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<第5回>南極観測 その歴史と未来
国立極地研究所 所長 渡邉興亞氏
 
 
 
司会 皆様、大変お待たせいたしました。ただいまより海・船セミナー2004、本日は第5回目といたしまして、国立極地研究所の所長、渡邉興亞所長にお話ししていただきます。皆様もうご存じのとおり、渡邉所長は11次、15次、そして29次、35次隊では観測隊長として活躍されました。本日は先ほど12時から約30名の方と一緒に、本日は46次の南極観測へ出発した“しらせ”を見送りましたが、渡邉所長は晴海で“しらせ”を見送ってこちらに来られたということです。今日は南極観測のエキスパートとして、新聞・テレビ等で皆様ご存じの渡邉興亞所長にお話ししていただきます。
 それでは渡邉所長、よろしくお願いいたします。皆様どうぞ拍手でお迎えください。(拍手)
渡邉 紹介いただきました渡邉でございます。船の科学館には“宗谷”がありますが、“宗谷”が活躍した時代はまだ高校生で、最後の6次のころは大学院生になっていましたが、当時は南極観測隊に参加するのは難しく、残念ながら“宗谷”には乗ったことがありません。日本の南極観測船はその後、7次隊から“ふじ”、そして25次隊から“しらせ”になりました。私は“ふじ”の時代から4回南極に行きました。今日はそういう経験を踏まえながらわが国の南極観測の歴史と、これからどういう方向に研究が進んでいくかというお話をしたいと思います。それではスライドを使いながらお話しします。
 今日の演題はわが国の南極観測、その半世紀の歴史と未来ですが、今年の隊が第46次南極地域観測隊です。途中、“宗谷”と“ふじ”の間、船をつくるために、一度観測を中断しました。“ふじ”の竣工とともに観測を再開するのですが、その間3年空いています。
 “宗谷”が最初に南極に行ったのは1956年11月8日、それから今年は47〜48年目で50周年に当る2006年11月には南極観測の半世紀にわたる歴史を祝おうとしています。そもそも南極とはどんなところかということから話を進めていきます。
 
