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 彼は少し変わった人で、その偉業はあまり詳しくは知られていません。彼はまた20世紀の初めに“サザンクロス”という船で南極に行っています。探険資金の出資者という意味で、歴史的には英国隊ということになっていますが、彼はノルウェー人で、そのほかいろいろな国の人が集まった国際隊でした。そして彼等は東南極大陸のアデア岬に上陸します。アデア岬は、いまから見ると船で非常に接近しやすいところです。東南極大陸の一角ですが、日本も第一次南極観測隊を送り出すときにアデア岬に基地をつくりたいという希望を出しましたが、伝統的にイギリスが権利を持っているようなところで、それはかないませんでした。そこに人類で最初に越冬基地を作り、越冬に成功します。そしてさらに彼が偉いのは、78度50分まで内陸旅行をしたことです。これでともかく南極に人間は住むことができる、内陸へ進出できるということを彼は認識するわけです。
 そしてヨーロッパに帰り、彼は「南極年」というもの提唱します。その南極年は実現し、いくつかの国が南極大陸に行きます。スウェーデンのノルデンショルドとかドイツのドリガルスキー、英国のスコットといった人たちが探険を行っています。その後、シャクルトン隊は、1909年1月9日に馬を使ったそりで、88度23分に達しています。人類が南極大陸に足を踏み入れて10年以内に88度に達したのです。シャクルトンは最近評価が高まっています。偉い人ですが野心家で、ちょっと野心家すぎてイギリスではしばらく評判が悪かったのです。
 そのあと1910年から12年にかけて、一つはイギリス隊のスコット、それからノルウェー隊のアムンゼンが南極点に向かいます。アムンゼンは1911年12月14日に南極点に到達し、それから35日遅れて、スコットもやはり到達するのですが、到達した極点にはアムンゼンが残したテントとノルウェー旗がありました。スコットは基地に帰る途中で食糧がなくなり亡くなってしまいます。
 アムンゼン隊は極地旅行のベテランらしく犬ぞりを使って相当なスピードで鯨湾〜極点間の雪原を往復しています。食糧がなくなったら犬ぞりの犬を、もちろん犬のえさにするのですが、当時はこうしたやり方に批判もありました。スコット隊は科学的な観測に熱心で、南極点に向かう途中に露岩があるのですが、そこの岩石のサンプリングなどもしています。犬を使わずに人が引くそりで旅行していますが、その岩石試料なども死ぬまで持っていたということで、日本ではスコット隊は非常に賞賛されています。反面、アムンゼンはあまり評価されなかったようです。実際の旅は甘いものではなく、アムンゼンの旅行のやり方は評価すべきでしょう。
 アデア岬は、ロス海の入口付近にあり、その奥にはマクマードというアメリカの大きな基地があります。ロス海という地名は、ジェームズ・ロスが1839年から43年の探険航海でロス海に入り、エレブス火山などを発見したことに由来しています。ロス棚氷も彼の発見です。アムンゼン隊はロス棚氷に沿って東航し、鯨湾に基地を作りました。アムンゼンが南極点から帰ってきたときに、彼はフラム号という船でノルウェーから来たのですが、そこで白瀬隊の“開南丸”と出合っています。
 白瀬隊の第1回目の航海は明治43年(1910)から44年(1911)にかけてで、このとき日本を11月30日に出発しています。その出発時期は遅すぎたのです。船は“開南丸”(204トン、18馬力)という小さな機帆船でして、結局南極大陸に近づくことができませんでした。一回目の後、日本まで帰らないでシドニーに入港して、そこでキャンプ生活をし、白瀬さんだけが日本に帰って探険資金を集め、翌年、明治44年(1911)11月19日にシドニーを発って、明治45年、大正元年ですが、1月12日に鯨湾に着いて基地を作っています。彼らは1月20日に内陸に出発し、1週間程犬ぞりで内陸を進み、283キロの旅行をしています。この到達したところを「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して帰ってきます。
 白瀬隊が本気で南極点を目指したとは思えませんが、彼らが出発したころにはまだ極点にアムンゼンが到達したことは知らなかったわけです。ともかくこの時代、日本から南極にほとんど極地の経験のない人たちがそれなりの準備をして、南極大陸に到達して、そしてこれだけの旅行をしたということは非常に偉大なことです。この成果が現在のわが国の南極観測の礎となり、日本の極地探検あるいは観測の歴史が国際的にそれなりに認められている背景になったと思います。白瀬隊は非常に重要な企てをされたと私は思っています。
 1900年代の初めの10数年は英雄の時代といわれていますが、アムンゼン、シャクルトン、スコット、モーソンといった偉大な探検家が活躍した時代です。それから第一次世界大戦(1914〜18)が始まり、しばらく南極探検は中断します。第二次大戦後に本格的な南極観測がはじまるまでの間にリチャード・バードというアメリカの海軍軍人が1928年から29年にかけて、鯨湾にリトルアメリカエという基地を作って飛行機で南極点の初飛行をしています。しかしこれはいまでは本当に到達したかどうかに関しては少し疑問が残っていますが、ともかく南極で飛行機を使う時代が彼によって開かれました。バードは1933年から35年にかけ、再び南極にリトルアメリカIIという基地を作り、越冬しています。あとから話しますが、この時は国際協同で南極、あるいは北極の観測をしようという国際極年の第2回目にあたります。そのときには鯨湾から170キロメートルの奥地で5ヶ月間単独で気象観測しています。最終的には彼は一酸化炭素中毒になって助け出されるのですが、これも南極探検史の中で非常に大きな話だと思います。
