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■氷海航行について
 いよいよ日本の南極観測の話に入りますが、先ほど申し上げたように冬期間、南極大陸の周りは非常に厚い海氷に覆われている。南極大陸は1400万平方キロメートル、日本列島の37〜38倍と非常に大きな大陸ですが、その周りに2000から3000キロメートルの沖合まで、冬の間ずっと氷が張り出すわけです。それが夏には一部を除いて無くなってしまいます。昭和基地はリュツォ・ホルム湾の中にあります。リッツォ・ホルム湾の西にはリーセルラルセン半島が突き出ているので、この湾には非常に安定的な定着氷、つまり岸にくっついた動かない氷、海氷があり、現在の気候では1年間に1メートル50の厚さになります。海氷は厚くなると断熱材として働くのでどんどん厚くはなりませんが、風などで割れて動いて重なったりすると、場合によっては3〜4メートルの厚さになります。そうしたしっかりした定着氷が存在しているわけです。
 リュツォ・ホルム湾は南極大陸周辺でも非常に接近しにくい場所のひとつといわれています。白瀬隊が明治の終わりに小さな船で南極へすっと行ったのに、何でいま南極観測隊は南極大陸の接近に苦労しているのかと思われがちですが、そういう海氷の事情なのです。南極はどこでも同じではないということです。この状況を理解していただかないと、われわれがなぜ新しい砕氷観測船の必要を要望することに対し、そんな強力な船はいらないのではないかと言われると困るわけです。
 “宗谷”はこの大変なところをすごく苦労して湾内に入っていったわけです。今日の講演会の帰りに“宗谷”を改めて見ていただきたいと思いますが、あの小さな船がすさまじい海氷と戦って南極観測を行ったのです。退役したとはいえ“宗谷”も寄る年波に勝てずにだんだん傷んできているということで、なんとかちゃんと保管しようということで、現在船の科学館を中心に宗谷を保存する会の方たちが努力されているわけで、ぜひそういう点でもお力添えをいただければと思います。
 ここに元“しらせ”の久松艦長がおられますが、氷海航行は船の性能だけではなく、操艦技術もなかなか大変だと思います。艦長の判断で押したり、退いたりして、また、天候や風の具合を見ながら氷海を進んでいくのです。
 “宗谷”は、満載排水トンが4900トンぐらいでしょうか。砕氷船は船の重さで氷を割りますから、重さという意味では満載排水トンで表現したほうがぴったりきます。この重さでは50〜60センチの氷しか割れない。この船ではとてもリュツォ・ホルム湾には入っていくことはできなかったのです。“宗谷”がともかく第1次観測隊を昭和基地に送り込めたのは僥倖ともいえる当時の海氷の状況の良さにあったのです。
 “しらせ”は満載排水トンが1万9000トン近くあります。この付近の定着氷は1メートル50くらいの厚さがありますが、5ノットで連続して砕氷をして行くことができます。私が隊長を務め、久松さんが艦長であった35次隊では、湾内の定着氷が堅く、非常に厚いところもあって、4メートルぐらいはあったでしょうか、そこでどうしても進めない。艦長の判断でここから先に入ったら大変だということで、そこからはわれわれが氷の上に輸送ルートをつくって輸送しました。燃料はヘリコプターで輸送しました。“しらせ”は強力な砕氷船でこういうことはめったにありません。
 “しらせ”クラスの大きさになりますと昭和基地まで砕氷してスッと入っていきますが、二代目の“ふじ”は満載排水トンが9000トン程で、“しらせ”の半分ぐらいですが、18回の砕氷航海で昭和基地まで入っていけたのはそのうち6回しかありませんでした。“ふじ”は海氷厚1メートル程度の砕氷能力しかなく、その程度の能力ですとリュツォフォルム湾の定着氷に対して能力不足ということになります。
 砕氷というのは、定着氷に乗り上げて行って船の重さで氷を割り、またバックしてまた乗り上げるということを繰り返していくのですが、氷が薄いときや比較的軟らかいときは、割にスーッと砕氷していきます。しかし南極は毎年、毎年気候が違って、いつも同じわけにはいきません。“宗谷”が最初に南極に行ったときはたまたま海氷の状況が砕氷航行にとって非常に楽な状態にあったということでしょう。時によってはそれとまったく反対に、“しらせ”でも割れない状況もあるということです。
 “しらせ”が昭和基地の近くまでやってくると、定着氷にアンカーを打って停泊し、そこからパイプラインを引いて燃料を輸送します。いま1000トン近くの物資を持っていきますが、そのうち500〜600トンは油です。昭和基地に近づければ油をパイプラインで輸送できますが、35次隊のように近づけないとなるとドラム缶に200リットルずつ入れて何回も輸送することになります。500トンを200リットルのドラム缶に入れて運ぶわけですから膨大な数になって、何千本をヘリコプターで運ばなくてはならない。そういうときもあります。
 一般的にいって、“しらせ”程度の船があれば安定して南極観測は続けられます。今年22回目の航海に出たのですが、25回目の航海で引退することになっており、その後継船としては“しらせ”とほぼ同じ規模か、もう少し大きい程度で十分です。燃料の輸送量は少し増えるだろうと思います。