■南極の自然
 地球の回転軸(地軸)が南極点で、南極大陸のほぼ真ん中に位置しています。周辺の大陸は南アメリカ、オーストラリア、アフリカ大陸で、南アメリカ大陸と南極半島の間の海がドレーク海峡で、その距離は約1000キロメートルぐらいですが、他の大陸とはだいたい4000〜5000キロメートルあり、すべての大陸から非常に離れた大陸といえます。
 南極大陸は長い間、人類にとって未知の世界でした。なぜ未知のままで残されたかということには、もちろんいろいろな理由があります。一つは南極大陸の周辺に冬期間発達する、パックアイス(浮氷)という海氷の存在です。南極大陸は差し渡し5000キロ程の円状の大陸です。パックアイスは大陸の沖合2〜3000キロメートルまで形成され、その面積は南極大陸に匹敵するほどです。それが夏になるとパックアイスの大部分がなくなって、大陸周辺に部分的に氷が残るだけになります。こうした氷の大半は、定着氷、つまり、岸に張りついた氷です。パックアイスはしょっちゅう動いていますから、風向きによっては水路、開水面ができたりするのですが、通常は厚い氷がぎっしり詰まっている状態です。
 このパックアイスの中を“しらせ”クラスの強力な砕氷艦でも航行することは不可能です。3月から9月の間は南極大陸はそういう意味で他の大陸から完全に遮断されています。
 夏になって浮氷がなくなってしまうと岸の近くの定着氷が主な航行障害となります。
 昭和基地のあるリュツォ・ホルム湾は毎年必ず定着氷が発達し、それを砕氷していかないと湾内に入っていけないという状況になっています。19世紀末までの船は帆船、その後に補助エンジンをつけた機帆船が出現します。白瀬探検隊の“開南丸”は209トン程の帆船で、18馬力のエンジンをもっていました。18馬力のエンジンは船が港を出たり入ったりするときに用いるエンジンで、砕氷航行はまったくできなかったでしょう。そのようにほんの100年前までは船は帆を使って航海していましたから、そうした帆船がぎっしり海氷のつまった中に入っていくということはほとんどできなかったのです。
 南極半島の地図を見ておわかりのようにそおには比較的大陸から近い(先に述べたドレーク海峡)のと、海流の関係で夏には海氷が早い時期になくなってしまうので近寄りやすいということを昔の航海者はそれなりに知っていたわけです。南極への初期の接近はこの付近から始まり、次第に南極海の全容が知られていったということになります。
 もう一つの接近を困難にした理由は、南極大陸周辺には低気圧帯があり、緯度40度から大陸縁辺までの海域には低気圧がいつもあって暴風圏となっています。40度付近は「吠える40度」(Roaring Forties)と呼ばれています。常に低気圧が南極大陸に向っています。“しらせ”はオーストラリアから昭和基地に向かっていくのですが、必ずこの40度、50度を通ります。そのときには周期的にやってくる低気圧で荒れた海を進んでいくことになります。うまくいくと低気圧と低気圧の間をすり抜けて低気圧に当たらないこともたまにはありますが、大概は嵐に悩まされます。砕氷船はその特有の船形のために非常に大きく揺れます。今日出発した大平艦長は、彼の航海の中で一番すごい揺れの時は53度傾いたと言っています。“しらせ”は砕氷船のため、スタビライザーという揺れ削減の装置のないお椀みたいな形ですからやむをえないのです。そうした海域を帆船で入って行くことは相当難しい航海でした。南極大陸が長い間人類から隔絶されていたのは、こうした定常的な海氷と気象の条件によるということができます。
 なぜこういった気候が生じるかというと、赤道を中心とした地域が地球にとっての加熱域、極を中心とした地域が冷却域となっているからです。南極域では、冬はほとんど太陽があたりませんから放射冷却によって熱が宇宙にどんどん戻されます。太陽からの放射を受け取るだけでは、地球はどんどん暖かくなりますから、もらうときは短い波長の頼射ですが、それを長い波長の赤外放射で宇宙に返します。放射収支で考えると、赤道域を中心とする地域ではプラスになり、大気や海は暖まります。それに対して極のほうの放射収支はマイナスとなり、どんどん冷えているわけです。南緯・北緯40度ぐらいから赤道側はいつも暖められる地域、それから北、あるいは南側の高緯度側は冷やされる地域となっています。
 そのままでは低緯度側はどんどん暖かくなり、高緯度側はどんどん寒くなる。それでは地球的に困るので、暖められた大気は上昇気流になって南北に向かい、そしてまた上空で潜熱を放出して南北に向いながら下降してきます。そういう大気循環をしながら、地球の熱源から地球の冷源に大気の顕熱、あるいは潜熱が輸送されます。大気中の水蒸気が凝結するときに凝結潜熱を出します。つまり水蒸気を輸送するというかたちで、あるいは大気の顕熱というかたちで熱が輸送されているのです。これを大気大循環といいます。
 言い方を換えれば、地球という気候のシステムを持っている機関があるとすると、その一つは加熱側のエンジンであり、冷やされる側がもう一つのエンジンであるといえます。
 地球は低緯度域と高緯度域の二つのエンジンによって気候や環境などのシステムを作り出し、また海の流れによって、その海の流れは地球の自転とも関係しますが、そうやって地球の自然はできている。そういう意味では極域は地球にとって非常に重要なところといえます。
 そういう観点から極域、それは南極だけではなくて北極域もちゃんと観測をしなくてはいけないということになってきたわけです。
 低緯度域から低気圧がしばしばやってくる。この低気圧撹乱は暖かい地域から寒い地域に、水蒸気(潜熱)あるいは顕熱というかたちで熱を輸送しています。南極大陸では冬はどんどん放射冷却して、温度が下がり、上空には寒気渦ができます。下がりすぎると、それを中和するように低気圧という形で熱が輸送され、混合して冷えすぎないように働きますが、その時低気圧は雪を降らします。この過程は南極大陸に雪という形で質量をもたらす仕組みであると同時に、雪ができるときに、凝結の潜熱を出して南極の大気を暖めます。しかしその熱は結局また宇宙に戻されます。そういう営みが毎日、毎日、毎年、毎年生じているのです。南極は地球の南の端にある、人里離れた寂しい場所で、わずかな動物しか住んでいないところです。しかし地球にとって非常に大事なところであることを基本的には認識していただきたい。
 
