「巌窟王を巡る煩悩」
第3回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 高校生以下部門 優秀賞
武田 絵利奈(たけだ えりな)
私が全七巻にも及ぶその長編小説を読み終えたのは、十月に入って間もない頃だった。「モンテ・クリスト伯」。十九世紀に活躍し、今なお世界で愛され続けるフランスの文豪アレクサンドル・デュマの代表作の一つである。読書がこんなに辛かったことは久し振りだった。文体が古い上、横文字の名前は覚えにくくおまけにこの長さだ。尤も長さについては勢いに任せて読破していったので感じる事は次第に少なくなっていったが、それをさておいてもともかく苦行であった。
私は読書をするとき、必ずと言っていい程イメージの組成という作業を行う。簡単に言ってしまえば脳内で読書と共に描画をするのである。「無数の人々が行き交う交差点」と読めば直ちに渋谷のスクランブル交差点を連想するし、また「大きな観覧車」とくれば梅田HEPのそれを思い浮かべる。人物においては顔以外のところが映画のワンシーンの様にくっきりと具象化されるのだ。読書歴の長い私であるが、これが行われはじめたのがいつ頃だったかあまり覚えていない。しかし挿絵のない文章を読み出したのと映画や漫画によく触れるようになったのがほぼ同時期だったから、きっとそのあたりだろう。
さて前述した「モンテ・クリスト伯」だが、これについては今までの法則、つまり文章から画像への変換が殆どできなかったのである。原因は、私が舞台となる国と時代を知らないからだと思われるが、たとえば細かに描写された服装ひとつを取ってみても、さっぱりイメージが浮かんでこなかった。ちょっと、屈辱的。いや、そんな感情を無視したとしても、これが作品の読みにくさの一つだということは間違いないと思う。すっきりとしない気持ちを胸に抱えつつ、「モンテ・クリスト伯」の世界に別れを告げようとしていたその矢先、私は新聞のテレビ欄にこんな文字列を発見した。
「新・巌窟王」
巌窟王とは言わずもがな「モンテ・クリスト伯」邦訳題である。さて、深夜二時から始まるこの番組は一体何なのだろう。好奇心にかられて私はその日の入浴後、ミネラルウォーターのペットボトルを片手にテレビの前に陣取った。かくしてブラウン管から流れ出したのは、思いもかけずアニメだった。しかも、どこか様子が違う。アニメなら私のすっきりしなかったものを解消してくれるかもしれないと思って少しわくわくしていたのだが、目の前で展開していく映像はものすごいCGなのだ。アルベールの髪や服には不思議な柄があり、動きに合わせてそれが変化していく。それに、なぜ宇宙都市が舞台でおまけに主人公がアルベールなのだろうか。ちなみに原作のあらすじをAmazon.cojpのレビューから抜粋させて頂くと「本名、エドモン・ダンテス。マルセイユの前途有望な船乗りだった彼は、知人たちの陰謀から無実の罪で捕らえられ、14年間の牢獄生活を送る。脱獄を果たし、莫大な財宝を手に入れたダンテスは、モンテ・クリスト伯と名乗ってパリの社交界に登場し、壮大な復讐劇を開始する・・・。つまり物語の主人公はエドモンであって、アルベールは彼の復讐に巻き込まれる一人の登場人物にすぎないのだ。驚きと戸惑いでいっぱいになりながら、しかし今更やめる訳にもいかず私はぼんやりと「巌窟王」を見続けた。しかし次の瞬間、私は思わず腰を浮かせていた。エドモン・ダンテスが現れたのだ。現れただけなら良かったのだが、なんと彼の肌は青く、目は黄金に輝きおまけに歯は長く尖ってまるで牙である。長い髪を背に波打たせたエドモンの姿は正に吸血鬼そのものであった。
まさかこんな番組だったなんて・・・私が「巌窟王」に抱いていた期待や好奇心はがらがらと音を立てて崩れた。エドモンはもっと魅力的なんだと必死に反対の狼煙を上げる心の声が聞こえた。何とかエンディングまで見終わり、私は大きな息を吐いた。なんとも言い難い感情が体の中を浮遊している。思わず唸ってしまった。冷え冷えとした布団に潜り込んでからも、私の脳内では吸血鬼エドモンと顔のない「私の」エドモンとがせめぎ合い、なんだか奇妙な気持ちで朝を迎えることになったのであった。
ところで、私には貴重な友達が幾人かいる。世間に言う、おたく達である。集まってするのは漫画の話、アニメの話、読む本はボーイズラブ小説、授業中はずっと絵を描き小説を書いているような筋金入りおたくの彼女達に、私は前夜の「巌窟王」について尋ねてみた。予想に反し、皆知らないと言う。私は、彼女達が知らないアニメがあるということに驚きと安堵を感じるとともに、少しだけがっかりもした。結局「モンテ・クリスト伯」も「巌窟王」も私の中で小さなしこりとして残るに終わりそうだった。
しかし、恐ろしいことに翌日の昼休み、彼女たちは再び「巌窟王」を話題に出してきたのである。それも、「格好良い」という賛辞とともに。私が素っ頓狂な声を上げると、どこから仕入れてきたのか興奮した口調で教えてくれた。「巌窟王」は「アニマトリックス」の監督を手がけたクリエイターが制作していること、従来の型を破って幻想世界のパリを舞台にしたこと、カヴァルカンティ役が有名な声優だということ、エドモンの心理描写のために主人公をアルベールにしたこと、衣装などに使われている2Dテクスチャという技術。次から次へ飛び出す話に私は目が眩む様な思いがした。内容に驚いた、というより彼女達に圧倒された。ひきつった顔に笑みを浮かべ、へぇ・・・相槌を打った私に向かって、彼女達は輝く瞳で次回の放送時間を教えてくれたのであった。
午後の授業の間、私は気持ちを改めてもう一度「巌窟王」について考えてみた。見方というのは面白い。そうか、あれは格好良いんだ。本当に楽しそうに話していた友の姿を思い出し、私はあの夜崩れたものの中に芽生え始めた一つの可能性に気が付いた。全く新しい気持ちで接してみればいいのかもしれない。原作に拘泥するのをやめてみよう。それでもってやはりつまらなければ相性が悪いと割切れば良いのだ。私は漸く達したこの結論に大いに満足して、ちょっと嬉しくなったのだった。
あれから四ヶ月、どうなったかというと、私はちょっと「巌窟王」が格好良く思えるようになった。主人公のアルベールの目線から世界を見る。エドモンを疑う。ユージェニーを愛する。原作と異なる要素の中にはどうしても許せないものもあったが、それを差し引いても面白かった。最初は目が回る様であった例の2Dテクスチャも慣れてくるといつもより良いかもと感じるようになった。本当に、見方というのは面白い。
ずっと、原作である本や漫画やゲームを忠実に再現する、それがアニメだと思っていた。そうでなくては意味がないと。しかし、「巌窟王」の原作を裏切る大胆な構成には新しい魅力が潜んでいて、私はなんだか視界のフィルターが除かれた様な気持ちを味わった。結局、アニメは脳内映像化作業の延長なのだろう。私の場合それは表現法の変換だけで済むが、クリエイター達の脳にはきっと「こうすればもっと面白くなる」というアイディアと面白さへの探究心がいっぱいつまっているのだ。
ちょっとアニメを見直してもいいかもしれない。
静まりかえった丑三つ時のリビングで、大分話の進んだ「巌窟王」を見ながら、私は今、そんな思いを人知れず心に抱いている。
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