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<第3回>日本の船員教育の原点、帆船“日本丸”
練習帆船“日本丸”元船長・元東京商船大学教授 橋本進氏
 
 
 
司会 本日は橋本船長が昭和51年(1976)にアメリカ独立200年記念パレードに“日本丸”船長として行かれましたときのお話を中心として、現在の帆船教育、日本人が船員になるための帆船教育、どんなことをやっているかということを中心にお話ししていただきます。
 本日お手元にある資料の「Shipping Now 2003」は、日本船主協会からのご協力を得て頂戴することができました。この場をお借りして厚くお礼を申し上げます。
 また、皆様こちらに来られましてお分かりになっていると思いますが、練習帆船の“海王丸”がいまちょうどこの船から見える桟橋に入っております。本日はこの“海王丸”を運航しております航海訓練所と、本日お話ししていただきます橋本進元“日本丸”船長のご好意によりまして、講演会終了後、皆さんに特別に“海王丸”に乗船していただくということになりました。
 それではさっそく橋本船長をご紹介いたします。橋本進船長、どうぞ。皆様、拍手でお迎えください。(拍手)
橋本 声が大きいとマイクは使わないのですが、やはりマイクは使ったほうがいいというのでマイクを使わせていただきます。橋本でございます。よろしくお願いします。座っての講義には慣れておりませんで、もっぱら立って講義をする癖もついておりますので、今日は立ったままでいろいろ話をさせていただきます。
 お手元にレジュメをお渡ししました。訓練というのはいったい何なのか。いくら口で言っても、わかるものではありません。いまから28年も昔になりますが、私が船長時代に乗った“日本丸”で、ニューヨーク200年記念ということでニューヨークまでまいりました。そのときのフイルムがあるので、これを30分に調整してお見せします。どうぞそれも見てください。訓練は聞くよりも目で見て、さらに“海王丸”を見るほうがよりいいかと思って、そのような企画をつくりました。よろしくお願いいたします。
 昭和初期、東京高等商船学校には練習帆船“大成丸”、神戸高等商船学校には練習帆船“進徳丸”があり、帆船による実習教育を実施していました。また地方には函館、富山、鳥羽、隠岐、児島、広島、大島、粟島、弓削、佐賀および鹿児島の11公立商船学校がありました。この商船学校のうち、専属の練習帆船を持っていたのは函館商船学校(“函館丸”、365総トン)、広島商船学校(“芸備丸”、199総トン)および鹿児島商船学校(“霧島丸”、999総トン)の3校に過ぎませんでした。
 昭和2年(1927)3月7日、下田を出港した鹿児島県立商船水産学校練習帆船“霧島丸”は銚子沖で荒天に遭い、3月9日「舵機故障のため救助を求む」のSOS、トトト・ツーツーツー・トトトを発信したまま消息を絶つという事件が起きました。
 ところが、この惨事が世論を沸き立たせ、文部省は公立商船学校11校の生徒の練習用として、大型練習船2隻・“日本丸”と“海王丸”の建造費を昭和3年度および4年度の2か年度の継続経費として計上し、第55帝国議会において承認されました。1隻あたり91万円で、1トン当たり400円の計算です。昭和3年、4年と続く昭和初期の大不況時代に、これだけの大金を出して2隻も建造したところに、その当時の国民の海運に対する大きな意気込みを感じとることができます。ちなみに、昭和59年(1984)に建造された“日本丸”II世は53億円、1トン当たり200万円で建造されています。
 さて、太平洋戦争中これらの練習船はどうなったかといいますと、“日本丸”・“海王丸”は文部省の航海練習所がこれを運航しておりましたが、昭和16年(1941)12月8日の太平洋戦争勃発と同時に逓信省がこれを管理するようになり、航海実習のかたわら、もっぱら九州から関西方面への石炭運びをやっておりました。昭和18年(1943)からは逓信省に航海訓練所を設立し、すべての練習船を管理するようになりました。
 そうこうしているうちに、昭和20年(1945)6月24日進徳丸は明石市西方の二見沖でアメリカ・グラマン機の襲撃を受け半没してしまいました。戦後これを引き揚げて、汽船練習船として活用しました。
 練習帆船“大成丸”は終戦後の昭和20年(1945)10月9日に神戸港内で触雷・沈没し、ばらばらになりました。帆船“大成丸”の生涯ははここで終止符を打ったということです。
 戦争に生き残った“日本丸”と“海王丸”は海外からの帰還輸送に従事しました。私も実習生のときの昭和23年(1948)、佐世保から中国・天津の外港、大活(タークー)へ引揚者輸送に行きました。私より1年先輩は鹿児島からビルマ・ラングーン間の引揚げ航海に従事しています。
 なぜ練習船が海外からの帰還輸送に従事したかといいますと、第一に政府の要望があったからですが、第二は帰還輸送に従事すると進駐軍−GHQから燃料が補給されるからなのです。第三は当時許可されていなかった海外への航海ができるからでした。
 “日本丸”は昭和27年(1952)5月に、“海王丸”は同30年(1955)12月に本来の帆船に復旧しました。“日本丸”は昭和59年(1984)にその業務を“日本丸”II世に引継ぎ、現在は横浜市の(財)帆船日本丸記念財団に所属し、日本丸メモリアルパークのドックに係留され、現在に至っています。“海王丸”は平成元年(1989)にその業務を“海王丸”II世に引継ぎ、現在は新湊市の(財)伏木富山港・海王丸財団に所属し、わざわざ「海王町」という名をつけた新湊市海王町の海王丸パークに係留し、皆さんにお見せしているところです。
 これが練習船の歴史のあらましです。
 
