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1. はじめに
 20世紀に入って、わが国は1万総トンを超える外航客船“天洋(てんよう)丸”級を生み出し、近代造船技術は欧米諸国に比べてもなんら遜色(そんしょく)がないほどに洗練されてきました。
 しかし、その船内装飾は昭和4年(1929)竣工で太平洋航路の女王と呼ばれた客船“浅間丸”に至っても、欧州(おうしゅう)の室内装飾メーカーに設計・制作を依頼して、照明器具、便器、浴槽、家具・調度(ちようど)品までその多くを輸入品に頼り、西洋クラシック様式あるいはそれに準じた宮殿風の装飾とするのが一般的でした。
 特に、欧州航路、北米航路をほぼ独占してきた日本郵船は、乗客の多くが欧米人であり競合する海外の海運会社も意識して、外航客船の船内装飾は西洋クラシック様式とすることを慣例としてきました。
 こうした慣例に対し、わが国の技術者の間でも世界に誇る日本古来の美術や伝統技術を生かした「日本様式」ともいえるような独自のデザインに基づいた船内装飾ができないものか、との思いが次第に生まれてきます。
 大阪商船(現:商船三井)の工務部長で造船技師として著名だった和辻春樹(わつじはるき)は船の外観に独自の流麗なデザインを採用するとともに、南米航路や台湾・中国など近海航路を舞台とする同社船では、海外に依存して高額な西洋クラシック様式とは異なる独自の「日本様式」を打ち出したいと考えていました。
 そこで、昭和2年(1927)に竣工した天津(てんしん)航路の新造貨客船“長城(ちょうじょう)丸”の船内装飾において、パリで日本の官許(かんきょ)の教育とは別の本格的な建築学を学んだ建築家中村順平(なかむらじゅんぺい)を起用することとしました。和辻・中村は、以降20隻以上の貨客船の内装設計を「日本様式」として、多くの経験と実績を積み重ね技術的基盤を確立させていきます。中村はかねてより、耐久性に乏しい日本の美術・工芸品をいかに船内の装飾に取り入れるかということに腐心(ふしん)し、日本の伝統美を再現するいわゆる「現代日本様式」を確立させたのでした。
 欧州航路の新造客船“新田丸”級3隻の建造が計画された昭和13年(1938)当時、世情は一気に風雲(ふううん)急(きゅう)を告げ国粋(こくすい)主義が台頭(たいとう)し、日本郵船は船内装飾の基本であった西洋クラシック様式の方向性を転換せざるを得なくなってきました。そこで、“新田丸”の一等公室の船内装飾に「現代日本様式」を初めて本格導入することとし、大阪商船の船内装飾で実績をあげた中村順平及び同じく建築家の村野藤吾(むらのとうご)に船内装飾を設計委嘱(いしょく)することとしました。
 しかし、大型優秀船3隻分の公室を一時に設計することなどとうてい不可能で、山下寿郎(やましたとしろう)(山下設計)、松田軍平(まつだぐんぺい)(松田平田設計)に設計の一部を委嘱、他の多くの公室、客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣が担当しました。また、客室の中でも特別室は特に織物で実績のある川島甚兵衛(かわしまじんべえ)(川島織物)に依頼しています。
 こうして、中村、村野、川島、三菱長崎造船所の設計陣をはじめとする多くの関係者が心血を注いで情熱を傾け、最優秀客船の名に恥じない「現代日本様式」の船内装飾の集大成を目指して、苦心して完成させたのが“新田丸”の船内装飾なのです。
 
2. プロムナード・デッキ
 “新田丸”の客船としての真骨頂(しんこつちょう)は、一等船客のためのプロムナード・デッキにあるといえます。長さ73メートル、幅24メートル、高さ3.5メートルのこの一層こそは、まさに装飾技術の粋を尽くした洋上の大宮殿とも言えるものです。瀟洒(しょうしゃ)で華麗な数々の一等の公室によってこのデッキは構成されていますが、広くて爽快な木甲板がさらにこの公室群の周囲をやさしく包み込んで室内と外界との緩衝(かんしょう)役をつとめています。このデッキの最も船首寄りにあるのは外舷に大型の角窓を並べたベランダ風の展望テラスですがこの空間は、後部の間仕切(まじきり)壁を開放することによって暴露(ばくろ)部と連結し、一周200メートルのプロムナードを楽しむことができるようになっています。
 なお、このプロムナードの後端には子供室があり、子供用の広々としたデッキも用意されていました。
 


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