 最近は環境保全に関して非常に厳しくなっており、二重の船殻でないと北極海の場合には航海できないことになっています。砕氷航海中にたとえば船殻が壊れて油が漏れたりすると海洋を汚染するわけですから、そのルールはいま南極海に適用されようとしています。
 後継船は二重船殻で造らなければならないと考えています。船が定着氷とぶつかって乗り上げて割って、またバックしてということを繰り返すことをチャージング(ラミングともいいますが)といいます。35次隊では、この時私が隊長で艦長が久松さんですが、氷縁から昭和基地まで35日もかかりました。この時、チャージングの回数は3000回ぐらいですが、途中で砕氷をあきらめています。もし続けたなら、4000回から5000回ぐらいになったでしょう。31次から37〜38次の間はリュツォ・ホルム湾の氷が厚く、非常に固くなった時期です。
 たとえば26次、27次はチャージング回数も少なく、容易に進入しています。29次でも私と久松艦長は一緒だったのですが、そのときは昭和基地へはスーッと入れました。最近もスムーズに入っています。海氷の状況は固い時期があって、しばらく続くと軟らかくなって、また固い時期が来るというように、リュツォホルム湾の定着氷の状況は一定ではありません。去年こうだったから今年もこうだろうということはないわけです。いつもどういう状況になっても対応できるという幅を常に考えながら頑張っているわけです。
 1次隊の時の“宗谷”は運のいいことに氷の状態の良いときに当り、2次隊は湾内に入っていけず、オングル島に上陸できませんでした。また、犬を連れて帰ることができなかった。意図的に置いていったわけではありません。飛行機便が飛べたとき、すぐに犬を使うために鎖につないで来たのですが、その次の便が飛べなかった。だから犬をそのままにしたのはやむをえなかったのです。その後“宗谷”ではリュツォ・ホルム湾の定着氷は割ることができないことを知り、そして二代目の“ふじ”になっていきます。“ふじ”でも18回の輸送うちたった6回しか接岸できなかった。物資のほとんどをヘリコプターで輸送しています。そして三代目の“しらせ”になってやっと安定した輸送ができるようになりました。ここまでが船の話です。
 あまり余計なことを言うとボロが出ますので、そろそろ南極観測に話を転じます。
 
■南極観測の始まり
 日本の南極観測はいま昭和基地、みずほ基地、あすか基地、ドーム基地で行われています。日本の観測領域は昭和基地南方の氷床で、みずほ高原を中心に、ほぼ1000キロ×1000キロの範囲で、日本列島のおよそ3倍の面積の地域をわれわれは観測しています。
 南極大陸は大きく、東南極大陸と西南極大陸に分かれています。東南極大陸は面積で全体の74.4%、体積比で86.5%、南極大陸の大部分が東南極大陸ということになります。現在、内陸には南極点基地、ドームふじ基地、ドイツのハインツ・コーネン基地があります。それからロシアのボストーク基地がありましたが、いまは閉鎖しています。
 イタリアとフランスは協同運営のドームCという夏基地をもっています。アメリカのバード基地もいまは使っていません。いま、南極の内陸の越冬基地は一時的なものを含めて、2〜3箇所で、他は全部沿岸にあります。内陸に基地をつくること、それを運営することは非常に大変だということも知っていただきたい。
 これまで南極大陸という言葉を使っていますが、南極大陸とは見かけの姿で、実際には氷の下の大陸基盤を示します。地殻には大陸地殻と海洋地殻があり、大陸地殻はだいたい花崗岩質の岩からできており、海洋地殻は玄武岩質の岩からできています。大陸地殻は比較的比重の小さな岩石でできています。その上に南極氷床という非常に大きな氷が乗っています。東南極大陸は平均の標高が2653メートル、平均の氷の厚さが約2638メートルですから、氷を全部取ってしまうと平らな地面になる。それに対して小さいほうの西南極大陸は平均の標高が1342メートル、氷の厚さが1782メートルということは氷を取ってしまうと基盤岩の表面は海に没しているわけで、海水面上に出ていないということになります。この平均の大陸標高2600メートルとか2300メートルというのは非常に高い大陸です。ユーラシア大陸の平均の高さは890メートルくらいで、氷床の乗っていない大陸はその程度の高さを越すことはありません。
 なぜこんな高い大陸ができるかというと、氷が花崗岩の3分の1の比重でしかない。つまり軽い物質、氷で作られているからです。だから高く積み上げることができる。地球の表面は地殻均衛説で見れば、表面の重さが一定になるようになっていますから、重いものを乗せると沈んでいく、軽いものを乗せると高くなるという仕組みになっています。ですからこの氷が全部解けてしまうと当然この大陸はずっと浮き上がってきて、そしてだいたい900メートルぐらいの高さになるということです。重要なことは南極大陸とわれわれが言っている大陸は基盤岩石の上に厚い氷が乗っている地形を示しているということです。この大きな氷の堆積層のことをわれわれは「氷床」と言っています。大きな氷が乗っている南極大陸は、見かけは大陸ですが、われわれ雪氷学者から見るとこれは南極氷床だというわけです。しかし一般的には南極大陸と云っても間違いではないでしょう。
 東南極氷床は南極氷床の全体に対して体積にして86.5%、西南極氷床は11.6%です。
