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<第6回>
私たちの海、恵の海〜外洋ヨット リブ号を通して〜
海洋ジャーナリスト 小林則子氏
 
 
 
司会 それでは皆様、大変長らくお待たせいたしました。「海・船セミナー2004」、本日が第6回目、最後のセミナーとなりました。本日お招きいたしました小林則子さんですが、ここに小林さんがお書きになりました『リブ号の航海』という本があります。これは1976年に文芸春秋社から発行されている本です。この本をいまから15年くらい前に読みまして、そのときずいぶんすごいことをされた女性がいるなと思い、いつかお話ししてみたいとずっと考えていました。たまたまご縁があり、5年ほど前に小林さんと初めてお話しして、今回こういう機会を設けさせていただきました。
 1975年に沖縄海洋博の博覧会協会の主催で、日本とアメリカ、太平洋横断ヨットレースというのがありまして、そのときに小林則子さんは参加されました。小林さんは日本人女性で初めて太平洋を渡った方です。いまは皆さんよく世界一周などに出掛けられていますが、当時の小林さんが取った航法は昔の航法、六分儀を使いながらお天道様と星を見ながら日本までレースを行いました。いまはGPSとか無線の設備も発達していますので、大変は大変ですが、昔ほど労力を使わなくてもいいという航海ですが、小林さんは昔ながらの航法を使って、サンフランシスコから日本までのレースに参加されたということです。今日は小林さんにそのときのお話、それからご自身の海や船への思いなどを中心にお話ししていただこうと思っています。
 それでは小林さん、よろしくお願いいたします。
小林 少し映像があったほうがいいかと思い、少しだけ映像を用意しました。今日はすごく暑いですね。今日は天気予報では18度とか19度と言っていませんでしたか。体感、実感ではもっとすごく暑いように感じました。天気予報って当たらないですね。余計な話ですけど、関係者がいたらごめんなさい。でもヨットで航海するときは、天気予報に気をつけて、手前、手前で避難をしたり、対処したりしないといけないので、とても気になっています。
 もちろん海上にいるときはNHK第2放送でやっているラジオを聴きながら気象図を描いていきます。1回20分かかって取って、それを作図するのに早い人で5分、のろまな人で10分くらいでやって、それからみんなで討議します。テレビが入るところですと、小さいテレビを入れて天気図を見たり、衛星画像を見たりといったことに利用していて、命と直結して大事なものだと思っています。
 陸上でもそういう習性があるので、天気予報に関してはいつもすごくシビアに、どきどきしながら見ています。だいたい天気予報は陸上のことしか言いません。陸上ではいま瞬間最大何メートルの風が吹いたとか、避難勧告が出たと言いますが、そういうときは海の上は大変で、それよりずっと前に避難するべき船は自分で決めた避難泊地に出向いてアンカーを降ろしたり、とてもどきどきしながら自分の位置、台風のときにどこにいようかということを気にしています。
 日本の沿岸の船の人たちは当然テレビを積んでいるので、私の希望としては、具体的事実が欲しいと思います。はっきり言っていつも間違うのですから、予報はいいんです。このごろは天気予報がはずれるというのは冗談にもギャグにもならない事実になってしまいました。実況天気図と実況の予報と、台風などが来ているときは、台風が行ったあとに「上空にこういう強い気流があって」などと言ってくれるのですが、予報のときに、現在台風はここにいて、このへんに強い気流が流れていますというのも、データをできるだけたくさん出してほしいと思います。そうすると海の人だけではなく、畑仕事の人も、山仕事の人も、長年培ってきた気象の伝承などをみんな持っているので、具体的データが入って研ぎ澄まされて、ちゃんと人に伝わっていくものになると思います。
 それは海の文化とか海の技術なども同じだと思います。脱線してしまいますが、私は日本を巡る航海を2周半くらいしていて、港に入ると必ず漁師さんに「明日はどうなりますか」と気象の情報を伺います。そうすると本当に当たるのです。天気予報とは全然違うことを言っていても、紀伊半島に行ったときはパッと空を見て、「この雲じゃ潮岬は荒れているだろう。明日は荒れるから出ないでいなさい。あるいは出るんだったら、こういうコースで走りなさい」ということを言ってくれます。
 本当にそのとおりになったのですが、もう一つ驚いたことがありました。漁師さんが言ってくれたことは、江戸時代の航海のメモになっている古い文書があって、ここからこの港にこの季節に走るときはこういうふうに気をつけて走りなさいというコース、風によるコース、季節によるコース、避泊をする場所、こういう山が見えたら危ないから気をつけなさいということが書かれている。つまり山が見えるということは、向こうで強い風がビュンビュン吹いてくるから、間もなく自分の海上へ来る。それは書いてある注意とまったく同じで、これには本当に驚きました。私たちの日常の中にあるいろいろな知恵は本当に貴重なもので、大事にしなければいけないと実感しました。暑い話から余計なことを言ってしまいました。