 第二次世界大戦のあと、リチャード・バードはその頃には海軍少将になっていましたが、歴史上最大の南極探検を指揮することになります。いまここの講演会にいらっしゃる方々はたぶん昭和20年、第二次世界大戦が終わった頃は小学校に入られていたか、その前だったと思うのですが、当時、南極大陸の輪郭の60%は未知の状態だったわけです。つまり大陸であることはわかるけれども、大陸がどんな形をしているかは正確には知られていなかったのです。それでアメリカ海軍は第二次世界大戦で使った艦船、駆逐艦とか巡洋艦、潜水艦、あるいは航空機をこの周辺に展開して、沿岸域の空中写真撮影のための作戦をします。1946〜47年、昭和21〜22年ですが、「オペレーション・ハイジャンプ」という非常に大規模な科学的探検をするわけです。翌年には「オペレーション・ウィンドミル」と称して、今度は露岩域に要員をヘリコプターで送って天測や測量を行い、南極大陸の周辺の地形図を作り、その輪郭を明らかにしています。
 南極は1821年に発見されて、1840年代にはすでに科学的な成果を上げています。たとえば南磁極はフランスのデュモン・デュルビルが見つけています。アメリカのチャールズ・ウィルクスは、南極大陸の周辺の科学的な観測のための航海を行い、大陸であることを実証するわけです。それ以降、南極大陸「アンタークティカ」と呼ばれるようになりました。またジェームス・ロスはアデア岬を発見し、さらに奥に進みロス海とかロス棚氷を発見しています。南極大陸の探険史はキャプテン・クックの航海から40年間の空白があり、1820年代に南極大陸の発見がある。その後20年間何もなく、1840年代に若干の科学的な調査が行われ、それからほとんど50年間の空白が続き、今度はボーヒグルビンクが初めて南極に越冬して、そして、いわゆる「英雄の時代」が始まって、そして南極点到達が行われます。どういうわけか探検の盛期はこのように間歇的に起こっています。ヨーロッパ、アメリカなどの国々の様々な歴史的状況、世情を反映しながら、ある時代には探検志向が高まり、また拒ばれるということを繰り返してきたわけです。最終的には第二次世界大戦のあとのハイジャンプ作戦という形になって、それ以降はいまの日本の南極観測もそれに含まれますが国際地球観測年以降の国際協同による長期的かつ、組織的な観測の時代に入ってきたということになります。
 南極や北極といった極地を観測することはもちろん重要な事に間違いないのですが、ああいう人跡未踏の寒い場所での探険、観測に資金もかかりますからなかなか簡単には行えないのです。
 
■国際極年の始まり
 しかし、文明がだんだん深まってくると、たとえばマルコニーによって無線電信が発明されますが、なぜ電波が届きにくい状態が起こるのか、電離層がその現象と関係することはわかっていたのだが、電離層はどのように変化するのか、そのように地球全体の現象の発現の仕組みを知らないと一つ一つの現象が理解できなくなる。そういった地球物理現象の重要性を19世紀の終わりには人類はすでに認識しています。
 提唱された背景にはいろいろな考えや出来事があるのですが、第1回国際極年はアメリカ人、あるいはオーストリア人の提唱によって1882年から1883年に行われます。国際的に協同して南極および北極を観測しようではないかという最初の企てです。明治15年頃ですが、当時の日本は西南戦争が終わった頃でとても本格的に参加する状況にはなくて、ただ、地磁気の観測が東京で初めてを試みられたと言われています。
 第1回から50年目に再び極域に関する協同観測をやろうという提案があって、第2回極年は1932年から33年に行われました。これはちょうど先ほど申し上げたリチャード・バードが南極大陸内陸で単独で越冬した時代です。そのときは南極域でも少し観測されたのですが、大半は北極の観測です。日本はもちろんこの国際協同観測に参加しましたが、南極、北極の極地に行くのではなくて、日本の国内観測に参加しています。その時わが国の気象観測網が整備されたと言われています。
 第3回目は、50年後ということになると1983〜84年になるのですが、25年目に行われています。第二次大戦後、アメリカ海軍のハイジャンプ作戦によって、南極大陸の輪郭はわかったのですが、内陸域についてはほとんどわからないという状況にありました。また、当時は冷戦が始まりつつあって、南極大陸がそうした状況に巻きこまれては大変だという背景もあって、第2回から25年目の1957年から58年に第3回国際極年をIGY(国際地球観測年)という名称のもとで実施することになりました。この時わが国も南極観測に参加することになりました。こういう歴史的な背景のもとに南極はだんだん人類にとって非常に重要なところという認識が高まり、とても単独では十分な観測はできない、国際協同の下に組織的、長期的に行うべきであるということになって始まったわけです。こうして協同観測が始まった後、継続的に観測を続けるために南極条約を締結します。
 IGYでは、気象、電離層、潮汐、地磁気、測地等、地球を知るうえでどうしても必要な基本的な地球物理情報をまずちゃんと観測するという取り決めがあります。こうした観測は定常観測ということで現在も続いています。担当は、気象は気象庁、電離層は電波研、その後通信総合研究所、潮汐は海上保安庁の水路部、測地は国土地理院です。担当機関の名前は現在ずい分変っています。研究観測はIGY時代から次第に拡大して、オーロラなどの超高層物理、気水圏科学という地上から対流圏、成層圏を含む地上から100キロくらい上空までの範囲の大気研究及び雪氷圏の研究、地球物理、地質、地理、地形などの研究、そして海の生物、陸の生物の研究、そのように研究領域がだんだんと拡大してきたわけです。


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