 いま地球温暖化が話題になっていますが、もしそういうことが起こって氷が解けるとすればこの西南極氷床でそういうことが起こるだろうと考えられています。
 いま南極大陸で地球温暖化の影響が現実に進行しているとすれば、西南極氷床の南極半島の先端付近でその影響を受けていると云われています。しかし東南極氷床はたぶん影響を受けていないというか、現在の状況では非常に軽微な影響しか受けていないと考えています。
 南極氷床は非常に厚い氷でできていますから、たくさん雪が降ると思われるでしょうが、実際は非常に少ない降水量です。大きな大陸で、標高が高いために水蒸気が内陸に入っていくのは非常に難しいのです。沿岸から200kmも入った奥地の年間の降水量は100ミリ以下の地域です。さらに奥地に入ると50ミリ、ちなみに東京の降水量は年間1400ミリ程ですから100ミリというのはほとんど砂漠の気候です。南極大陸のことを「白い砂漠の大陸」という表現があるくらいです。
 南極氷床内陸域は、延々と続く平坦な大雪原で、下の地形とも関係するのですが、この氷は年間10〜100メートルの速度で、常に海に向って流れています。場所によっては年間3000メートルも流れる場所もあります。そうした場所のひとつに「白瀬氷河」という、収束流が昭和基地の近くにあります。氷床の流動はシートフローというゆっくりと一様に流れているところと収束流という動きの大きいところの二つに分けることができます。要するに南極氷床は常にゆっくりと流動している固体の水の循環システムです。
 わが国の南極観測隊は1956年11月に日本を出て、翌年1月に昭和基地を建設しました。
 当時全体で174平方米、四つのプレハブ小屋を建てました。ここから日本のプレハブ建築が始まったといわれています。日本建築学会が委員会をつくって、素人でも建てられ、かつ非常に堅牢にして断熱性がよいという建物を考えたのです。現在は当時の建物はほとんど残っていません。数年前に新しい基地建物をつくりました。当時は“宗谷”の時代ですから物資はほとんど運べなく、輸送量は全体で150トン、そのうち燃料は30トン、20kVAの発電機2機で11人が越冬を開始しました。いま越冬基地を持っている国は18カ国、夏基地を持つのは27カ国ありますが、昭和基地がつくられたころは主として沿岸域に12の国が基地を作っています。
 いま南極観測は南極条約の下に国際協同観測としてやっています。1961年に南極条約が発効するのですが、日本は最初の12カ国の原署名国の一つで、現在は45の国がこれに署名しています。この条約の目的は、一つは領土権の主張を凍結して科学活動の自由に認めることになります。領土権の主張を否定するわけではありません。科学的な観測に関しては一般的には制約はありません。しかし軍事的な活動は一切認めない。ただ設営的支援に軍隊を使うことはかまわないことになっています。核実験をしてはいけないとか、相互査察は認めるとかが決めてあって、1961年からその条約のもとに観測が進められています。最初の30年間はこれを変えることはできないということになっていました。1991年に最初の30年が過ぎましたが、以降どこかの国がこれを変えようと発議して2分の1が賛成すれば変えられる、あるいはこれを破棄することができますが、南極の状況はこのままがいいだろうということで、現在はあらたに環境に関する議定書もつけられていますが、ともかく鉱物資源の調査などの生臭いことはやめて、ずっとこのままやっていこうという状況になっています。わが国が毎年南極観測隊を送るということは南極条約の下に国際協力観測体制の一環としてやっているということになります。
 こうやって南極観測は始まりました。1956年11月に第1次南極観測隊が出発して、南極条約ができて、そして1965年に“ふじ”が竣工しました。第7次隊が昭和基地を再開し、昭和基地〜南極点旅行、あるいは大和山脈の調査が行われ、隕石が発見されるとか、ロケット観測に成功するなどがあって、1970年には「みずほ」という内陸の基地がつくられます。ただこの二代目の“ふじ”はリュツォホルム湾の氷海航行には力不足でなかなか安定的に昭和基地に物資を送り込むことができなかったわけで、18年で引退します。1982年に現在の三代目の南極観測船“しらせ”が竣工し、以降大規模な観測計画が可能になりました。たとえば1985年には「あすか」というまた別の内陸山岳地付近に基地がつくられました。それから1993年には昭和基地を全部新しく建て替えました。
 “宗谷”が150トン程度、“ふじ”が500トン程度の物資しか運べなかったのですが、“しらせ”は1000トンの荷物を運ぶことができて、非常に大規模な観測ができるようになりました。1993年には「ドームふじ」を昭和基地から1000キロ奥地に建設しています。
 1989年には初めての女性隊員が夏隊に参加して、1998年には女性が越冬隊員として参加するというように、“宗谷”が初めて行った以降、いま越冬している第45次隊までには、基地も船も変り、規模もどんどん大きくなって観測も本格的になってきたという歴史を経ています。その観測をご紹介いたします。


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