 ところで、我々が住んでいる地球の表面の約71%は海で、その平均深さは約3,795メートル、富士山の高さ3,776メートルですから、ほとんど同じくらいの深さです。一番深いところは北太平洋・マリアナ海溝のピチャジ海淵で深さは11,034メートルあります。
 一方、29%の陸地の平均高さは約875メートルです。これは筑波山の876メートルに匹敵します。一番高いエベレスト山は8,848メートルです。
 このように広く深いところに海水をたくさん蓄えているので、太陽のエネルギーを大量に蓄えられます。蓄えられたエネルギーは我々に、いろいろな影響を与えます。その影響は何かといいますと、気候であります。さらに、日本の南岸沿いを流れる暖流の黒潮や三陸沖を南に流れる寒流の親潮が我々の生活に大きな影響を与えているということは、これもご存じのとおりです。
 このように、日本という国は周りを海に囲まれていますので、海の影響を大きく受けます。
 その第1は気候です。日本は雨が多く森林はよく育ち、作物もよく取れます。我々も春・夏・秋・冬の季節感あふれる1年を過ごしています。そして、そこで日本の文化が大きく育まれたということは誰しも認めるところでしょう。
 第2は海流です。日本海流は黒潮ともいいます。赤道付近を西に流れる北赤道海流は、やがて北に向きを変え、台湾の東でさらに北北東に向きを変えて沖縄を通過、本土の南岸沿いに流れていきます。その分派は屋久島付近から対馬海峡へ流れ込み対馬海流となり、日本海側の沿岸沿いに北東に向かっております。日本は暖流と寒流の出会う場所に位置しているので、魚介類が豊富に取れます。ですから日本人は、昔から魚介類を食料として生活してきました。
 第3は海上の交通です。日本の人口は約1億2千万人でアメリカの約半分、国土はアメリカの約25分の1、しかも周囲は海でありますから、必需品はどうしても船に頼らざるを得ません。これが日本の置かれている立場です。この海上交通については後ほど改めて説明します。
 
 次に、いまなぜ帆船教育かについて話をしたいと思います。
 明治8年(1875)に隅田川沿いに私立三菱商船学校が創設されました。これが東京商船大学の始まりです。いまは東京水産大学と一緒になって東京海洋大学となりました。
 明治30年(1897)商船学校練習帆船“月島丸”が建造されました。これが日本における総合的な帆船実習教育の始まりで、それからずっと今まで帆船による実習教育が続いているというわけです。この月島丸は明治33年(1900)11月中旬、駿河湾で台風に遭遇し沈没しました。その代替船として明治37(1904)年練習帆船“大成丸”が建造されましたが、その“大成丸”も昭和20年(1945)10月9日神戸港内で触雷沈没しました。しかし、帆船教育の理念、それは人間教育でありますが、この理念は脈々として引き継がれてきました。この間には戦争や、そのほか細かいところではいろいろなことがありましたが、100年余り続いている帆船教育の理念は今でも変わっておりません。
 
 船員教育になぜ帆船実習が必要なのかという議論は古くからありました。特に戦後の昭和27年(1952)、“日本丸”の帆装を完全に復旧しようと計画したとき、さらに昭和48年(1973)のオイルショック前後に“日本丸”の代替船を造らねばならないというときに、大いに議論されました。そのとき必ず出てくるのは「時代遅れの帆船教育よりも、今すぐ役に立つ人間をつくれ」という、いわゆる即戦論で、これが船会社の要望でした。産業界からすれば、今すぐ役に立つ教育をして欲しいのです。ところが教育というもの、特に帆船実習が目指す人間教育は余裕がなくてはなりません。今すぐにと尻をたたいてどうのこうのと言う問題ではないのです。教育全般について言えることは、教育には時間と金が必要だと言うことです。
 
 それでは帆船や船での教育のどこが良いのでしょうか。
 昭和48年(1973)にオイルショックが発生しました。そのとき経験された方もあるかと思いますが、人々はトイレットペーパーの買いだめに走り回りました。このパニックによって暴露された日本国民のモラルの貧困さに対して、先見の明のある為政者は愕然としました。「この日本人のモラルの低下、これでいいのだろうか」ということで、これからの子供たちに何を教育しなければならないかを模索し始めました。そして、第一番に立ち上がったのは兵庫県、次いで宮城県でした。その時、なぜか船が選ばれました。そして「青年の船」とか船を利用したいろいろなことを計画し始めたのです。
 旧文部省も自治省も、そこから取り組み始めました。「世界青年の船」とか「アジア青年の船」とかいろいろと青年の教育の場を作りました。その当時、私も少し関係していましたが、当時の政府はだいたい4億円から5億円の予算を使っていました。学校の先生方の初任者研修も船を使用していました。皆様のなかでこの研修を受けられた方もあるかも知れませんが、この効果は十分あったようです。しかし、一番重要視しなければならない先生方の初任者研修は、平成15年(2003)3月で終止符を打ちました。予算がないという理由からです。残念でなりません。


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