 いまご紹介の中に太平洋の横断の話がありましたが、これは1975年で皆様の中にはまだお生まれになっていらっしゃらない方もいらっしゃると思います。ちょうど海洋博の年で、不勉強であとから知ったのですが、この年は国際女性年ということで、女性の権利とか、女性も人間だという宣言の年であったようです。私はそのへんに大変疎いので、航海が終わって帰ってきてから「ああ、そうだったの」という感じでした。エベレストに女性だけの隊が登って成功したという年でもありました。
 これは1975年9月にサンフランシスコをスタートして、沖縄の海洋博会場の沖まで1人で走るというヨットレースです。ヨットレースですから、もちろんエンジンは使えません。それから当時のレースのルールとして、エレクトロニクスのナビゲーション、助けになる機械は使ってはいけない。ロランとかレーダーももちろんいけないという状況でした。もちろん衛星航法装置もありませんでしたし、現在のGPSもありません。ですからまったくそういうもののない、一時代前の、どちらかというと帆船航海の時代の近いようなレースの仕方でした。
 距離は約1万2000キロです。コースと距離はそんなもので、使ったヨットはここでもおわかりかと思いますが、全長9メートルの1本マストのヨットです。9メートルというと、ちょうどこの部屋の横幅の半分くらいの全長のヨットです。セールは基本的に2枚張って走るということで、57日かかって沖縄まで着きました。いろいろなことがたくさんありましたが、この航海を通じて私は1人で船を走らせて安全に航海するという技術の基本のようなものが、理屈ではなく、実感としてわかったと思いました。
 75年の航海が終わって、76年に航海記を書いたりして、そのあと航海の後始末を少しして、それが一段落ついた1978年から日本の歴史航路を回る航海というのを始めました。これはいまも続いていて、第20次の航海まで終わっています。それぞれ一つずつテーマをつけて、たとえば東京とかかわりのあるものですと、江戸とかかわりのある航海はもちろんたくさんありますが、奈良から江戸まで酒を運んだ樽廻船という液体専用船が江戸時代に走っていました。
 それから紀伊国屋文左衛門のみかん船の航路とか、北前船の航路で関西から北海道まで、西回り航路、古いものでは遣唐使の航路で中国、渤海使の航路で朝鮮、あとは瀬戸内海の海賊の根拠地を訪ねたりしました。もっと古いものでは紀貫之の『土佐日記』の航海で、土佐から出て大阪まで航海をしたり、平家の壇ノ浦から関門海峡で没するまでの海上の戦いと、逃げていったあとを辿った航海とか、沖縄までの山原船の航海、そういったさまざまな航海で20種類の航海をしました。
 オホーツク海側はまだ行っていないのですが、だいたい日本を2周半、航海し、何回か入った港も含めて250の港に出入りしています。当然、航海の準備は最新の海図を揃えるということを前提にしていますが、海図は高いので何百枚もというとすごい金額になってしまって、新品を買えないところは機帆船の人が使っていた中古の海図を譲っていただいて使っています。ただし港に関しては、最新の港の拡大図だけは買いに行って使うようにしています。
 ただとても不思議に思ったのですが、最新の修正が入った日付まで書いてある港の海図を買ってきた有田の港は、実際の港と海図は全然違っていました。1カ月とかそのくらいの日付が入って修正と書いてあるのに、実際ははるか昔の防波堤もできる前、港が拡大される前だし、灯火も違うというひどい海図に大枚をはたいて、あとで文句を言ったのですが、「あの、でも」と言われてそのままになってしまいました。
 それはたまたま昼間入るようにしていたのと、事前取材に行ったときに陸上の地図が1万分の1とか2万5000分の1というのがありますが、その1万分の1の地図をたまたま買っていたので、そちらのほうが確かでした。ただし水深とか水中の状況はわかりませんから、それを頭の中で合わせて見るということをしました。そんなふうに航海して、私たちが言えることですが、幸いにして無事故の航海ができたことを感謝しつつ、小さく誇ってもいいのではないかと思っています。
 ただ、一つだけトラブルがありました。私たちは港に入るとき、必ず船首に見張りを立てて、もちろんエンジンはスローにしますし、人がいれば両サイドにも人を立てて、すぐに対応できるように、本当に注意しながら海図にない浅瀬はないかとか、沈んでいる障害物はないかというようにして航海します。そうやって助かったのは、瀬戸内海の港に入ろうとしたとき、港の両側のライトが見えて、真正面に漁協の建物が見えました。このまままっすぐ行けばいいということで走っていったら、番の人がいきなり右でも左でもとにかく回れという合図をしたので、クルッと回ったんです。そばに行ってよく見たら、水面下1メートルくらいのところに長々と防波堤が沈んでいました。夜で見えなかったら完全に乗り上げていたと思いました。


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