心臓とも言うべき、蒸気タービン
「商船建造の歩み1887−1958」
4基備えられた水缶式ボイラ 三菱重工業
2基の大きなスクリュープロペラと舵 三菱重工業
機関部
欧州航路のような遠距離には、燃費の少ないディーゼル機関が最適ですが、当時は大出力機関がなく、“新田丸”には蒸気タービンが採用されました。これはまた、オーバーロードを必要とする空母にも適していました。
ボイラ・ルームには、4基の水缶式ボイラ(27kg/cm、390℃)と2基のドンキーボイラ(炊事(すいじ)や暖房用)があり、舷側の燃料タンクは船の安全性に寄与しています。
エンジンルームには、2基の三菱ツェリー式2段減速装置付き蒸気タービン(常用出力合計21,000馬力)と3基の600キロワット・ターボ発電機があります。
また、エンジンルームの後部は空調機器のスペースで、その上に冷凍機室があります。
公開披露のため停泊中の“新田丸”(上)と、飛行甲板上に運搬中の夜間戦闘機「月光」を搭載して、トラック島の泊地に錨泊する航空母艦“冲鷹”(下)。ほぼ同じ角度から改造前と改造後を比べたもので、その変貌ぶりは同一の船とはにわかに信じ難い、わずかに船首にその面影をとどめている 野間恒/大和ミュージアム |
5. 就航状況と空母への改造
“新田丸”は昭和15年(1940)3月23日、三菱長崎造船所で完成し、4月6日から14日まで東京港の芝浦岸壁で公開披露し、皇族はじめ一般の人々にも公開されました。
処女航海は、4月27日ほぼ満員の250人を乗せて神戸を出帆、上海、香港経由でマニラへ向かいました。マニラは太平洋航路の起点で、欧州航路用に建造された“新田丸”は、欧州で始まった第二次世界大戦のため、太平洋航路(ハワイ経由、サンフランシスコ・ロスアンゼルス行)に変更されたのです。
そして、“浅間丸”級3隻とともに太平洋を6往復したのち、昭和16年(1941)7月26日の米英両国による日本資産の凍結により、外国航路は中止となりました。1年余りの短かい活躍だったのです。
同年12月8日に太平洋戦争が始まり、“新田丸”は海軍に徴用(のちに買収)されて呉海軍工廠(こうしょう)で空母に改造され、“冲鷹(ちゅうよう)”と命名され昭和17年(1942)11月完成しました。
美しい公室の連なるプロムナード・デッキ以上が取り払われ、高さ約6メートルの格納庫が設けられました。その上が飛行甲板です。
しかし、制式空母に比べて小さく遅い“冲鷹”は、航空機輸送などに使われただけで、昭和18年(1943)12月、米潜水艦“セイルフィッシュ”の雷撃(らいげき)によって戦没し、短い生涯を終えました。
(文:今村清(いまむらきよし))
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