■南極探検の歴史
 これから南極探検の話をします。1772〜75年にキャプテン・クックが南極域に大陸があるのではないかと考え探検航海を行いました。日本の歴史で言えば、田沼意次の時代です。大航海時代と呼ばれるのは、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなどが大航海を行った15〜6世紀の中ば頃です。このころ種子島に鉄砲が渡来して、日本もだんだん近世に向かいつつあった頃です。徳川幕府が倒れ明治政府ができたのが1867年ですが、その少し前に南極大陸が発見されました。江戸時代の終わる少し前にやっと南極は人類の知識の領域に入ってきたといえます。
 南極を考えるときにジェームス・クックという人はどうしても欠くべからざる人で、この人が南極海を本格的に探検するのですが、最初の人ではありません。その前にフランス人が非常に活躍をします。1739年にブーヴェがブーヴェ島を発見、ケルゲレンがケルゲレン島を発見します。それらの島が昔から想像されていた南方の大地の一部に違いないと思われたこともあります。
 フランス人の大活躍に刺激されたこともあって、イギリスの大航海者、ジェームス・クックが南極大陸の存在を確かめる航海を行いました。昭和基地の少し北で人類としては初めて南極圏を越えます。そしてさらに71度を越えて南に航海します。そして大陸を高緯度で周航するのですが、彼は結局大陸を発見できませんでした。南極大陸というものは存在しないか、存在するとしてもさらに南の氷海の奥地、南極点付近にあると考えます。そこまでは海が凍っていてとても行くことはできないという報告をするわけです。
 しかし、キャプテン・クックは南極大陸の周りには浮氷帯があって、その浮氷帯にはクジラやアザラシなど海の獣がたくさんいると報告します。当時は海獣の脂は非常に重要な資源でしたから、それはそれなりに非常に大きな情報となります。特にこの当時は産業革命が始まったころですから、そうした資源の需要は非常に高かったわけです。そのキャプテン・クックの時代から40年間は、あれだけ偉い航海者がそう言うのだから、南極大陸はないのだろうと思われていて、大陸探索の歴史は空白のままとなりました。
 それを打ち破ったのがベリングスハウゼンというロシアの提督です。この人は1819年〜20年にヴォストークとミールヌイ、いまこの二つともロシアの基地の名前になっていますが、この二隻の船で航海をします。この人は非常に偉い人で、たぶん南極の探検史の中でこのベリングスハウゼンは特筆すべき1人だと私は思います。彼はただ探検するだけではなくて、海洋・海氷の調査をします。たとえば海水の温度の観測など、非常に科学的な調査をして、ともかくきっちり大陸を回って、彼は4回陸地を確認します。大陸に近づくことはできなかったのですが、彼は南極大陸が存在することを確信します。
 このベリングスハウゼンの時代に南極半島付近にはキャプテン・クックのもたらした情報によってクジラやアザラシがたくさんいることがわかり、海獣の狩猟者達がたくさんやってくるようになっていました。その中の一人にアメリカ人ナタナエル・パーマーという人がいます。それからイギリス人のエドワード・ブランスフィールドという人がいて、その人たちもやはり南極半島付近で大陸や島を見つけています。このベリングスハウゼンとパーマー、そしてブランスフィールドの3人が南極を発見した人々ということになっています。それは1820年〜21年で、引き続く時代にウェッデルによるウェッデル海の初航海、ビスコーによるエンダービラドの発見などがありました。南極大陸探険史として重要な時代です。1820年というのは徳川幕府が崩壊して明治維新になる7年前です。
 このころロシアの船が千島列島へ、あるいは英米の船が日本近海に現れて、日本が、異国船打払令を出すそうした時代です。ですから世界的にも活発な航海が地球的規模で行われた時代といえるでしょう。このベリングスハウゼンも彼が少尉の時代に難破した仙台藩の“若宮丸”の漂流民を長崎に送ってきたということが記録に残っています。
 南極探険にとって非常に大きな出来事は19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて、ノルウェー人のカールステン・ボーヒグルビンクという博物学者が1894年に初めて南極大陸に上陸したことです。誰が最初に上陸したかいうことに関してはいろいろ説があって、彼以前に1821年、ちょうどパーマーやベリングスハウゼンが大陸を見つけたころにアザラシ獲りにやってきたアメリカ人がたまたま獲物を追いかけていったら島があって、そこに上陸したということも伝わっています。そのジョン・デービスを最初の上陸者とする説もありますが、大陸というものに上陸をするという明確な意思を持った人はこのボーヒグルビンクだろうと思います。


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