
 
図37 明治37年(1904)の船絵馬
鮎川町の加茂神社蔵
 
図38
 
吉村重助の描いた元治元年(1864)の無落款の絵馬 輪島市の光神社蔵
 
 版画利用の時期は明確にはなしがたいが、遅くとも万延元年(一八六〇)には版画化した量産品が出ている。管見の限り、初出は三国町(福井県坂井郡)の白山神社と小木町の木崎神社に奉納された標準形式の絵馬である。これを初出とすれば、吉本派の版画化に遅れることわずかに一一年にすぎない。絵馬籐は誠に目先の効く人物だったようだが、ともかく前絵馬籐派の第四期における活躍には驚かざるをえない。それがやがて絵馬籐による明治時代の船絵馬の独占状態を現出するのだろうが、その基盤はすでに安政期には確立していたことを知っておかねばならない。
 
図39
 
文久2年(1862)のプレ絵馬籐派の絵馬 寺泊の白山媛神社蔵







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